可能性の取捨選択

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マシュマロ(ツイッターにおける匿名メッセージサービス)で「あなたのブログを読みたいです」と嬉しい言葉をいただいたので久しぶりに書くことにする。とはいっても舞台の感想をまとめるほど自分の時間はないので近況報告のような備忘録を書く。

最近やっと涼しくなったのでとても嬉しい。今年の夏の暑さには本当にうんざりしていて来年もあの暑さなら避暑地に逃亡してやると心に決めた。道行く人々の暑くて辛そうな顔を毎日見ることに耐えられない。夏ってもっとずっと楽しい季節だったんじゃないの。酷暑で海水浴やプールでの水泳が中止になる(水温が高いため)なんてあまりにもむごい。私にまだ夏休みがあった頃は永遠と続くような長い退屈とそれをどうにか発散しようとするイベントへ行って飽きるほど素麺を食べて氷の沢山入ったカフェオレを飲みまくってお腹を壊すのが常だった。でも今年の暑さだとそのイベントさえ世間は堪能していないのではないかとさえ思う。私も毎年行っていた海に今年はとうとう行けなかった。「酷暑の馬鹿野郎」とどこかに投書でもしたい。そんな暑さに続き、仕事が繁忙期を迎えて褒められたり怒られたり励まされたりしながら何とかやっている。来月にはもう少し余裕ができそうなのでまだ頑張れてはいるけれど、これがずっと続くとなるとなかなか厳しい。

 

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8月末に長野県へ恋人と行った。3月頃からずっと行きたかった場所で会う人会う人に「長野県に行きたい」と訴えていたし恋人と出会った日もスマホを彼の目の前に突き出して「ここに行きたいんだけど!どう!?」みたいなことを言っていた。紆余曲折あって恋人として彼と一緒に行けたのはどこか感慨深いものがある。

ずっと行きたかったところは驚くほど遠く、息を呑むほど綺麗だった。木に囲まれた小道を2時間ほど歩いたが全然疲れなくて感動した。底まで見通すことができるほど透明な池の中でスローモーションかと思うくらいゆったりとした動きで泳ぐ魚を見た。魚といえば海でビュンビュン泳ぐものをイメージして生きてきたので「この魚やる気あるの?」としげしげ見つめた。池の水面はさざ波すらなく、静寂という言葉が似合う場所だった。時々ゾッとするほど人の気配や明るさを感じない場所があって本当に素晴らしい。誰にも干渉させないという強固な意思のようなものを感じる。人の手によって自然が守られているけれど当の自然は寡黙で雄大で脅威すら覚えた。結局のところ人間なんてちっぽけな存在で永遠に勝てない自然がいて圧倒されるのみである。今の年齢でこういう経験ができてよかったなと思う。静かで美しく、冷たい場所だった。 また行きたい。

2018年もあと3ヶ月ほどだが、あまりにも色々ありすぎて精神が追いついていない。「自分の人生は自分で決めていい。自分の好きなことをしてもいい」ということを本当の意味で理解して行動するようになったのは2年ほど前からで、そこから加速装置をオンにしたかのように目まぐるしく日常が変わっていった。そのスピードはどんどん増しているし、自分が追いつけていないのに更に自ら色んなことを自分に課していくのは面白く、それでいて疲れる。下り坂を走って下りるときによく似ているのかもしれない。自分の足が勝手にぐるぐると坂を下りて耳元で風がビュンビュンと吹く。心臓は悲鳴をあげ、肺はもう限界を迎えているのに「もっともっと」と胸の奥で声がする。

「人生はドラマだ」に類似したうたい文句は今まで吐いて捨てるほど見てきたし聞いてきたが他人事だと思っていた。が、今ではどうだ。学生時代からやりたかった職業につき、恋人ができた。この前は恋人の実家に行って彼の家族に会った。そして今度は自分の意思で1人暮らしを始めようと物件を探して契約し、引越しをしようとしている。自分の生活がどうなるのか私にはわからないが、今よりももっと楽しくなるような気がする。というか楽しくするのだ。絶対に。「私の人生なんてこんなもんだろうな」と自分の身の程を弁えて行動していたときは何かをやりたくても「私なんか」を言い訳にしてきたし、その分楽しそうな人を見ては羨んで憎んでいたけれど「私なんか」を決めていたのは自分の中にある他人の物差しだった。人生はドラマで人生は最高で人生は面白い。色んな人からそれを教わった。「今までは恥ずかしくて言えなかったけれど実はこんなことがしたい」と性別や年齢問わずに相談するようになったら「いいじゃん、やろうよ」とあちらこちらからドアが開いた。自分にはこのつまらない人生しかないんだと最善策と思われるドアを1つずつ開けてきたけど実は横にも後ろにも前にも上にもドアがあって、それが一気に開いたので眩しくてクラクラした。特に恋愛に関しては苦手意識と自意識過剰と過去の経験が相まってなんとなく遠ざけてたし(というよりそれ以外のことが楽しくて仕方なかったのもある)、しまいには少々見下したり馬鹿にしたりしてきたのだが「世の中の恋愛してる人たちってこんなめまぐるしい経験やってんの!?精神状況がジェットコースターじゃん!?すごいな!?」という学習をした。すごい、偉い。みんな偉い。恋愛しててもしてなくてもしてても偉い。

好きな言葉がある。ウィニー・ホルツマン(ミュージカル版ウィキッドの脚本家)が言ったもので文献はどれか忘れてしまったがそれはこうだ。

「何年か前にユダヤ教徒が自分自身を見つけるために行っている特別な教えを聞いた。詳しいことはよくわからないが、その考えとは基本的にはこうである。『全ての人が隠れた痛みを持っていることを忘れるな。例えあなたが百万年間それを探して見つからなくても全ての人は誰にも言えない悩みを抱えている』」

当たり前のことかもしれないが、私はこの言葉を思い返すたびにハッと我に帰る。自分の人生は自分のものであると同時に他人の人生もその他人のもので比較するのは不可能なことであると。私の人生の選択が合っているのかは分からない。そもそも正解なんてないのだから未来の私でもわからないのではないだろうか。でも楽しんでやろうと思う。時々は休んだりしたい。また長野にも行きたい。いやはや。

 

では、とりあえずまだ手付かずの引っ越しの荷造りに取り掛かることにする。

 

