4年前の手帳に書いていたこと

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久しぶりの休日に戸棚の整理をしていたら手帳がわんさかと出てきた。1番古いもので4年前のものがあったので過去の自分と対面するべく古い順に手帳たちを開く。ふむ、学生から社会人になって生活環境が激変していて内面も大きくではないが変わっている。とある時期に差し掛かると(大抵は夏である)、毎年のように落ち込んでいて面白い。特に4年前の落ち込みようは尋常ではなく、日常を綴る欄に詩やエッセイを書いていたりしていて興味深く読んだ。せっかくなのでここに一部の作品を載せておく。ナルシシズムが全開なのは今でも読んでいて恥ずかしくなるが手帳の中の記述なので予めご了承いただきたい。

 

「雨」

副題 私の神は雨の中に

私は雨女である。遠出をすれば大体曇りから雨になる。雨を私は愛しているので自分自身が雨女なのは大した問題ではない(一緒に遊びに行く人たちからすれば迷惑な話だろうが)。雨の日の深夜から早朝がたまらなく好きである。雨音の中で眠るといつもよりぐっすりと眠れるし早朝に雨の中を散歩することは私の中で「素晴らしいことランキング」のベストテンには入る。ひっきりなしに鳴るスマートフォン、過剰なバッシングと賞賛、SNS、いやに耳に残るCMソングたち。そういったものを雨音はすべて消してくれる。とまではいかないけれど優しく包んで隠してくれるように感じる。雨の日に外に出た瞬間のあのひんやりとした空気に触れた時に私はとても落ち着いてリラックスできる。死ぬなら肌寒くなった秋頃の雨が降る早朝と決めている。一番冷たくて優しいのがその瞬間だと思うから。

 

「友情」

あるようでないもの

ないようであるもの 

 

「孤独」

魂の本質

存在する為の条件

逃れられないもの

子供が愛し、大人が怖がるもの

 

「幸せ」

「桜がもうすぐ咲くなぁ」と心待ちにしているとき

午後2時ごろのポカポカとしたひだまり

お昼寝、おやつ、夜食

好きな音楽と出会った瞬間のあの感動

暑いときの冷たいシャワー

本を読み終えて閉じた時の音

熱い飲み物の湯気

飲み終わってもまだ温かいマグカップ

本屋で何時間もいるとき

スーパーでの買い物

給料日

焼き菓子を焼いているオーブンを開けたとき

雨の日の図書館

映画館の照明が暗くなるとき

おろしたての服

手触りのいいタオル

ミュージカル、舞台、ライブ

親しい人との会話

 

「朝」

希望と絶望の確認

 

「昼」

室内

 

「海」

父に連れられて海へ行った。

1歩ずつ沖へ進んでいくと海底が深くなり、水面が自分の足、腹、胸、首へと上がってくる。まるで緩やかな自殺をしているようだと思った

 

「大人」

対比的なもの

 

他にも10編ほど見つかったが長くなりそうなのでここまでにしておく。書かれた肉筆の字を見ると殴り書きされていたものも多く、文法も表現も荒削りでとにかく心が苦しさで喘いでいるのがよくわかる。偉いね、よく頑張ったねと声をかけてあげたい。過去の私がもがきながら、苦しみながら生きてくれたおかげで今の自分が存在しているのだから感謝しなければならない。でもさあ、今だって結構悩んでるよ。そりゃ4年前の当時に悩んでいたことはもう解決したり時間と共に風化してしまったことも多いけれど別の問題や悩みを4年後の今の私は抱えているし未来の私だって悩むのだろう。加齢によって増えていく問題もこれから出てくるだろうし人生の行方だってそろそろ考えておいた方がいいのかもしれない。つまり端的に言えば結婚したいだとか子供を持ちたいだとかそういう話になってくるけれど自分1人ではどうにもならない問題でもあるのでどうしようもない。結論、難しい。みんなどうやって解決したり結論づけたりしてるんだろう。

あきらめることと受け入れることはよく似ているけれどどこかで違っていて、その違いってどこにあるのだろうと最近ずっと考えている。過去にも戻れず、未来にも行けない私は容赦なく進んでいく今という時間軸から動けないままだ。

つまり、そういうことなのかもしれない。そうかと手帳を開いて今感じていることを書いてみた。今から4年後の私がこの文章を読んでどう思うのかを知るのが楽しみなのでもう少し生きてみようと思う。

夢が叶っていたかもしれない日

f:id:sasanopan:20180418222709j:image 先々週くらい前に突然仕事がまわってきた。詳しくは省くが、どうやら先輩の代打として上司と共にとある媒体の製作をするとのこと。あまりの急なことでこんな下っ端の私でも大丈夫かと胸は不安で埋め尽くされていたような気がする。それからは事前資料を作成したり先輩や上司に相談しつつ自分の想像するプランを立ててみたりとあっという間に日々は過ぎていった。

