東宝ミュージカル「エリザベート」感想 ~生の完全な燃焼が死だ~



生の完全な燃焼が死だ。
生の躍動と充実の究極が死だ。
 高見順(小説家


ミュージカル「エリザベート
脚本・歌詞 ミヒャエル・クンツェ
音楽・編曲 シルヴェスター・リーヴァイ
演出・訳詞 小池修一郎

公式サイト 
      
帝国劇場 
http://www.tohostage.com/elisabeth/index.html

公式PV



あらすじ
19
世紀末、オーストリア皇后エリザベートが殺害された。彼女を暗殺した男、ルイジ・ルキーニは100年間も煉獄の中で尋問され続けている。彼は動機を「グランド・アモーレ (イタリア語で偉大なる愛) 」といい、「死 (トート) 」が彼女を愛し、彼女も「死」を愛したから殺したと供述する。ならば証明してみよと言わんばかりにまだ幼い少女の姿をしたエリザベートが現れる。ルキーニは彼女の人生を追っていくことで自分のした行為を証明しようとする。彼女にとって人生とは何か。死とは何か。


個人的な話をする。私がミュージカルというものにハマったきっかけは、宝塚歌劇団花組公演「エリザベート 愛と死の輪舞」(2002 年公演)のビデオを見てルキーニ役の瀬奈じゅんさんに惚れたからである。おそらく100回以上はビデオで見たかもしれない。最初から最後まで 1 人エリザが出来るくらい私はエリザベートが好きだ。そして、ルキーニというキャラクターが好きだ。大好きだ。愛してるといっても過言ではない。それくらい私にとってミュージカル「エリザベート」という作品は大きな部分を占めている作品である。

宝塚バージョンは水夏希さんがトートを演じた雪組公演、瀬奈じゅんさんがトートを演じた月組公演を観劇し、瀬奈じゅんさんが宝塚歌劇団を退団されてエリザベートを演じた東宝( 旧演出)も観劇した。ウィーン版も大好きだ。だが、自分の中で何となくではあるが初めて見たエリザベートを好きすぎて再演が繰り返されているにも関わらず「見なくてもいいかな」と思っていた。すると、去年からポツポツと自分のタイムラインで「東宝エリザがすごいらしい」とのツイートをよく見かけるようになった。

東宝エリザがすごい」
「最もチケットが取れない国内ミュージカルのひとつになっている」
花總まりがとにかくすごい」

ほう。花總まりさんなら私も知っているぞ。元宝塚歌劇団宙組の主演娘役で恵まれた頭身と圧倒的な実力。主演娘役(トップ )としての在任期間は歴代最長というお方である。通称はなちゃん。お花様。知っているぞ。あと、日本初演ののエリザベートでもあるので、まぁ、すごいことにはすごいのだろう。だがそんなことでは私は動かぬ。大体、チケットが取れないのだから仕方ない。

「成河さんが演じるルキーニがすごい」
「かつてないルキーニ像」
読売演劇大賞にノミネートもされたらしい」

おう。まじか。行くわ(チョロい )

自分のルキーニ愛に若干引きつつ、チケットぴあのモアチャンスやら、何やらで計4 回観劇することができた。運よく花總まりさん、蘭乃はなさんの両エリザベート井上芳雄さん、城田優さんの両トート、成河さん、山崎育三郎さんの両ルキーニ、涼風真世さん、香寿たつきさんの両ゾフィーも観ることができた。梅田芸術劇場のみの観劇なのでフランツやルドルフの全キャスト網羅!という訳にはいかなかったが、とても満足している。その中でも自分にとってベストキャストの公演の話をしたい。