舞台「フリー・コミティッド」感想 〜 自我の混乱と形成 〜

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公式サイト

公演詳細 | StageGate [ステージゲート]

 

2018年7月14日公演

DDD青山クロスシアター

作:ベッキー・モード
翻訳:常田景子
演出:千葉哲也
出演:成河

 

あらすじ:売れない俳優サムはとある大人気レストランの電話予約係である。ある日、同じ電話予約係である同僚が職場に来ない。だが様々な人々が予約を取ろうと電話をかけてくるので彼は2人分の電話を1人で取ることになる。もしもし、電話予約係です。ご用件をどうぞ。サムは鳴り止まない電話を取り続け客や職場からの理不尽な要求に悪戦苦闘することに。

 

※この記事は物語の核心に触れるネタバレをしています

 

感想

あらすじにもあるように電話を取りまくる予約係の青年の話である。一人芝居なので勿論全ての役を成河さんが演じるのだが全38役という凄まじいほどの役の多さだ。これでもかというほど数々のキャラクターを舞台上で性別年齢関係なく声色や表情で演じ分けているのには感嘆した。電話を取ると一瞬で次々と変わるそれを見るとなんとなく中国の伝統芸能である変面(一瞬でお面を次々と変える芸)を思い出したこともここに書いておく。

さて、ストーリーの話に移る。地下室(DDD青山クロスシアターも地下なのがニクい)で電話を受けているサムだが基本的に無茶難題をふっかけられて混乱しているところに更に電話がかかってきて、てんやわんやするのだがその構造は終盤になるまで変わらずに続くので観ているこちらとしてはひたすらいじめられっ子、いや、ハラスメントの被害者が被害を受けている図を見せられていることになるのであまりいい気分はしなかった。というのは私個人でそういうことに対する拒絶反応が出てしまう過去の思い出があるからなので、もう少しフラットな感情で観賞したら違ったものが見えたかもしれない。ごちゃごちゃしている地下室も次第にゴミ箱のように見えてきたりもしたのだ。

終盤には彼がウッカリ言ってしまったことをキッカケにキャラクター達のパワーバランスが崩れるので救いといえば救いだが、ひっくり返ることはないのでこれにも少しモヤモヤしてしまった。それが今の職場の環境がどんなに悪いものだとしてもそれでも生きていかなければならないという人生の世知辛さを示しているとしても。

先にも書いたがキャラクターが38役も登場するのだが何個か描き方が気になったキャラクターがいた。まず日本人の観光客から始める。声が小さくポソポソと話し、サムと意思疎通ができない(忘れたが「いつですか?」というサムの問いかけに「○名です」と答えていたような気がする)ので彼は言葉を濁してそのまま電話を切ってしまう。それを観て笑う観客。

 

つらい

 

何がつらいって私自身も国際電話をかけて拙い英語を話して応対してもらったことがあるからである。外国人が書いた日本人を日本人が演じてそれを観て笑うという構図にクラクラした。他にも中国人シェフを演じる時にわざとそれっぽく(昔のアニメに出てくるような声色とイントネーションで)話しているのにも引っかかった。出てくる女性のキャラクターも底意地の悪いような人物が多く、何だかなぁという気持ちである。

書く側も見る側もある程度のステレオタイプを内在化しているものでレッテルを共有してそれを楽しむのは「笑い」の中であるあるのものだが、1999年オフブロードウェイで初演の作品を2018年の日本でやるにあたってそのまま持ち込むのは観客へのアプローチとしていいものなのかと悩んだ。じゃあ2016年にブロードウェイで再演されジェシー・タイラー・ファーガソンが出演したのはどうなんだと言われそうだが私は観てないので何とも言えない。ステレオタイプを笑うことと何かや誰かを差別することは紙一重で常に揺れ動くその境界線はまだ私にもわからないのだ。だからこそどんな気持ちでこの作品を観ればいいのかわからなかった。

演出の話に移る。元の脚本はおそらくほぼコメディとして書き上げたものでそこに皮肉や人間ドラマを隠し味程度に盛り込んだのだろう。だが今回の日本版の演出は隠し味である人間ドラマの部分を引き出そうとして何を食べているのかわからない料理のようだった。風刺になるほど皮肉が効いておらず人間ドラマになるほど深みがなくコメディにしてはゲラゲラと笑えるほど痛快さや緩急がなく(「笑い」における間の取り方は重要だ)、演出と脚本のバランスの悪さが目立ってしまったのではないかと個人的には思う。あ、緩急があまりにも少なく観客すら置いてけぼりにして爆走するのは「都会そのままのスピードだから」とパンフレットでは書いてあったような気がする。が、都会のスピードをそのままを舞台上に持ち込んだとしてもそれがリアリティに繋がっていたのか?と私は問いたい。

そして、嫌だなと思う部分も多くあれば好きだなと思う部分もある。本作品は「電話」に振り回される青年の話だが、この電話をかけるという行為は基本的に相手をどこか無条件に信頼しているものではないだろうか。だからこそ保留にされても待っているものだし「サム、待ってるよ」のような台詞も出てくるのだろう。あとサムが電話相手のためを思って奔走する話でもあるが電話相手がサムのことを思って行動する部分も多くはないがあるのでそこに人情を感じたりもした。また、サムを見ていると人のキャラクターとは自分1人だけで構成されるものではなく他者と関わることで作られるもので良くも悪くも影響しあっていて、彼らの間で紡がれていく言の葉ははらはらと散っていくようだが、しっかりと地面に降り積もっていき木の一部となる。誰でもない青年(売れない役者という役設定も「何も演じていない役者」をイメージさせるのでそうしているのだと思う)が1人の人間として、サムとして自分の意思で行動できるようになる終わり方は好きだが、私が見たい回は何となく「あぁ、サムはまたこの地下室に帰ってくるんだろうな」と思うような演技でボンヤリとだが悲しくなってしまった。

最後になるが脚本と演出にかなり個人的な感情が重なってしまい「これは私向けではないな」と思った観劇経験であった。オリジナルのようにコメディとして突き抜けた感じにするとかひと続きのショートコントとして暗転を繰り返して続けていくとかしてもかなり印象が変わりそうだ。成河さんの実力には舌を巻いたがモヤモヤの残るものになったので自分なりにその問題と向かい合っていこうとおもう。