なんとなく、ただなんとなくとしか言いようがない。仕事の作業をしながら漠然と思った。

「これ、私の夢だ。」

あぁ、そうだった。大学生の頃、おそらく就職活動で悩んでいたときに将来こんな仕事がしたいと社会の何も知らずに思っていたのだった。その夢の中で私は自分の感情もスケジュールも人間関係もなにもかもを完璧にコントロールしていて堂々とやりたい仕事をやっていた。と思う。さて、思っていたのは覚えている。しかし、それは夢ではあるけれど目標ではなかった。絶対に叶わないとわかっていたから夢を見るのだ。そのときは漠然とただ胸の中で抱いていたイメージで就職活動のときには早々とその夢を諦めて一般企業に就職したし、そこで見事なまでに肉体的にも精神的にも滅茶苦茶になって新卒というのに2年も経たずに退職してしまった。退職してから転職活動をするときもあの頃の自分の夢のことなんか覚えてなかった。

だけど今こうして出来ている。そのことに気づいたときはあまりにも驚いて、ショックで、こんなことが人生にあるのかと胸が潰れそうだった。嬉しいだけではなく就活当時の絶望やあきらめや悔しさを一緒に混ぜて何色かもわからなくなった濃くてドロドロとした何かが胸から流れ落ちていく感覚さえあった。怖かった。まだ私は夢を叶えるだけのスキルも経験も足りていない。こうしたチャンスをありがたく受け入れるだけの器もない。頑張ってはいるけれどまだ早すぎる。怖い。

「スケジュールなんとかなったから代打しなくてもいいよ。ありがとね。作った資料もらえる?」

先輩にそう声をかけられたのは媒体製作直前の打ち合わせ前のことだった。ホッとした。せっかくやった資料作成がどうこうとか考えていたプランだとかを横取りされたなんて全然思わなかった。なんという心を読んだかのようなタイミング。実はこの人エスパーじゃないかと先輩を見つめると一瞬の間があって「うん」と言われた。なるほど。エスパーらしい。

夢を見ることと諦めることはきっと紙一重で、叶わないからこそ見続けることができる夢もあるだろう。叶えたくない夢だってあるはずだ。今回のものは「叶えることができたらいいな。無理だろうけど」といったものでそれを今まで目標にまで下ろしてこなかった自分の甘さが原因だ。ここだけの話、今の仕事先で就職できるなんて思ってもなかった。なんとなく自分の夢がそこにあって「受からなくても職場見学と必要なスキルがわかるだろう」と電話をかけ、あれよあれよという間に働くことになり、ここに落ち着いてしまった。憧れの職業を得て、今現在のところ毎日がとても楽しい。頑張りたいと思うし頑張っているとも思う。

ただ、ただ今回のことは青天の霹靂で予想外のものだった。それだけだ。私があのときに感じた夢を叶えることの恐怖は人生の中でこれから幾度となく繰り返される出来事だろう。夢は夢のままでいいこともある。だけど叶えたいとほんの少しでも思う夢なら目標にしてみてもいいのかもしれない。大丈夫。きっとやれる。

はじめてのカウコン

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ジャニーズにハマってかれこれ3年ほど経つがジャニーズカウントダウンコンサート(通称:カウコン)をリアルタイムでテレビ視聴したことがない。ハマって1年目のときには自担であるV6のグループとしての初出場した紅白歌合戦も見ておらず2年目も見れなかった上に録画の画質設定を失敗するというミスを犯した。大げさかもしれないがジャニオタとしてこれらはアイデンティティの関わる重大な危機である。では「なぜお前はジャニオタというのに見ていないのか」と問われればその答えは実に簡単で日本にいなかったからだ。ミュージカルやストレートプレイ(芝居)を好む私は年末になると渡英し、冬季休暇をフルに使ってギチギチの日程の中で劇場に足を運ぶというルーティンを繰り返していたのでリアルタイムも何も時差がある土地にいるので見れなかったのである。ちなみに家族から「V6出てるよ」と紅白歌合戦の画像が送られてきたときは思わず世界の中心ならぬロンドンの中心で「V6が見たい」と叫んだ。恥である。いろんな方面に申し訳ない。つまり、毎年この時期になると私は舞台オタとしての私をとるのかジャニオタとしての私をとるのかで非常に悩むことになるのだが、3年目にもなる去年は渡英の予定を立てることがなかった。というのにカウコンのチケットを申し込み忘れるという失態。なんたること。仕方ないので今年は家で紅白歌合戦からのカウコンをテレビで見ることにするかとあれやこれやと私が考える最強の大晦日を練り上げていたところ、姉(彼女もまたジャニオタである)がチケット当選したから一緒に行こうと声をかけてくれた。姉よ、愛してる。