このキャストである。
なにも、片方が好きだからもう片方は嫌いだとかそういう話ではない。蘭乃はなさんの最初から最後まで全力のエリザベートも好きだし、井上さんのトートの素晴らしい歌唱力と舞台空間を掌握する帝王感には舌を巻いた。山崎さんのルキーニだって山崎さん自身のスター性が遺憾なく発揮されていて、どこかセックス・ピストルズシド・ヴィシャスを彷彿とさせるアナーキーなカッコよさがあるルキーニだった。涼風真世さんのゾフィーもとても美しく、女である皇后ゾフィーの威光があるゾフィーでとても好きだ。なので繰り返すがこれは好き嫌いの話ではなく、「このキャスト達が演じるキャラクター像の解釈を私が気に入ったから」という話である。既に複数のバージョンを観劇済の方はおわかりだろうが、それぞれのアプローチがかなり異なっているためにキャラクター像も大きく違うし、それがさらに作品像の違いへと繋がっている。よって、この感想文は「私による私のための最強のエリザベート観想考察文」である。しつこいが、「このキャストが最高!おすすめ!それ以外はあんまり 」という話ではない。もし、この文章を読んで気になった方がいれば是非複数回観劇して貴方だけのベストキャストを見つけてほしい。

前置きがかなり長くなったがようやく本題に入る。

この東宝演劇部(以下東宝 )によるミュージカル「エリザベート」は2015 年より同演出家による新演出で公演されている。台詞の追加、カットが行われ舞台セットも大きく変わっている。元々このミュージカル自体がかなり変化し続けている作品であり、公演する劇団、演出によってかなり作品の印象が変わる。宝塚歌劇団が上演している「エリザベート 愛と死の輪舞」は宝塚歌劇団の特徴である男役スターを前に出すために「トートとエリザベート恋物語」へと作品を仕上げている。旧演出の東宝版もそちらに近いものがあったように思う。さて、今回の新演出、新キャストから成る「エリザベート」は私にとってどんな作品だったのか。

薄汚れた歴史絵巻だと思った。
タイトルは「エリザベートの一生」。ただし、この絵巻は断片的なものが繋がっていて、つぎはぎだらけ、しかも所々汚れたりかすれたり、落書きがしてあったりで信憑性がまるでない。しかし、ここに描かれているのは確かに実在した一人の人間の人生だ。小説の手法で「信用のできない語り手」というミステリーの手法があるが、それに近いものを感じた。

では、書き手は誰か。語り部であるルキーニにほかならない。それではルキーニとは一体何者なのか。彼はこの物語の信用のできない語り手だ。何故、信用できないのか。それは彼自身が狂人だからではなく、彼自身がどこにでもいて、どこにもいない人。つまり、「噂」、「世論」のアイコン (象徴) だからだ。大衆の無責任な「こうらしいよ。」「へーそうなんだ。」の連続で書かれている噂の中に彼はいる。新聞の中に彼はいる。不安定な歴史資料の中に彼はいる。成河さん演じるルキーニは数々の場面で色んな役として登場する (もちろん、観客には一目で彼がルキーニだとわかる) が、いかにもいつもどこかにいそうな雰囲気をもっていて、いい意味での影の薄さがあり、いるのかいないのかわからない存在だ。だが民衆をあおり、言葉を残していく無責任な危うさがある。

そしてルキーニがルキーニ自身として動いているときの気味悪さ。爪をかじりニヤニヤと卑しい笑いを顔に貼り付けている。唐突に奇声をあげる。エリザベートを突き刺して殺害したあとに「え、やっちゃった。俺やっちゃったよー。」とでも言いたげな軽さで彼は動く。彼をただの狂人と言えばいいのだろうが、言動の無責任さには観客である自分にも返ってくるものがあり、とても恐ろしい。

100
年間尋問され続けてきた彼は、ある意味、現代人の視点、要は観客の視点を持つ唯一の登場人物である。彼の正体は「噂」「世論」「社会の感情」と考えると、彼を構成しているのは今を生きている我々である。ルキーニがエリザベートを殺害し、一つの歴史を破壊したという舞台上の事件は、見方を変えれば、無責任な社会の感情が世界を変えていき、それが歴史になるという世界のリアルなのかもしれない。