 

初対面の人が恋人になるまで自分が飲んだアルコールの量について考える

1回目(初対面)

梅酒ロック、梅酒お湯割、白サングリア 1杯ずつ

赤サングリア 2杯か3杯

学生時代の友人と久しぶりに飲もうという話になって仕事終わりに居酒屋へ行った。久しぶりだね。前に会ったのいつだったっけ。そういえば今どこで何して生きてるの。そのレベルの話かよ。そんな話を笑いながらして美味しいお酒と肴でいい気分になる。段々と会話が盛り上がってきた頃に友人から恋人ができたこと、その人は私の知人であることや近々同棲することを告げられた。おーまじか。そうなんだ。おめでとう。どこで出会ったの。あれやこれやと聞いてみる。なるほど、ラブラブらしい。よきかな。それから将来への不安や不満を少しずつ漏らす友人にとりあえず「いいじゃん!」と返す。いいと思うよ。いいなあ。羨ましい。

「だってさあ、私なんてずっと恋人もいなければ恋愛だってしてきてないし基本的に1人行動だから誰かと一緒にいる時間を大事にできてないと思う。」

しまった。本音が出てしまった。と思ったときにはもう遅く、そこから私の私による私の人生の懺悔ショーを始めてしまった。今すぐに恋人が欲しいとか結婚したいとかではなくて家族や友人以外に心の拠り所となる人が欲しい。今の自分を不幸だとは決して思わないけれどやはりパートナーがいる人を見ると羨ましいし自分に何が足りてないのかと羨んでしまう。でも私はかなり性格に難アリだと思ってるし可愛げがないこともよくわかっている。毎日が楽しいけれど、どこかで寂しい。そんなことをずっと話してしまった。友人は実に素晴らしいタイミングで相槌を打ちつつ私の話を聞いていたが、聞き終わると思いっきり首を傾げた。そして傾げたままこう言った。

「あなたはあなたのままでいいと思うけど。」

そんなことあるか。私は社会不適合者だ。と酔いに任せて言う。うーんと友人がうなる。一瞬の間。

「あ、いるわ。紹介したい人いる。」

彼氏候補とかじゃなくて友人として仲良くしてほしいなって前々から思ってたの。多分今呼んだら来るよ。呼んでいい?そう言いながら携帯を取り出して電話を始めた。

よくわからなかったので即了承する。大体こんな遅い時間かつ飲み会も終盤に差しかかっているというのに来るはずがない。次回持ち越しが妥当だろうと思った。

電話から30分後。来た。ほんとに来た。「こんばんはー」とか言われた気がする。ありえないと思った。私ならまず断る。知っている人だけがいるならともかく知らない人がいるところにこんな夜中に呼び出されて行くなんてフットワークの軽さどうなってんだ。どれだけ暇なんだこの人。第一印象に「暇な人」というスタンプを心の中で押す。乾杯をするためにドリンクを注文する。私も友人もある程度出来上がっているので挨拶もそこそこに私の人生懺悔ショー第2部を開始してしまう。学生時代に先輩後輩の関係を築いてこなかった。部活に真剣に打ち込まなかった。大学時代にサークル仲間で富士山登ったり海に行って砂浜に字を書いてインスタグラムに投稿したりしたかった。「いつメン」とやらでドライブとかもしたかった。みんなと違うことを誇りにしていたけれどそれはしないのではなくできないだけだった。初海外旅行を1人で行って舞台を沢山見たことは私の誇りだけど仲のいい友人たちとグアムとかハワイに行くみたいなことを私は出来なかった。とわめく。初対面の人は困り顔で笑いつつ、時々大声で笑いつつ(「じゃあ今なにしたいの?」と彼に聞かれたときに「ロンドンに行って舞台を好きなだけ見るかジャニーズのコンサートに行くか道端に落ちている大沢たかお松坂桃李を拾いたい」と即答したら爆笑していた)、辛抱強く私の話を聞いていた。そして困り顔のまま彼が口を開く。


「それなら今から一緒にやっていこうよ。全部やろう。」


マジかよと彼の顔を見る。隣にいる友人の顔も見る。2人とも笑顔だった。

いい人だ。こんな人たちに出会えたということは私の人生も案外悪くはないのかもしれない。

 

2回目

白サングリア 500〜700mlくらい

例の友人に「トランプしたい」と連絡する。二つ返事で了承される。しばらくして友人から初対面の人もトランプをやりたがっていると聞く。ならみんなでやろうではないか。そんな流れになり、友人の恋人も加わって4人でトランプをすることになった。初対面の人と会うのは1ヶ月ぶりくらいなので喜ぶ。いい人だと思っている人に会えるのは男女年齢問わず嬉しいものである。最寄り駅まで迎えに来てくれた友人と初対面の人に「久しぶり」「久しぶりだね」というやり取りをしてそのまま友人宅へ向かう。既にトランプパーティーの用意はされていてピザやらポテトやらケーキやらがテーブルの上にずらりと並んでおり、友人に「好きでしょ?」と白のサングリアが入ったグラスを手渡された。実に素晴らしい。なんとなく友人の恋人を見ると「車で送ってあげるから好きなだけ飲んでいいよ」と言われた。ありがたき幸せと感謝しつつ好きなだけ飲む。さぁ、やろうぜやろうぜとトランプをする。大富豪とダウトと神経衰弱をやったような気がする。どれも7割くらいの確率で私が負ける。悔しい。もう一回やってもらう。負ける。悔しいので初対面の人に私が得意なスピードをやろうと持ちかけると快く受け入れてもらった。私が勝つまで付き合ってもらう。やはりいい人である。初対面の人に帰りの車の中で「今度連絡先教えてね」と言ってもらう。社交辞令だろうなと思いつつも内心ニヤニヤした。