大晦日。始発の新幹線で東京へ向かい、そのままディズニーへ行って1日満喫しつつそのまま東京ドームへ向かったが体力はもうほとんど残っておらずボロボロで近くのベーカリーカフェで大量に砂糖を入れたミルクティーと菓子パンを胃の中に収め、付け焼き刃としてリポビタンDを飲んで体力のドーピングをはかった。こんな状態で楽しめるのかと不安がる私に姉が「リポビタンDよりもジャニーズの方が効く」と自信満々で言う。今思えば「こいつは何を言っているんだ」であるが、その日ほとんど寝てなかった私は「わかった。なら大丈夫」と神妙に頷いていた。姉も私も疲れていた。

東京ドームへ向かう電車の中で嵐のコンサートグッズと思われるカバンを持った人やKAT-TUNのコンサートグッズらしきペンライトがカバンから顔を出している人がいてなんとなく電車の中が既にカウコンの雰囲気である。遠足は帰るまでが遠足とよく言われるがカウコンは行くときからもカウコンなのかと少しずつ自分の中の気分があがっていく。最寄駅に到着するともうそこはジャニオタの聖地と化していて年齢や担当グループが異なる多種多様な女性たちが各々自担グループと思われるウチワを持って撮影したり語り合ったりしていて何となくこちらも浮かれる。姉がカウコンのウチワを欲しいと言うので私もついていった。なんとなく「私は今回買うのはV6だけでいいかな」(私はV6、ジャニーズWEST、Hey!Say!JUMP、岡本健一さんが好きないわゆる掛け持ちファンである)と思っていると姉が「ええ!買わないの!ありえない!」と驚くので「だって買ってもそんなに見直したり眺めたりしないし…」と応えると「違う!買うのが楽しいのに!何故買わぬ!カウコン来ないと買えないのに!?欲しいなら買う!それでいいの!」と言われ、確かにそうだなと思い自担グループである3グループのウチワを購入しようと物販に並ぶ。隣のお姉さんがSexyZoneのウチワを買っていてチラリと見た私。うむ、かっこいい。素晴らしくかっこいいではないか。そして気づけば「あ、SexyZoneのウチワもお願いします。」と口走っていた。あれ、おかしい。1枚だけ買うはずだったウチワが何故か4枚になっている。私はSexyZoneの曲をほとんど知らないジャニオタだというのに買ってしまった。全世界のセクガルさん、おすすめ曲あれば教えてください。別の物販場所でグッズを買っていた姉と合流する。私を見てドヤ顔をする姉。ウチワを大量に買ったジャニオタの妹を眺めるのはさぞかし楽しかろうと思っていたら「見て。自担がかっこいい」と間髪入れず彼女の自担ウチワを突き出された。そっちかよ。せっかくだから東京ドームを背景にウチワ持って写真を撮ろうとウチワを広げる私と姉。近くにいた人に「撮りましょうか」と声をかけてもらったのでササッと撮ってもらった。すごい。ジャニオタ優しい。近くには警察官が拡声器を駆使しながら誘導していて「素敵なジャニーズたちに見られても恥ずかしくないように皆さんも素敵な移動をよろしくお願いします。」とか他にもジャニーズの有名曲のタイトルを使っていた。面白かったので少しだけ耳を傾けつつ2人で笑った。ハロウィンとかで有名な警察官の人なのかな?

東京ドームに入ったあとは楽しすぎてあまり記憶がないのだが(マジでリポビタンDよりもジャニーズが効いたことは書いておく)、驚いたのはテレビで見るカウコンと実際に会場入りして体験するカウコンは大きく違うということだった。以下箇条書きにする。

 

テレビで見るカウコン

・ジャニーズがいっぱい出てくる

・コラボとか色々楽しい

・カウントダウン楽しい

 

会場入りして体験するカウコン

・ジャニーズが怒涛のように出てくる

・びっくりするくらい出てくる

・見たい人がいっぱい出てくる

・パフォーマンスしていなくてもいる

・待機とか移動している

・動いている。話している

・カメラに映ってなくても小ネタを挟んでいたりパフォーマンスしている人もいる

・ジャニーズを見ているジャニーズ楽しい

・目が足りない。双眼鏡を持つ腕が足りない

・ペンライトとウチワを持つ腕も足りない

・見たものを処理する脳が足りない

・なんかもう自分が足りない

・堪能するために自分が100人くらい欲しい

こんなかんじ。とにかくジャニーズというジャニーズがワラワラと出てくるし東京ドームは広いので正面ステージ、センターステージ、サイドステージ、バックステージにそれぞれ見たい人がいると何もかもが追いつかない。視野の限界を超えたい。超広角レンズと拡大レンズを目に装備したい。テレビ放送で映ってない美味しいところが多すぎる。個人的に放送されなくて残念だったのはジャニーズシャッフルメドレー(各グループが自分たちの曲ではなく他のグループの曲をパフォーマンスするメドレー。とても楽しい)のHey!Say!JUMPがバックステージでKis-My-Ft2の「キ・ス・ウ・マ・イ 〜KISS YOUR MIND〜」を歌っていたときにキスマイタワー(ググってください)をしていてメインステージでKis-My-Ft2が本家キスマイタワーをしていてその2つが放送されたのだが、実はセンターステージでジャニーズWESTもキスマイタワーをやっていて。それはもう楽しそうにやっていたので出来れば映像に残しておいてほしかったなぁ。無念である。