ルキーニの話ばかりしているので他のキャラクターの話もしたい。

このミュージカルはエリザベートという1人の女性の人生を追った作品で、彼女自身と彼女に関わる様々な人物が登場する。

彼女は自由を求め続けた女性で数々の挑戦をし続けている人物だ。それは彼女の人生の最期まで続くこととなる。嫁ぎ先であるオーストリア皇帝一家のしきたりを押し付けられた彼女は「たとえ王家に嫁いだ身でも命だけは預けはしない。私が命を委ねるのは私だけだ。」と素晴らしいアリアを歌い上げる。それは心からの叫びと決意であり、自我の確立でもあった。その決意は揺らぐことなく、時には夫でもある皇帝に自分の願いを要求し、認めさせることになる。だが、彼女は満たされず旅を続け、詩を書き、魂の放浪を続ける。

一見、彼女は古いやり方を嫌い、自分の意見をはっきりと言える先進的な女性にも見えるが、実際は自己矛盾にまみれたエゴイストでもある。それは登場シーンからも現れていて、彼女は冒頭で鳥を銃で撃ち殺そうとする。「鳥のように解き放たれて 自由に生きたい」と主張しているのにもだ。「教育を任せてほしい」といいながら、自分は旅に出続け、慰問へ行った精神病院では「私がエリザベートだ」と主張する患者に「ひざまずくのは貴方よ」と自分が皇后であることを誇示しつつ「私が貴方ならよかった」と言い放つ。皇后という身分を存分に利用し、その立場を守り続け、同時に嫌悪している。とても人間らしい人物だとも思う。

トート(死)はそんな彼女の死への羨望や憧れから生まれた概念の擬人化である。場合によっては、エリザベートの心の本音であるようにも思え (実際、 と共鳴している もあ 。ここで面白いと感じたのが彼女の人生においての頂点においても彼が登場することである。夫であるフランツに要求を全て飲ませたとき、ハンガリー王妃になり、「勝った」と彼女が自信と誇りに満ち溢れている時にもトートは登場する。人間が「生」を1番実感するのは「死」が身近に迫った時である。

生と死は裏表だ。死にかけているときに人は己の生命を渇望する。この作品はそういった点において、この生命の裏表、光と陰と対比がとてもいい。エリザベートの「生」が光輝けば輝くほどトートの死は近くにいる。その死の香りが国家を破滅へと追い込む。終始一貫してエリザベートは帝国の破滅の象徴として描かれている。トートが彼女から離れて行動するシーンもあるが、それだって革命を蜂起させる行動である。 彼女の本音が帝国の滅亡を望んでいたのだとしたらトートの行動にも納得がいく。

エリザベートとフランツが出会って「一緒になろう」歌い、告白するシーンはとても無邪気で可愛らしく、それだけは私は涙ぐんでしまう。2人の決別のシーンでも同じ旋律が使われているからである。リプライズはミュージカルの醍醐味の一つなので音楽とはすごいなあとしみじみ思う。

中心とした人物はいるが、このミュージカルで描かれているのは群像としての人間である。彼らのそれぞれの人生の物語である。エリザベートは多くの間違いを犯す、自由を求め続けながら目的と手段が混在していて、それでも「自由を」を叫び、まるで呪いのように自由という鎖で自分を縛り続ける。フランツもルドルフも、ゾフィーでさえも良かれと思い、間違った方向へと進んでいる。しかし、最初から最後まで正しい道を歩む人間なんて存在しない。間違いを犯し、失敗する。それが人間だ。彼らは人生において、自分が自分にとって常に正しくあろうと生きてきた。戦ってもきた。それは破綻しかけている帝国貴族の人間であろうが、今現在、生きている我々であろうが、かわりはない。

エリザベートは生きて生きて、目一杯生きて死んだ。それだけだ。だが、それが人生だ。

最後の生と死の境界でエリザベートとトートが歌う「私だけに」のリプライズは、人生賛歌の歌でありながらその結末は死という非常に皮肉な歌でもあった。

だというのに、どうしてここまで心が震え、感動するのだろうか。素晴らしかった。胸の内から迫り来る言葉にできない感動の波が溢れそうになったときに人は涙を流すのだと学んだ作品でもあった。

本作品、東宝ミュージカル「エリザベート」は10月8日から10月23日まで愛知県名古屋市中日劇場で上演されるのでここまで読んでくださった方は是非足を運んでいただきたい。

中日劇場公式サイト



あー良いもの観た。最高。