3回目

白ワイン ボトル7割くらい

これ以上会うと初対面の人を好きになってしまうのでは。と思い、ということは既に好きなのでは。いや、好きじゃん。恋じゃん。なにそれ、2回しか会ったことないのに。まだどんな人かも知らないのに。フルネームさえもまだ知らないのに。と1人でアタフタする。友人から「また4人で飲もうよ」とメッセージが来たので「行く」と即答した後に「私は彼のことが好きかもしれない」と送信すると「いいと思います。じゃあ来週ね」と返事が来た。ソワソワしながらその日を待った。仕事終わりに友人宅で飲むらしいので友人と初対面の人、 訂正、友人と好きな人とスーパーへ向かう。「食後のデザートを果物かプリンで迷ってる」と好きな人に言うと「両方買ったらいいよ」と言われ、完全に惚れる。え、なんでもない日にデザート2種類も買ってもいいの?あぁ、そうか。よかったんだ。にしてもこの人すごいな。私にはない視点で物事を考えてる。好きな食べ物を沢山買い込んでいっぱい食べて飲んだりして、好きな人が隣にいることがあまりにも幸せだったので「あー幸せ」と呟くと「わかるけども」と好きな人が笑いながら言ったのでもうダメだなと心の中で白旗をあげる。完敗です。


4回目

白ワイン1杯、赤サングリア4杯くらい

日本酒 覚えてない。本当に覚えてない

なんとなく恒例になった4人の飲み会に向かう。今回は居酒屋らしい。好きな人が1人で迎えに来てくれたので「友人は?」と聞くと「なんかAさん(友人の恋人)が家で用事あるから後で2人で来るって」とのこと。なんだ、ただの段取りの問題かとガッカリする。初めて2人きりになるので色々と話す。仕事は何をしているの?とか、どんな子供時代だった?とか。居酒屋に着くと既に友人カップルが入り口で待っていて「遅い!」と開口一番に言うので謝る。あれ、あとで来るんじゃなかったの。座席に着く。疑問を抱きつつまぁいいかと乾杯して飲む。空きっ腹にワインを流し込んだので胃の中がカッと熱くなるのがよくわかった。あー、これは酔うなぁと思った。でもまだ大丈夫だろう。1杯目だからそう思うだけだろう。Aさんが刺身の盛り合わせを頼んだので日本酒も頼んでほしいとお願いする。冷酒と刺身の組み合わせは至高である。逃さない手はない。ついでにタコワサも頼む。テーブルに料理と日本酒が運ばれてきたので「天国か」と言うと隣で好きな人が「そんなことで!?」と笑っていたので「そんなことじゃない!」と噛みついてしまった。今思えば既に酔っていた。学生時代の話に花を咲かしているとお店もどんどん賑わってきて忙しくなってきたのか頼んだ料理やドリンクの運ばれてくる時間がかなり遅くなっていった。テーブルの上には空の皿とグラスがあるのみである。どうしようかねぇと作戦会議をした後、トランプをやろうという話になった。カバンからトランプを取り出す友人を見てなんで常に持ってるんだというツッコミがあちらこちらから入ったが友人は素知らぬ顔でテーブルの上をキチンと片付けてトランプを配り始めた。お店の迷惑にならないようにねと私たちに約束させながら。

おかしい。負ける。何度やっても負ける。何をしても私が負ける。手札を減らしてもらったり強いカードをもらっても負ける。悔しいやら情けないやらでヤケになって飲む。負け続けるので飲み続ける。おかしい。世の中は不平等だ。とか言いながらテーブルに突っ伏していたらようやく追加の料理が運ばれてきたので日本酒のお代わりを頼む。あとなんか色々と頼む。後から聞いたらこのときの私は既に泥酔していてAさんに対して「友人と付き合っているAさんは幸福なんだから大事にしないと絶対許さない」とか「楽しすぎて今この瞬間死んでもいい」とか言っていたらしい。怖い。そろそろ帰りますかとお開きになり、好きな人が途中まで送るというので遠慮なく送ってもらうことにする。友人たちは気づいたらいなかったので気を使ってどこかへ行ってくれたのだと思う。酔っているので何を聞いても「あのときは酔ってたから覚えてない」を使えるのではと泥酔の頭でひらめく。

「今現在恋人はいますか。」

「いません。」

あぁ、よかった。本当はよくないのかもしれないけれどとにかくよかった。すっかり安心してしまったのかそこからの記憶がほぼない。帰宅して5秒で寝たことくらいしか覚えていない。次の日に頭痛で目覚めたのでかなり飲んでいたことらしいことはわかる。

 

5回目

アルコールなし

ふとなんとなく思い立って好きな人にもっともらしい用事を作って「会えませんかね」と連絡すると(やっと連絡先を交換した)、その日に会うことになった。2人で会うことを目的に2人で会うのは初めてなので困惑する。失言したらどうしよう。フォローしてくれる友人たちもいないしアルコールもないし、というかまともにシラフで会うのこれが初めてってひどくないか。心拍数がえらいことになっているのを自覚しながら待ち合わせ場所に行くと好きな人が待っていたので安心する。どうやら飲み会ではそこまでの失礼はしていないようである。用事を済ませて別れたすぐあとに彼の持ち物を私が持っていることに気づく。慌てて連絡。

「今度渡すからいい?」

「あ、まださっきの場所にいるから持ってきてほしい。」

「了解。」

ぐるっと回れ右をして歩いてきた道を戻ると彼が歩いてくるのが見えた。待ってればいいのに。そんな風に思いつつ彼のところまでようやく到着する。彼の顔を見ると何故かずっとニコニコしているのでこちらとしては頭の中が疑問でいっぱいである。そんな大切なものだったのかな。いやいや、どこにでも売ってるやつだしそれはないだろう。じゃあ、なんだ? ニコニコしたままの彼がこちらを見たまま言う。

 


「この前の飲み会の帰りのこと覚えてる?」

……はい?