あ、カウコンに参戦しているジャニオタたちが色んなグループのオタ芸を網羅していてそれも参加して初めてわかったことである。というか習得するのが異様に早かったというか。なんてジャニーズ学の偏差値が高い集団なんだ。素敵。

例えば、Kis-My-Ft2の「SHE!HER!HER!」という曲で「キスマイ!」という合いの手を入れるタイミングが何回かあるのだが

・1回目のタイミング

「She! Her! Her! She! Her! Her! She! Her! Her!」

キスマイ担「 キスマイ!」

・2回目のタイミング
「She! Her! Her! She! Her! Her! She! Her! Her!」

会場の大勢「「キスマイ!!!」」

といった具合で「ノれるものは全力でノる」というジャニオタの楽しむことに対する熱量に感動した。V6の「Music for the People」に至っては会場ほぼ全員が「フッフー!」と合いの手を入れており、「すごい…本当にすごい…ジャニオタってすごい…」とひとしきり感動してしまった。さて、カウコン全体としての感想はもう私の2018年エンタメ総選挙ぶっちぎりの1位確定なくらい楽しくて多幸感に溢れたものだったに尽きるけれど、コンサートとしてのクオリティはやはり各グループ単体の方が断然に高いと思う。世界観とかセトリとかあるしパフォーマンスレベルもやはりリハーサルを重ねているのといないのでは大きく違う。よってカウコンはどちらかといえば「完成された作品を観に行く」ものではなく「みんなで楽しく盛り上げて作り上げていくもの」という雰囲気が強く、カウントダウンパーティーに学園祭(文化祭)を混ぜたようなものだと思った。その分、放送されない前半部分の各グループ単体による自分たちの曲のパフォーマンスには舌を巻いた。あと東山紀之さんとジャニーズJr.のやつも動きが揃っていて実にかっこよかったです。帝劇クオリティ。そういえばKAT-TUNの活動再開が発表されたときに隣にいた姉が号泣しながら私の腕をこれでもかというくらい握りしめていて、私の左腕の筋繊維に彼女の指がめり込んでいるのではないかと思うほどだった。本音を言おう。本気で痛かった。けれど「よかった…よかった…。」と泣きながら喜んでいる姉を見ると「よかったねぇ」としか言えなくなってしまい、私の左腕1本くらいくれてやっても別によかろうという気持ちにまでなってしまった。

終演。姉と2人で楽しかった楽しかったと言い合いながらまた物販へ赴き、ウチワをまた購入した。買ったのは私である。キスマイウチワである。いや、あの、だってキスマイのパフォーマンスがあまりにもかっこよかったものですから…仕方ないじゃん…。

ジャニーズカウントダウンコンサートはめちゃくちゃに楽しかった。会場全体のあのワクワクとした雰囲気や観客や参加しているジャニーズたちの楽しい気持ちの相互作用はどんな栄養ドリンクよりも私を元気づけて幸福にしてくれた。安っぽい言葉になってしまうけれど「2018年も頑張るぞ」という気持ちになれたし今もその気持ちは継続している。ジャニーズにハマってからそのジャンルの大きさと情報量の多さに困惑することも多かった。光が大きければその分闇も深くなり、あれだけ膨大な量の愛を受け取ることができる代わりに果てしない憎悪だってぶつけられるであろうジャニーズ。日本の娯楽ジャンルの中で最大規模である彼らを取り巻く状況や彼ら自身に対して色んな意見や要望が日々叫ばれているけれど、間違いなくあのカウントダウンコンサートにいたときの感動や多幸感は本物で素晴らしいものであったということを私は言いたい。素晴らしかった。あれだけの「好き」を集めた空間は他では再現できないだろう。それくらいの「大好き」があの中にはあってそれぞれの「カウコン楽しかった」が今の私と同じように日々の生活の中でも支えとなっている。すごい。愛だ。愛である。まさしくAll you need is Loveの世界だった。

 

ジャニオタの皆様

そうではない皆様

2018年あけましておめでとうございます

今年もエンタメを摂取して私は生きます

 

 

オマケ

カウコンのために作ったうちわ

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ありがとうございました。

本当にありがとうございました。

 

 

舞台「岸 リトラル」感想 〜腐敗する父の死体は何を語るか〜

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公式サイト

『岸 リトラル』 | 主催 | 世田谷パブリックシアター

2018年3月17日公演

兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール

作:ワジディ・ムワワド
翻訳:藤井慎太郎
演出:上村聡史

出演:岡本健一 亀田佳明 栗田桃子 小柳友
鈴木勝大 佐川和正 大谷亮介 中嶋朋子

 

※この記事は物語の核心に触れるネタバレをしている可能性があります

 

