舞台「ビニールの城」感想 〜すると、あなたも腹話術師だったんですね。〜


舞台「ビニールの城」感想 〜すると、あなたも腹話術師だったんですね。〜


シアターコクーンホームページ
http://www.bunkamura.co.jp/s/cocoon/lineup/16_castle.html

2016年8月14日(日)14時公演

作:唐十郎
演出:金守珍
監修:蜷川幸雄

「うへぇ気味が悪い。」
座席に座って舞台を見た瞬間に軽く後悔した。薄暗い舞台にはズラリと並べられた何十体もの腹話術人形が所狭しと鎮座していて怖いというより、むしろおどろおどろしかった。人形の何体かは人間大の大きさで人形なのか人間なのか見分けがつかないくらいで既にこの時点で気持ち悪い。うへぇ。

ざっくりあらすじ:腹話術師の男が、かつて連れ添った相方の人形を必死に探している。そんな彼に好意をもつ女、その夫、彼らを囲む奇妙な人間達がおりなす物語。アングラの最高傑作。らしい


あらすじ(長いのと正直わかりにくいので読み飛ばしても可):腹話術師の朝顔(森田剛さん)は、8ヶ月前に別れた相棒の人形・夕顔を探し続けている。バーで酒を飲んでいると、かつて朝顔と夕顔が暮らすアパートの隣に住んでいたと話す女、モモ(宮沢りえさん)と出会う。人形のことは忘れて自分の想いを受けとめてほしいと唐突にモモは迫るが、生身の人間と向き合うことができない朝顔はつれない反応だ。モモを愛する夫の夕一(荒川良々さん)は、ままごとのような夫婦を懸命に演じているが、モモへの愛は報われず、もはな人形の夕顔と自分を混同させている。そこで吐露される女の秘密。モモはビニールの中の女、朝顔が住んでいたアパートの一室に捨て置かれていたビニ本(ヌード雑誌、エロ本)を飾るヌードモデルだったのだ。奇妙な男たちがバーに集い、モモの妹分リカは再びビニールの世界へと再びモモをいざなっていく。一方、水に沈められた人形を救出しようと、朝顔は巨大な水槽に潜る。しかし、朝顔が探し続けていた夕顔はモモがおぶっていたネンネコの中の人形だったのだ。混乱の中でさまよう朝顔にモモは必死に訴える。「助けて、ビニールの中で苦しいあたしを!」水の中から浮かび上がるのはビニールの城。その中にいるのはモモなのか。(パンフレット掲載あらすじ)

貴方は「不気味の谷現象」という現象をご存知だろうか。ロボット(機械)が人間の姿、形に近づくにつれて人間は好感度を上げていくが、ある一定の酷似レベルになると途端に嫌悪感を抱き、そのレベルを超えると(より人間らしくなってくると)また好感度が上がる。というものである。既にこの文章だけで、気持ち悪いという方はこのまま読み進めてほしい。実感のない方は1度ご自分で調べて画像検索なり動画検索なりしてみるといいだろう。オススメはしない。では、話を舞台の感想に戻す。舞台「ビニールの城」は腹話術師を主人公とした話で腹話術師が数名と腹話術人形が大量に登場する。しかも「生身の人間が演じている腹話術人形」も何度も登場する。人間と人形の間を行ったり来たりする本作品は、つまり先述の「不気味の谷現象」の谷底を這っているような作品である。そりゃあもう気味が悪い(褒めてる)。初っ端から嫌悪感を抱く人も少なからずいるんじゃないだろうか(褒めてる)。最初から最後までアンダーグラウンド唐十郎さん脚本)×蜷川幸雄さん監修カラーが色濃く、「これがアンダーグラウンド作品というやつか」と妙に納得した観劇体験であった。訳の分からない台詞や設定に混じった特有の濃い空気感とジワジワと役者達から滲み出てくるエネルギーの気持ち悪さに拍手した。

主人公である朝顔は人形とばかり向き合っていて、その元相棒人形である夕ちゃん(夕顔)を必死になって探しているところから物語は始まる。「ゆうちゃあん、ゆうちゃん」と執拗に呼び、棚に並んでいる腹話術人形に手を触れ、語りかけ、手を突っ
こむ。人形の管理人が「みんなここに人形を捨てていくんだ(なのでここに夕顔をいないんじゃないだろうか)」と諭すと彼は「僕は捨てたんじゃないです。お互いに冷静になるために、一度離れて暮らそうと思って」と答える。この男、何かがおかしい。

「人形は常に冷静でしょう。」
「僕の場合、夕ちゃんとは、常に冷静に相対すわけじゃありません。」

「芸じゃありません。僕らの見せるものは、4畳半のアパートからの延長でした。」


そんな朝顔に想いを寄せるモモも登場初っ端から奇妙な行動をとる人物である。新聞を被って登場し、トンチンカンな言葉を発し、背中には「3日でこさえた」赤子をネンネコ(ちゃんちゃんこのようなおんぶ服)に背負っている。このモモが作品名である「ビニールの城」の住人である。要するにビニ本の中の住人(ヌードモデル)である。リンリンとまるで鈴を転がすような声で話すので、とても愛らしいと感じる部分もあるのだがやっぱり彼女も変である。

「あなたが、封を切らずに持っていた、ビニ本の女です!」

「いやだよ、朝ちゃん。苦しいんだよお。」

「ここは、やはり塔の上です。」


そしてモモの夫である夕一は、モモを愛するあまり、夕顔(人形)と自分を混同させてしまうような人物である。自己犠牲の塊のような人物で、なのにその行為がひとつも報われないので可哀想を通り越して痛々しい。