「『今かなり酔ってるから真剣に取り合ってもらえないと思うので、今度シラフで会ったらちゃんと告白させてほしい』って言ってた。」

え、本当に覚えてないの?と続けられた。

……。


さっぱり覚えてない。覚えてないから覚えてないのだ。というか何言ってんだ私は。最低か。いや、最低だ。何やってるんだ。全世界の人々に謝罪しろ。今すぐ舌を噛み切るか例の飲み会の席に座っている私にバケツで水をかけてそのまま滝行させたい。いや、ほんと何やってるの?馬鹿なの?馬鹿じゃん。大馬鹿じゃん。


頑張れ私の脳よ。思い出せ。1ミリでもいいから思い出せ。振り絞れ。


…言ってた気もする。言ってない気もする。言ってないことにしてほしい。


「言ったかもしれません…。」

やっとの思いでそう言った。

恥ずかしすぎる。なんだこの状況。恥ずかしいので下を向く。地面と自分と彼のつま先が見える。このまま私自身が地面に浸透していって消えないかなと思う。日本酒よ、さらば。お前とはもうお別れだ。金輪際日本酒は飲まない。でもそうしたら全国の酒蔵が困ることになるかもしれない。それは私も困る。


顔を少しだけあげてチラリと彼の顔を見ると初めて会ったときのように困り顔で笑っている。ちくしょう、好きだと強く強く思う。少し間、沈黙が流れる。

「どうする?」

と言われたので覚悟を決める。なんだこの公開処刑。私の今まで培ってきたプライドはどこへ行ったんだ。大学生でもまだもっとマシな告白をしていると思う。死ぬほど恥ずかしいし情けないしなんか各方面に申し訳ない。もうどうにでもなれ。


「恋人にしてください。」

頑張った。頑張ったよ私。直接会って告白なんて今まで生きてきてしたことなかったよ。というか既にしてる?なんだこれ。この人はいい人なので少なくとも友人たちの間でこのことをネタにしてからかったり笑ったりしないだろうし、私を振るにしても振らないにしても真摯に取り合ってくれるはずだから大丈夫。きっと大丈夫。あとで私も人を好きになって告白したことくらいはあるのだと己の人生のページに書き込もう。


色んなことが脳内でごちゃごちゃに絡まったまま下を向いていると声が降ってきた。


「こちらこそよろしくお願いします。」


え、マジで。マジか。

舞台オタでジャニオタで初対面の相手に「大沢たかお松坂桃李を拾いたい」と言い放ち泥酔したあげく「今度会ったら告白するから待ってろ」みたいなことを言う人間ですよ? え、マジで?マジで?いいの?いいの!?

 

そんなわけで好きな人が恋人になった。一緒に過ごした時間は24時間もなかったし2人でいた時間は3時間もない。その時間の中でも私がアルコールを摂取していない時間の方が少ないというありさまである。ひどい。後から聞いた話だが私は飲み会の帰りの道中で彼にずっと「好きです」と言っていたらしく(覚えてない)、彼としてはアルコールのせいで私が思い上がっているだけなのではないか。酔っているから自分が魅力的に見えているだけではないのかと不安だったらしい。だから聞いたのだと。


まとまらなくなってきたのでまとめる。


おかげさまで毎日が死ぬほど楽しい。

アルコールは適量に。

心のギアチェンジの仕方がわからない

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「3月は仕事で繁忙期に入るので去るどころではなく一瞬で消え去るような予感がしているので危ない。」と3月頭に書いたのが昨日のようにも去年のようにも思える。今日は何日だったかなと手帳を確認すると5月も後半に差し掛かっており、月日の過ぎる速さが年々増していることに気がつく。明日の朝に目覚めると2019年になっているかもしれない。

3月から今にかけて狂ったように楽しい記憶しかないのはありがたいことだ(季節外れの風邪でゴールデンウィークを丸々潰したことを除く)。やりたいことは全部やった。友人と買い物をしている最中に「お花見をしてない!」と突然発言してお花見散歩に付き合ってもらったり、酒蔵に出向いて朝から日本酒を飲んだりジャニーズのコンサートも行ったりもした。本を読んだりオーケストラの演奏を聴きに行ったりもしたし仕事だって楽しい。会いたかった人たちにもどんどん会った。偶然にも遠方から来た人にどうしても会いたくて「今から会えませんか」とメッセージを送って会ったりもしたし(出会い厨か)、空港まで会いにきてくれた人と演劇についてあれやこれやと語るのも楽しかった。特に最近行った「ちょっとしたパーティー」は人生のベストに入るほど楽しくて白ワインを片手にずっと「素晴らしい!インターネット最高!」と叫んでいた。

あまりにも、あまりにも毎日が楽しい。楽しすぎる。それが少しだけ怖い。楽しすぎるあまり色んな物事や感情に対して鈍感になっている確信がある。今の私はきっと悲しんだり苦しんだりしている人に対して「生きてれば楽しいことあるよ!!」と肩を叩きながら言ってしまうに違いない。なんというクソなアドバイス。クソバイスだ。よって、今現在自分以外の誰かの気持ちに寄り添える自信がない。所詮、他人は他人で自分とは違う人間なのだから寄り添うも何も最初からできるわけがないというのも一理あるが、少なくとも以前の私よりも今の私は随分とわがままになっている。これは実に危険である。そろそろ落ち着きたい。心の体力がもたない。というのに今週は友人カップルと第2回トランプ大会を開催するし来月には楽しみにしていた劇団の舞台を観に行くし再来月には幼馴染の結婚式にも行く。なんという素晴らしきかな人生。ドン底だった2年前の私が見たら卒倒してしまうかもしれない。毎日を貪り食べるようにして生きている。こんなに楽しくていいのか。私は人生を楽しむに値する人間なのかと脳内のもう1人の自分が叫ぶがもう1人がそんなの知るかと蹴飛ばす。脳内はそのうち後から加わった他の私と乱闘騒ぎになり、最後にはゲラゲラ笑いながら肩を組んでいるので自分ほど信用できない人間もいないなと改めて感じる。見事に自意識過剰で被害妄想と諦めと共に生きてきたので楽しいことにも幸福なことにも慣れてないのだ。もういっぱいいっぱいで溺れて息ができない。呼吸しようとすればするほど肺の隅々まで入り込む幸福。最高。このままタイムカプセルに入って冷凍されてもいいかもしれない。そうして100年後に目覚めた私はこんなことがあってねと目の前のロボットに話すのだ。ロボットは私の記憶をデータ化して世界と共有していき、私は「幸福な人間その1」としてラベリングされ、また眠りにつくだろう。