あらすじ

青年ウィルフリードは名前もわからないような女と最高のセックスをしているときに疎遠になっていた父イスマイルが死んだとの電話を受ける。父の死体を引き取ったウィルフリードは母の墓に埋葬しようとするが母方の親戚たちから反対される。父イスマイルが母ジャンヌを殺したのだと。ウィルフリードは父の死体を埋葬する場所を探すために両親の祖国へ旅立つことになる。

 

感想

同作家(ワジティ・ムワワド)と同制作スタッフの「炎 アンサンディ」を去年観て素晴らしかったので鑑賞。ちなみに「炎」も「岸」もワジティ氏による「約束の血4部作」の作品であり、「岸」が1作目のものである(あと「森」と「空」がある)。「炎」が己の父親に関する謎解きをしていくサスペンスなのに対して「岸」では己の父親(死体)が話す言葉に心を乱されるという奇妙な謎が常にまとわりつくような話だった。

物語は女性の喘ぎ声が聞こえ、下着姿の青年が体を震わせながら白いペンキで下腹部を塗りたくられるところから始まる。今まで舞台上でセックスをする作品はいくつも観てきたけれどここまであからさまに精液を彷彿とさせるようなものを観たのは初めてだったので少々驚いた。「ジリリーン アナタノオトウサマガオナクナリニナリマシタ!」と性交真っ最中に(しかも挿れたまま)電話で父の死を告げられたウィルフリードは自己の妄想によって何とか現実を補完しながらその中を行きつ戻りつしつつ生きている不安定な青年だ。父の死は彼の中で映画のワンシーンであり、それでも困ったときはアーサー王の家来である剣士が戦ってくれる。そうでもしないと自我を保てないからだ。序盤は観ていてこちらも混乱してしまうほど彼は映画の中の俳優になり、剣士と共に戦う勇者であり、父の死への対応を迫られている子供になる。ただでさえ不安定な彼が父の遺品から自分に送られるはずだった大量の手紙を開けたとき、彼は自分の出生を知ることになった。私はここのシーンが特に好きでカバンから舞い上がる大量の便箋が、紙が、文字が物語を紡ぎ出していることや父から子への愛情と後悔、それを受け取り、読んだ子が「僕が知らない『僕』が出てきた」と困惑する様子は観ていてゾクゾクするほど興奮した。まるで手紙から文字が浮き上がってそのまま形になるような不思議な体験だった。そして手紙から湧き出す両親の人生は子を彼らの祖国へと旅立たせる。起き上がった父の死体と共に。

さて、この父の死体であるがよく動く。そしてよく喋る。そしてよく腐る。踊ることもあるし叫ぶことさえある。死体は全体的に少しコミカルで最後には「ウィルフリードの父の死体」から旅の途中で仲間になった若者たち(彼らもまた誰かの子供たちである)の「父」に昇華されていくのだが、ここで「おや」と疑問が浮かぶ。もしかしたらウィルフリードの父の死体は最初から動いても話をしてもないのではないか。彼はまるで自分一人だけで遊ぶ人形ごっこのように手紙から生まれた「父」という偶像を重ねて自分との対話をしていたのではないかと。父と交わり、生まれてきたことによって母を殺し、セックスでしか「生きている」という実感を味わえなかった彼は父の死体を通して死ぬことを学ぶ。「死ぬことを学んだから今度は生きることを学ばなくちゃ」と子供の頃から共に戦ってきた妄想の剣士へ別れを告げるのは彼が精神的に親から自立をしてアイデンティティを確立したことの明示だ。

内戦によって疲弊した国で出会った様々な事情で親を失った子供たちが仲間になり、埋葬する場所を探しながら彼らの物語を繋げていこうとするところは何となく童話「桃太郎」を想起させるものがあるが、ここには鬼ヶ島もなければ金銀財宝もない。彼らは海を目指すだけだ。後で調べてわかったことだが彼らにとっての海は「国境」で海ではしゃぐ姿を思い出すと複雑な気持ちになった。彼らはここから出ていくことがあるのか。もしくはそれが可能なのか。

首の繋がった死体が「奇跡」と呼ばれる国で彼らは海に父を埋葬する。父の死体にはこの国の膨大な人間の名前を書いた電話帳を錨にして。

詩的表現が多く、荒唐無稽な構造である本作品は「炎」に比べると随分と荒削りだがその分、行き場のない直球の感情を起爆剤にしてクライマックスまで邁進していく。露骨な性表現はかえって生命の生々しさを浮かび上がらせ、死が相対的に深くなっていくものだった。後半の美術がやや安っぽく見えてしまったり、クライマックスに何度も挟まれる父と子の対話に中だるみを感じたものの、作品の中にある混沌とした感情や生きることについて、父という存在への挑戦は観ていて唸る部分もある。

「怒れ」と力の限りを尽くし叫ぶ父の死体は声なき声の塊に見えた。彼らの怒号をこの世界は受け止め、彼らと真摯に向き合うを必要とされているのだろう。見ていないのだから知らなかったでは済まされない。