「帰ろう、モモ。」

「朝やん、僕は、あなたが探している夕一ですよ。」

「じゃ、なぜ、僕を8ヶ月も取りにこなかったんだ!」
「夕ちゃん、僕は」
「夕一だっ。」


この作品に出てくる人物達は恐ろしい程に不器用である。目の前にある正しい道を踏み外し、間違った道を最善と思い込んで選び続ける。彼らは人間らしいと感じるレベルを超えているくらい不器用だ。不器用なキャラクター達が不器用ながらに全力で不器用に駆け抜ける奇妙な作品だ。戯曲としての完成度は結構高いんじゃないかと思う。戯曲ならではの台詞で韻を踏んだり、言葉遊びが散りばめられていたり歌のシーン(歌い上げるのではなくポソポソと漏らすように歌うので詩の朗読に近いと思われる)があったり、演説シーンもしっかりとあるので何処となくシェイクスピア劇を彷彿とさせる作品でもあった。

しかし、非常に分かりにくい。世界観の設定(時代設定)、物語の進み方、出てくる単語が分かりにくい。初演当時の時代背景や、その時代のことを実感して理解している人達が観客にいた時代に行われたであろう再演、そして今回の公演の観客層(後述)のことを考えると、多少なりとも改編してもよかったのではないだろうか。いわゆる「ビニ本」独特の、あの湿気を含んで少しばかり膨らんでいるような、あの、ビニールに包まれているという独特の下品さ、あの中に詰まっているであろう男性の性欲の獣臭というか、そういうのが分かる人達が観客にどれくらい居るのだろうかという話であって、自販機とかコンビニで買うのではなくて、古びた本屋の店頭に並べられて陽に焼けてるあの嫌な感じとか。その裏には暴力団が絡んでいるだろうなという裏社会のタブーさを孕んだものなんだビニ本というものは。

えらい方向に脱線してしまったので話を変える。

本作品には複数の腹話術師と大量の腹話術人形が登場するのだが、今のSNS社会というかネット社会を的確に表しているのではないだろうか。

腹話術師=現代人
腹話術人形=スマートフォン、パソコンなどを通じて使われるSNSのアカウント

この「腹話術」という単語が上手いなあと思う。彼らの「腹」が話す。比喩的表現で「腹を割って話す(本音を話す)」という言葉にもあるように腹話術人形が話すのは腹話術師の本音である。腹話術師のパフォーマンスとして腹話術師の本音(観客の本音や世論)を人形に話させる。というものがあるので面白い。
別の腹話術師と朝顔がするやり取りに下記のようなものがある。

「人形が言ってるんじゃないでしょう。あなたがあなたに言っているんです。」
「僕が僕に話してるなら夕ちゃんは何なんだ!」

朝顔はネット社会に向けて発せられる自分の本音と建前が分からなくなってしまっている迷える現代人にも見えるのである。そう考えるとモモはネット社会(ビニールの中)に閉じ込められた人にも見える。となると夕一は自己承認欲求を抑えられないで何が何でも愛する人に愛されたいという孤独を背負っているように見える。この腹話術師と腹話術の関係は、星新一によるSF短編小説「肩の上に秘書」という作品に近いものがあるので興味のある方は是非読んでほしい。肩の上に乗っているのは腹話術人形ではなくオウムの形をしたロボットではあるが。ビニールの城に戻っていくモモと取り残された朝顔に観客が何を感じるのかが気になるところではある。

森田剛さんについて
私の推しです!私!森田担当です!V6大好き!と手を高く高く上げて主張しておく。
映画「ヒメアノ〜ル」では狂った殺人鬼を演じ、自慰行為のシーンまで演じてみせた森田剛さんの仕事選びに対して現役のジャニーズアイドルという立場を勝手に心配していた私ではあるが、今回の作品なんてビニ本が作品の中核を担っているので「森田さん何処へ行くんだ。私を置いていかないでくれ。」という気分である。身長が160cm台前半という小柄な体型と年齢を感じる顔、そしてやや高めの声、なのに背負っているオーラからは孤独と哀愁感を感じるので舞台の上を歩く彼は年齢不詳である。また、森田さんの声はハキハキとよく通るものではなく、いい意味で耳に残りやすい特徴的な声なので俳優として面白い人材だろうと感じた。何よりこの森田剛という人物自体、底が知れないのでこれからもっと活躍してほしい。

箱、観客について
断言する。小さい箱で観たい。この意味のわからない嫌な空気感(褒めてる)を密度の高い空間に押し込めたらどんな作品になっただろうかと思う。また観客について、ジャニーズアイドルである森田剛さん目当てで観にきているのか、それとも舞台観劇を趣味とする人の性別が女性に偏っているのか、男女比が男性1に対して女性20くらいのものであった。題材が題材なので、観客を男女半々くらいにして観たらどうなっただろうかとも思う。森田剛さんがジャニーズアイドルではなく、ただの1人の俳優としてだけ活躍していたらどうなっていただろうか。逃れられない事実であるので仮定の話をしたところでどうともならないが。

まとめ
戯曲自体の面白さは高い。箱の大きさや観客層と世界観の設定にズレを感じたものの、作品の気持ち悪さは好みであった。役者達もこの戯曲と世界観について咀嚼しきっていないような感じも見受けられた。もっと泥臭くてもっと下品でもいいのではないかと個人的には思う。舞台装置も見応えのあるものだったので「もう一度観たいか」と言われれば「観たい」と即答するであろう。プログラムも戯曲も買ったので何度も読み返して解釈し直してこの余韻を楽しむつもりだ。


おまけ
森田剛さん実在した(真顔)