このまま幸福の熱に浮かされてそのまま溶けて蒸発してしまいそうだ。これからの未来で今より楽しく生きる自信がない。心の平均温度がおかしい。

4年前の手帳に書いていたこと

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久しぶりの休日に戸棚の整理をしていたら手帳がわんさかと出てきた。1番古いもので4年前のものがあったので過去の自分と対面するべく古い順に手帳たちを開く。ふむ、学生から社会人になって生活環境が激変していて内面も大きくではないが変わっている。とある時期に差し掛かると(大抵は夏である)、毎年のように落ち込んでいて面白い。特に4年前の落ち込みようは尋常ではなく、日常を綴る欄に詩やエッセイを書いていたりしていて興味深く読んだ。せっかくなのでここに一部の作品を載せておく。ナルシシズムが全開なのは今でも読んでいて恥ずかしくなるが手帳の中の記述なので予めご了承いただきたい。

 

「雨」

副題 私の神は雨の中に

私は雨女である。遠出をすれば大体曇りから雨になる。雨を私は愛しているので自分自身が雨女なのは大した問題ではない(一緒に遊びに行く人たちからすれば迷惑な話だろうが)。雨の日の深夜から早朝がたまらなく好きである。雨音の中で眠るといつもよりぐっすりと眠れるし早朝に雨の中を散歩することは私の中で「素晴らしいことランキング」のベストテンには入る。ひっきりなしに鳴るスマートフォン、過剰なバッシングと賞賛、SNS、いやに耳に残るCMソングたち。そういったものを雨音はすべて消してくれる。とまではいかないけれど優しく包んで隠してくれるように感じる。雨の日に外に出た瞬間のあのひんやりとした空気に触れた時に私はとても落ち着いてリラックスできる。死ぬなら肌寒くなった秋頃の雨が降る早朝と決めている。一番冷たくて優しいのがその瞬間だと思うから。

 

「友情」

あるようでないもの

ないようであるもの 

 

「孤独」

魂の本質

存在する為の条件

逃れられないもの

子供が愛し、大人が怖がるもの

 

「幸せ」

「桜がもうすぐ咲くなぁ」と心待ちにしているとき

午後2時ごろのポカポカとしたひだまり

お昼寝、おやつ、夜食

好きな音楽と出会った瞬間のあの感動

暑いときの冷たいシャワー

本を読み終えて閉じた時の音

熱い飲み物の湯気

飲み終わってもまだ温かいマグカップ

本屋で何時間もいるとき

スーパーでの買い物

給料日

焼き菓子を焼いているオーブンを開けたとき

雨の日の図書館

映画館の照明が暗くなるとき

おろしたての服

手触りのいいタオル

ミュージカル、舞台、ライブ

親しい人との会話

 

「朝」

希望と絶望の確認

 

「昼」

室内

 

「海」

父に連れられて海へ行った。

1歩ずつ沖へ進んでいくと海底が深くなり、水面が自分の足、腹、胸、首へと上がってくる。まるで緩やかな自殺をしているようだと思った

 

「大人」

対比的なもの

 

他にも10編ほど見つかったが長くなりそうなのでここまでにしておく。書かれた肉筆の字を見ると殴り書きされていたものも多く、文法も表現も荒削りでとにかく心が苦しさで喘いでいるのがよくわかる。偉いね、よく頑張ったねと声をかけてあげたい。過去の私がもがきながら、苦しみながら生きてくれたおかげで今の自分が存在しているのだから感謝しなければならない。でもさあ、今だって結構悩んでるよ。そりゃ4年前の当時に悩んでいたことはもう解決したり時間と共に風化してしまったことも多いけれど別の問題や悩みを4年後の今の私は抱えているし未来の私だって悩むのだろう。加齢によって増えていく問題もこれから出てくるだろうし人生の行方だってそろそろ考えておいた方がいいのかもしれない。つまり端的に言えば結婚したいだとか子供を持ちたいだとかそういう話になってくるけれど自分1人ではどうにもならない問題でもあるのでどうしようもない。結論、難しい。みんなどうやって解決したり結論づけたりしてるんだろう。

あきらめることと受け入れることはよく似ているけれどどこかで違っていて、その違いってどこにあるのだろうと最近ずっと考えている。過去にも戻れず、未来にも行けない私は容赦なく進んでいく今という時間軸から動けないままだ。

つまり、そういうことなのかもしれない。そうかと手帳を開いて今感じていることを書いてみた。今から4年後の私がこの文章を読んでどう思うのかを知るのが楽しみなのでもう少し生きてみようと思う。

夢が叶っていたかもしれない日

f:id:sasanopan:20180418222709j:image 先々週くらい前に突然仕事がまわってきた。詳しくは省くが、どうやら先輩の代打として上司と共にとある媒体の製作をするとのこと。あまりの急なことでこんな下っ端の私でも大丈夫かと胸は不安で埋め尽くされていたような気がする。それからは事前資料を作成したり先輩や上司に相談しつつ自分の想像するプランを立ててみたりとあっという間に日々は過ぎていった。

なんとなく、ただなんとなくとしか言いようがない。仕事の作業をしながら漠然と思った。

「これ、私の夢だ。」

あぁ、そうだった。大学生の頃、おそらく就職活動で悩んでいたときに将来こんな仕事がしたいと社会の何も知らずに思っていたのだった。その夢の中で私は自分の感情もスケジュールも人間関係もなにもかもを完璧にコントロールしていて堂々とやりたい仕事をやっていた。と思う。さて、思っていたのは覚えている。しかし、それは夢ではあるけれど目標ではなかった。絶対に叶わないとわかっていたから夢を見るのだ。そのときは漠然とただ胸の中で抱いていたイメージで就職活動のときには早々とその夢を諦めて一般企業に就職したし、そこで見事なまでに肉体的にも精神的にも滅茶苦茶になって新卒というのに2年も経たずに退職してしまった。退職してから転職活動をするときもあの頃の自分の夢のことなんか覚えてなかった。

だけど今こうして出来ている。そのことに気づいたときはあまりにも驚いて、ショックで、こんなことが人生にあるのかと胸が潰れそうだった。嬉しいだけではなく就活当時の絶望やあきらめや悔しさを一緒に混ぜて何色かもわからなくなった濃くてドロドロとした何かが胸から流れ落ちていく感覚さえあった。怖かった。まだ私は夢を叶えるだけのスキルも経験も足りていない。こうしたチャンスをありがたく受け入れるだけの器もない。頑張ってはいるけれどまだ早すぎる。怖い。