感情も己の姿も生命も剥き出しにした作品を見て、私は彼らの祖国であろう遠い国をことを考えた。舞台を観ることは私の世界を狭くも広くもし、また更に複雑にする。

 

NTlive「エンジェルス・イン・アメリカ 第ニ部 ペレストロイカ」感想 〜 過去から未来へ贈る祝福 〜

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「でも生きてます。」

 

公式サイト

NTLiveラインナップ

 

あらすじ

エイズクライシス真っ只中の1980年代ニューヨーク。ゲイカップルのルイスとプライアー、弁護士であることに固執するロイ・コーン、セックスレスの夫婦であるジョーとハーパー。彼らを取り巻く人間関係や当時のアメリカの社会背景、失望、葛藤、偏見を描く。

 

感想

天使から預言者として与えられた本を返しに行ったプライアーは天使たちに向かってあれやこれやと御託を並べた後に「でも生きてます。」と述べる。天使に「動くな」と警告された上での言葉だ。人類に対して動くな、進歩するな、耐えろという神からの掲示を一言で彼は拒絶する。最愛の人が自分のもとから離れようと、エイズという死の病に侵されながらも彼は生きているとはっきりと言った。

 この1部の感想で私はこの作品のキャラクターたちについて「己にとってより良くあろうと生きてきたはずの人達がまるで球体のパズルを完成させるピースのように思える。そしてその最後の一欠片が埋まらないまま手の中で消えていってしまう病魔の無情さ。」と書いていたのだが2部を観たあとではその最後のピースはこの作品を観ている観客それぞれに与えられていたことに気づく。キャラクターたちが己の内側へと突き進んでいくと思いきや最後には作品の世界を飛び越え、観客の前に立ち、生きていることへの賛美と祝福を与える。「あなたたちは生きている」と。

作品に登場するプライアーをはじめとするキャラクターは0から生まれた創作物ではない。間違いなくあの時代にいた彼らだ。おぞましいほどの数の人間がエイズで命を落とし、それに恐怖し、共に寄り添い絶望と戦った彼らの物語である。あまりにも死と絶望が側にあるクライシスの時代で彼らは死んでいたのではない。命の炎を燃やしながら生きていた。

舞台演劇は生きている人間たちによる共同制作物だ。たとえそれが1人の人間が歩いて別の人間がそれを見ることによって成立する究極の場合であっても生きている人間が演技し、それを生きている人間が見ることでしか舞台演劇は成立しない。物語を書く人も演出や演技をする人たちも生きている。そしてどんなに古い物語や演出プランであったとしても、作者がこの世からいなくなっていたとしても、作品は人間が生きた証拠に他ならない。

HIVの治療法は年々進歩していて同性愛への理解も彼らの時代より進んでいる。だからといってエイズクライシスの時代が消えてなくなったわけではない。今も続く地続きの歴史だ。世界は常に危機に晒されているが、あの時代に生きた彼らからのメッセージを今度は私が未来へと繋いでいきたいと思う。

 

あなたには書く力がある。

偉人や著名人たちによるいわゆる「名言集」というものが好きだ。できれば1人のものではなく多数の人の名言集が望ましい。正確な時期は覚えていないが大学生の頃には3冊の名言集の中から自分の好きな名言を手帳にひたすら書き写したこともあるしその手帳も捨てずに今もとってある。

何故好きかというと1人の人間が書き上げる(とはいっても編集やら何やらで色んな人が関わってはいるものの)ハウツー本や小説では「あぁ、これは今の私向けじゃないな」と思うことが結構あるけれど、名言集はそれこそ大量に色んな人達の言葉が収録されていて、気に入らなければ見なかったことにして読み飛ばせばいいし気に入れば心のメモなり実際の紙のメモなりに記しておくこともできるからだ。どこかに今の自分に必要な言葉がそこに存在してくれていることが多いので何となく不定期に読みたくなることが多い。この前までは全く心に響かなかったのに今読むと泣くほど響くものがあったりして自分の変化に驚くのもまた面白いので気に入った名言集を1冊手元に置いておくことを提案しておく。

また、名言集に収められている短い言葉のリズムや力強さも好きだからという理由もある。そういえば同じ理由で企業広告のキャッチコピー集を読むこともしばしばあるので、いつか自分の好きな言葉集を1冊にまとめておきたい。

 

101人が選ぶ「とっておきの言葉」 (14歳の世渡り術)

101人が選ぶ「とっておきの言葉」 (14歳の世渡り術)

 

 

名言集の話をしたので最近読んだ本を紹介する。14歳向けの本だけれど25歳の私は14歳の私を内包している25歳のはずなので読んだ。今現在さまざまな分野で活躍されている101人が選ぶ「とっておきの言葉」集である。とっておきの言葉だけではなくその言葉についてのエピソードや選んだ理由も記載されていたのがとてもよかった。前向きに前向きな言葉もあれば後ろ向きに前向きな言葉もあるところが好ましい。何個か「これは違う」と読み飛ばした言葉もあるけれど基本的にはどれも心の栄養になる言葉たちだった。ではこの本の中で私が特に響いた言葉を引用させていただく。