「スケジュールなんとかなったから代打しなくてもいいよ。ありがとね。作った資料もらえる?」

先輩にそう声をかけられたのは媒体製作直前の打ち合わせ前のことだった。ホッとした。せっかくやった資料作成がどうこうとか考えていたプランだとかを横取りされたなんて全然思わなかった。なんという心を読んだかのようなタイミング。実はこの人エスパーじゃないかと先輩を見つめると一瞬の間があって「うん」と言われた。なるほど。エスパーらしい。

夢を見ることと諦めることはきっと紙一重で、叶わないからこそ見続けることができる夢もあるだろう。叶えたくない夢だってあるはずだ。今回のものは「叶えることができたらいいな。無理だろうけど」といったものでそれを今まで目標にまで下ろしてこなかった自分の甘さが原因だ。ここだけの話、今の仕事先で就職できるなんて思ってもなかった。なんとなく自分の夢がそこにあって「受からなくても職場見学と必要なスキルがわかるだろう」と電話をかけ、あれよあれよという間に働くことになり、ここに落ち着いてしまった。憧れの職業を得て、今現在のところ毎日がとても楽しい。頑張りたいと思うし頑張っているとも思う。

ただ、ただ今回のことは青天の霹靂で予想外のものだった。それだけだ。私があのときに感じた夢を叶えることの恐怖は人生の中でこれから幾度となく繰り返される出来事だろう。夢は夢のままでいいこともある。だけど叶えたいとほんの少しでも思う夢なら目標にしてみてもいいのかもしれない。大丈夫。きっとやれる。

はじめてのカウコン

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ジャニーズにハマってかれこれ3年ほど経つがジャニーズカウントダウンコンサート(通称:カウコン)をリアルタイムでテレビ視聴したことがない。ハマって1年目のときには自担であるV6のグループとしての初出場した紅白歌合戦も見ておらず2年目も見れなかった上に録画の画質設定を失敗するというミスを犯した。大げさかもしれないがジャニオタとしてこれらはアイデンティティの関わる重大な危機である。では「なぜお前はジャニオタというのに見ていないのか」と問われればその答えは実に簡単で日本にいなかったからだ。ミュージカルやストレートプレイ(芝居)を好む私は年末になると渡英し、冬季休暇をフルに使ってギチギチの日程の中で劇場に足を運ぶというルーティンを繰り返していたのでリアルタイムも何も時差がある土地にいるので見れなかったのである。ちなみに家族から「V6出てるよ」と紅白歌合戦の画像が送られてきたときは思わず世界の中心ならぬロンドンの中心で「V6が見たい」と叫んだ。恥である。いろんな方面に申し訳ない。つまり、毎年この時期になると私は舞台オタとしての私をとるのかジャニオタとしての私をとるのかで非常に悩むことになるのだが、3年目にもなる去年は渡英の予定を立てることがなかった。というのにカウコンのチケットを申し込み忘れるという失態。なんたること。仕方ないので今年は家で紅白歌合戦からのカウコンをテレビで見ることにするかとあれやこれやと私が考える最強の大晦日を練り上げていたところ、姉(彼女もまたジャニオタである)がチケット当選したから一緒に行こうと声をかけてくれた。姉よ、愛してる。

大晦日。始発の新幹線で東京へ向かい、そのままディズニーへ行って1日満喫しつつそのまま東京ドームへ向かったが体力はもうほとんど残っておらずボロボロで近くのベーカリーカフェで大量に砂糖を入れたミルクティーと菓子パンを胃の中に収め、付け焼き刃としてリポビタンDを飲んで体力のドーピングをはかった。こんな状態で楽しめるのかと不安がる私に姉が「リポビタンDよりもジャニーズの方が効く」と自信満々で言う。今思えば「こいつは何を言っているんだ」であるが、その日ほとんど寝てなかった私は「わかった。なら大丈夫」と神妙に頷いていた。姉も私も疲れていた。

東京ドームへ向かう電車の中で嵐のコンサートグッズと思われるカバンを持った人やKAT-TUNのコンサートグッズらしきペンライトがカバンから顔を出している人がいてなんとなく電車の中が既にカウコンの雰囲気である。遠足は帰るまでが遠足とよく言われるがカウコンは行くときからもカウコンなのかと少しずつ自分の中の気分があがっていく。最寄駅に到着するともうそこはジャニオタの聖地と化していて年齢や担当グループが異なる多種多様な女性たちが各々自担グループと思われるウチワを持って撮影したり語り合ったりしていて何となくこちらも浮かれる。姉がカウコンのウチワを欲しいと言うので私もついていった。なんとなく「私は今回買うのはV6だけでいいかな」(私はV6、ジャニーズWEST、Hey!Say!JUMP、岡本健一さんが好きないわゆる掛け持ちファンである)と思っていると姉が「ええ!買わないの!ありえない!」と驚くので「だって買ってもそんなに見直したり眺めたりしないし…」と応えると「違う!買うのが楽しいのに!何故買わぬ!カウコン来ないと買えないのに!?欲しいなら買う!それでいいの!」と言われ、確かにそうだなと思い自担グループである3グループのウチワを購入しようと物販に並ぶ。隣のお姉さんがSexyZoneのウチワを買っていてチラリと見た私。うむ、かっこいい。素晴らしくかっこいいではないか。そして気づけば「あ、SexyZoneのウチワもお願いします。」と口走っていた。あれ、おかしい。1枚だけ買うはずだったウチワが何故か4枚になっている。私はSexyZoneの曲をほとんど知らないジャニオタだというのに買ってしまった。全世界のセクガルさん、おすすめ曲あれば教えてください。別の物販場所でグッズを買っていた姉と合流する。私を見てドヤ顔をする姉。ウチワを大量に買ったジャニオタの妹を眺めるのはさぞかし楽しかろうと思っていたら「見て。自担がかっこいい」と間髪入れず彼女の自担ウチワを突き出された。そっちかよ。せっかくだから東京ドームを背景にウチワ持って写真を撮ろうとウチワを広げる私と姉。近くにいた人に「撮りましょうか」と声をかけてもらったのでササッと撮ってもらった。すごい。ジャニオタ優しい。近くには警察官が拡声器を駆使しながら誘導していて「素敵なジャニーズたちに見られても恥ずかしくないように皆さんも素敵な移動をよろしくお願いします。」とか他にもジャニーズの有名曲のタイトルを使っていた。面白かったので少しだけ耳を傾けつつ2人で笑った。ハロウィンとかで有名な警察官の人なのかな?

東京ドームに入ったあとは楽しすぎてあまり記憶がないのだが(マジでリポビタンDよりもジャニーズが効いたことは書いておく)、驚いたのはテレビで見るカウコンと実際に会場入りして体験するカウコンは大きく違うということだった。以下箇条書きにする。

 

テレビで見るカウコン

・ジャニーズがいっぱい出てくる

・コラボとか色々楽しい

・カウントダウン楽しい

 

会場入りして体験するカウコン

・ジャニーズが怒涛のように出てくる

・びっくりするくらい出てくる

・見たい人がいっぱい出てくる

・パフォーマンスしていなくてもいる

・待機とか移動している

・動いている。話している

・カメラに映ってなくても小ネタを挟んでいたりパフォーマンスしている人もいる

・ジャニーズを見ているジャニーズ楽しい

・目が足りない。双眼鏡を持つ腕が足りない

・ペンライトとウチワを持つ腕も足りない

・見たものを処理する脳が足りない

・なんかもう自分が足りない

・堪能するために自分が100人くらい欲しい

こんなかんじ。とにかくジャニーズというジャニーズがワラワラと出てくるし東京ドームは広いので正面ステージ、センターステージ、サイドステージ、バックステージにそれぞれ見たい人がいると何もかもが追いつかない。視野の限界を超えたい。超広角レンズと拡大レンズを目に装備したい。テレビ放送で映ってない美味しいところが多すぎる。個人的に放送されなくて残念だったのはジャニーズシャッフルメドレー(各グループが自分たちの曲ではなく他のグループの曲をパフォーマンスするメドレー。とても楽しい)のHey!Say!JUMPがバックステージでKis-My-Ft2の「キ・ス・ウ・マ・イ 〜KISS YOUR MIND〜」を歌っていたときにキスマイタワー(ググってください)をしていてメインステージでKis-My-Ft2が本家キスマイタワーをしていてその2つが放送されたのだが、実はセンターステージでジャニーズWESTもキスマイタワーをやっていて。それはもう楽しそうにやっていたので出来れば映像に残しておいてほしかったなぁ。無念である。

あ、カウコンに参戦しているジャニオタたちが色んなグループのオタ芸を網羅していてそれも参加して初めてわかったことである。というか習得するのが異様に早かったというか。なんてジャニーズ学の偏差値が高い集団なんだ。素敵。

例えば、Kis-My-Ft2の「SHE!HER!HER!」という曲で「キスマイ!」という合いの手を入れるタイミングが何回かあるのだが

・1回目のタイミング

「She! Her! Her! She! Her! Her! She! Her! Her!」

キスマイ担「 キスマイ!」

・2回目のタイミング
「She! Her! Her! She! Her! Her! She! Her! Her!」

会場の大勢「「キスマイ!!!」」

といった具合で「ノれるものは全力でノる」というジャニオタの楽しむことに対する熱量に感動した。V6の「Music for the People」に至っては会場ほぼ全員が「フッフー!」と合いの手を入れており、「すごい…本当にすごい…ジャニオタってすごい…」とひとしきり感動してしまった。さて、カウコン全体としての感想はもう私の2018年エンタメ総選挙ぶっちぎりの1位確定なくらい楽しくて多幸感に溢れたものだったに尽きるけれど、コンサートとしてのクオリティはやはり各グループ単体の方が断然に高いと思う。世界観とかセトリとかあるしパフォーマンスレベルもやはりリハーサルを重ねているのといないのでは大きく違う。よってカウコンはどちらかといえば「完成された作品を観に行く」ものではなく「みんなで楽しく盛り上げて作り上げていくもの」という雰囲気が強く、カウントダウンパーティーに学園祭(文化祭)を混ぜたようなものだと思った。その分、放送されない前半部分の各グループ単体による自分たちの曲のパフォーマンスには舌を巻いた。あと東山紀之さんとジャニーズJr.のやつも動きが揃っていて実にかっこよかったです。帝劇クオリティ。そういえばKAT-TUNの活動再開が発表されたときに隣にいた姉が号泣しながら私の腕をこれでもかというくらい握りしめていて、私の左腕の筋繊維に彼女の指がめり込んでいるのではないかと思うほどだった。本音を言おう。本気で痛かった。けれど「よかった…よかった…。」と泣きながら喜んでいる姉を見ると「よかったねぇ」としか言えなくなってしまい、私の左腕1本くらいくれてやっても別によかろうという気持ちにまでなってしまった。

終演。姉と2人で楽しかった楽しかったと言い合いながらまた物販へ赴き、ウチワをまた購入した。買ったのは私である。キスマイウチワである。いや、あの、だってキスマイのパフォーマンスがあまりにもかっこよかったものですから…仕方ないじゃん…。

ジャニーズカウントダウンコンサートはめちゃくちゃに楽しかった。会場全体のあのワクワクとした雰囲気や観客や参加しているジャニーズたちの楽しい気持ちの相互作用はどんな栄養ドリンクよりも私を元気づけて幸福にしてくれた。安っぽい言葉になってしまうけれど「2018年も頑張るぞ」という気持ちになれたし今もその気持ちは継続している。ジャニーズにハマってからそのジャンルの大きさと情報量の多さに困惑することも多かった。光が大きければその分闇も深くなり、あれだけ膨大な量の愛を受け取ることができる代わりに果てしない憎悪だってぶつけられるであろうジャニーズ。日本の娯楽ジャンルの中で最大規模である彼らを取り巻く状況や彼ら自身に対して色んな意見や要望が日々叫ばれているけれど、間違いなくあのカウントダウンコンサートにいたときの感動や多幸感は本物で素晴らしいものであったということを私は言いたい。素晴らしかった。あれだけの「好き」を集めた空間は他では再現できないだろう。それくらいの「大好き」があの中にはあってそれぞれの「カウコン楽しかった」が今の私と同じように日々の生活の中でも支えとなっている。すごい。愛だ。愛である。まさしくAll you need is Loveの世界だった。

 

ジャニオタの皆様

そうではない皆様

2018年あけましておめでとうございます

今年もエンタメを摂取して私は生きます

 

 

オマケ

カウコンのために作ったうちわ

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ありがとうございました。

本当にありがとうございました。