 

あなたには書く力がある。

「想い」は、目には見えません。悲しい時、ツライ時、胸のチャックをあけて、家族や友だちに見せられたらいいのに、できません。だれにもわかってもらえません。

  そこで、人は、想いをカタチにして人に通じさせます。これが「表現」です。絵でもダンスでも表現できます。なかでも、見えない想いに「言葉」という見えるカタチを与え、引っぱり出して人や社会に通じさせる行為、これが「文章表現=書くこと」です。

  あなたは書くという「想いをカタチにする装置」を持っている。

  書き続けていれば、いつか伝わる!あなたに理解の花が降ります。あなたは、この現実に、自分の想いにそった未来を書いて創っていくことができます。

「あなたには書く力がある。」

  これは表現教育に捧げる私の人生から出た言葉、あなたに一番伝えたい私の想いです。

 

山田ズーニー

 

この文章に私が言及することは何もない。ただ読んで噛み締めて吸収してほしいだけだ。あなたが日々生み出す言葉はあなたの生きているという何よりの証拠だということを。

 

もしこの言葉が私だけではなくこの記事を読んだ誰かの心の栄養やお守りとなれば嬉しい。いい読書でした。

ミュージカル「FUN HOME ある家族の悲喜劇」感想 〜 私はインクを介して父と対峙する 〜

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公式サイト 『FUN HOME ファン・ホーム ある家族の悲喜劇』

2018年3月4日 13時公演

兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール

原作:アリソン・ベクダル

音楽:ジニーン・テソーリ

脚本・歌詞:リサ・クロン

翻訳:浦辺 千鶴

訳詞:高橋 亜子

演出:小川 絵梨子

 

※この記事には物語の核心に触れるかもしれないネタバレが含まれています

 

あらすじ

アリソンは今43歳の漫画家で彼女はレズビアンである。彼女の父 ブルースはゲイで彼が43歳の時に自殺した。アリソンは自分の人生を漫画に描きながら家族、そして父との想い出を辿っていく

 

感想

この作品の感想を書くにあたって、私がまだ幼かった頃の父との想い出といえば何だろうかと思い返していた。そういえばリビングで眠ってしまった小さな私を父が抱っこして寝室まで運んでくれていたことがある。私はそれが大好きで時々わざと寝たふりをして運んでもらっていた。パジャマ越しに感じる父の体温はいつも温かく、そのときに体臭とも柔軟剤や洗剤の匂いとも違う、父だけが持つ独特の匂いを嗅ぐのがたまらなく好きだった。流石にある程度大きくなるともうやってくれなくなってしまったけれど。
話を本題に移そう。本作品であるミュージカル「FUN HOME ファン・ホーム とある家族の悲喜劇」はあらすじにもあるように主人公である漫画家 アリソンが「父の上で飛んだ時、時々完璧なバランスが取れた瞬間があった。」と飛行機ごっこをしているところから始まる思い出の数々を描きながら辿っていくという回想録形式のものである。しかし、そこにあるのは郷愁感だけではない、客観的な目線で今の自分の年齢から眺めた自分の人生を見つめ直している。ほぼ舞台に出ずっぱりなアリソン(現在)は幼い頃の自分を見て懐かしみ、そしてときには失望しつつ生々しい痛みを覚え、楽しみながら慈しみに満ちた眼差しで自分の人生を漫画に描いているのだ。

彼女は自分に起きた過去の出来事を描いている。「過去は変わらない」というが、実際には「過去は変わらない」のではなく「過去に起きた事実は変わらない」ではないだろうか。つまり「過去の思い出は『自分がどのように見るか』によって常に変化する」ということだ。舞台の上で駆け回るアリソン(幼少期)はまだ自分がレズビアンであることも父親がゲイであることも知らない。だがそれを見つめるアリソン(現在)はそれを知っている。だからこそ「補足説明」と何度も繰り返し「人生の描きなおし」を行なっている。彼女は一体、自分の人生の何を描きなおしたいのか。幼少期に父親と飛行機ごっこをして遊んだことだろうか。家業である葬儀屋の商売道具(棺桶)に潜り込んで遊んでいたことかもしれない。それとも大学生の頃に自覚した自分のセクシャリティのことだろうか。当時の恋人とのセックス。自分の性を受け入れてもらうことの喜び。実は幼少期にとある女性を見て自分の気持ちに既に気づいていたこと。父親がゲイであること。それを知っていた自分の母親。幼少期によく遊んでもらっていたベビーシッターが父親の恋人であったこと。どれだろうか。彼女は描き続ける。時折インクを落としたようなシミ模様が背景に映し出されるのは舞台上で行われている出来事が漫画の原稿用紙の上であることを彷彿とさせる。

そして、このインクの染みが現代のアリソンの足元に広がるシーンが終盤にある。原稿の上(アリソンの人生)で父親の死が近づいている中、苦悩する彼女が「私は絵を描いているだけ、絵を描いているだけ。そうだ、これを描こう。」と家の家具に近づいていくが次々と消えていってしまう。その中で父親であるブルースが自分と向き合うことになる。いつのまにか作者であるアリソンが自分の描いているはずの原稿上にいた。彼女はブルースと共に車に乗り込む。隣同士の2人。私はこのシーンで歌われる「電話線」が1番心に残った。

アリソン

何か言わなきゃ

何かをパパに

次の 次の 次の 信号の

光 光 光の下で聞こう

どんな気持ち? 2人が同じと…

過去に戻ったアリソンは永遠と続く電話線(電線)を車から眺めながらブルースと会話をしようと何度も試みる。次の信号で聞こう。ダメだった。次の信号で聞こう。何でもいいから言おう。私とパパが似ているってことを。

ブルース

新しいプロジェクトに取り掛かったって言ったっけ?150号線のところにある古い家なんだ。見たことあると思うよ。少なくとも四、五十年は空き家のまま放置されてた家だ。

やっと自分のセクシャリティについて少しだけこぼし始めたかと思いきや、すぐに次の家の改装計画について話をし始めるブルース。アリソンは自分のセクシャリティを受け入れて両親にカミングアウトしたがブルースは違った。彼は最後まで1人のゲイとしてではなくあくまでアリソンの父親であろうとした。

アリソン

何か話して

何でもいいから!

2人の生き方は交わることなく平行線をたどっている。まるで永遠と続くような真っ直ぐの電話線のように。しかしその電話線は大学生のアリソンとブルースを繋いだ絆でもある。アリソンがあの場にいたのはこの瞬間を描き直したかったからだ。もし、あのとき何かを言うことができていたら。もし、あのとき父親から何かを言ってもらうことができたなら。「何か話して」と叫ぶ彼女の姿は父親との絆を手繰り寄せたいという真っ直ぐな愛と底のない後悔の哀しみの塊に見えた。

だが、過去に起きた事実は変えられない。どれだけ描き直しても、見つめ直したとしてもブルースは死に、アリソンは1人になる。ただ、少しずつその見方は変わっていく。現代に帰ってきた彼女は再びペンを取り、こう描き始める。

 

「父の上で飛んだ時、時々完璧なバランスが取れた瞬間があった。」

 

また、過去の始まりと終わりがやってくる。

 

1人の人間として家にいた娘アリソンと、家を保つことに執着していた父ブルース。社会の最小構成単位である「家族」を「家」にスポットライトを当てることによって何が浮き彫りになるか。それを観客それぞれにすくい取ってもらうような作品だった。「Home」を「Family」と取るか「House」と取るのか日英の翻訳の難しさが伺える。またアリソンが漫画を描くことを上手く活用して、ペンのインクが点(1人の人間)になり、線(それぞれの人生や絆)が引かれ、円(ブルースの人生の始まりと終わりの場、または輪廻や循環の象徴)に変化して個々のアイデンティティの輪郭をなぞっていくのも観ていて楽しむことができた。各キャストのパフォーマンスもどれもよく、「少数精鋭」という単語がよく似合う洗練されたチームだったようにも思う。彼らは舞台上でその瞬間瞬間を精一杯生きていた。余談だが、「おいでよ ファン・ホーム」のナンバーがジャクソン5の「ABC」にどこか似ているなと感じたのだが前者も後者も1970年代のものだった。もう少しアメリカの文化について学んでいたらそのあたりのノスタルジックな雰囲気を感じ取れたのかもしれない。

ゲイの父親とレズビアンの娘。彼らの関係は一見すると奇妙なものかもしれない。家族に起きた悲喜劇を何度も繰り返すことになろうこの作品は彼女が「自分は何者か」を見つめ直し、探し続ける旅路の物語であり、その根底には父親の存在が必ずあった。迷ったとき、悩んだとき、ペンを取って線を描くとき。原稿用紙に枠線を引くたびに2人の「電話線」が彼女の心の中に現れるのだろう。

この前、久しぶりに自分の父親の顔をまじまじと見てみた。父は少しだけ訝しげな表情をしたあとに「何?」と笑った。目尻にシワがいくつも寄る。あれ、こんなに老けてたっけ。違う。時間が流れて私が成長したんだ。目を閉じて昔のことを思い出してみる。そこにはかつてのアリソンたちと同じように父と遊ぶ幼い私がいた。

多種多様な価値観や物が濁流のごとく大量に流され、消費されていく今。本作品を観て、改めて自分という人間は何処から来ているのかを考えさせられた。生きることは常に難しいがその刹那に確かにある美しいものを思い起こすことは何度だってできる。心に思い浮かべさえすれば、いつだって私たちは会えるのだから。