はじめての歌舞伎(錦秋特別公演2016)


「舞台装置とか演劇というのは、非常にグローバルなものだと思うんです。1つの国家か民族とかそういう発想に固まる必要はないですし、もちろん歌舞伎が1番だと思う人は、そっちのほうをやっていただいていいんですが、少なくとも僕らの感覚で考える演劇とか、つまり表現することとというのは、決まりごとにこだわる必要はあまりないと思うんです。私たちは、歌舞伎が生まれ育った土壌で今の演劇をやっているという状況を忘れることはできないけれども、シェイクスピアにしても、現代の新しい作家の新しい芝居にしてもそういうこだわりのない感覚で作った方がいいと思うんですね。」

高校生を対象にした舞台美術講座での講師の言葉である。日本の舞台を勉強するにあたって歌舞伎は外せないものだ。というより舞台に関する文献を読んでいるとかなり頻繁に歌舞伎の話がでてくる。現代のアイドル文化や劇場におけるスターシステムなど、歌舞伎を土壌とする文化は今の日本でも形を変えて成長している。

そんなわけでなんとなく「(舞台を勉強するにあたって)歌舞伎も実際に見とかなきゃダメだな。」と私は思っていた。さらに舞台「真田十勇士」を観て中村勘九郎さんに惹かれたのもあって、今回劇場に足を運ぶこととなった。生まれて初めて歌舞伎を観たのである。



はじめての歌舞伎レポート ~錦秋特別公演2016~

・劇場内販売グッズ
観劇の記念になるかと思い、パンフレットを購入した。他にもチケットフォルダーや中村家の家紋入りハンカチ、ティッシュケースなど、ミュージカルなどで販売されているものとそう変わらないように見えたが、なんと端でお米とお酒が予約販売されていた。(中村勘九郎さんのご子息である3代目中村勘太郎、2代目中村長三郎の初舞台を記念して植えられた米と、その米で作られた清酒らしい。)

メモ:歌舞伎は米まで売る(たぶん違う)

あと舞台写真が印刷されているカレンダーが飛ぶように売れていたのはさすがだなと思った。

・客層
50~70代と思われる夫婦の方が多く見受けられた。また着物を着ている方も大勢いて、若い女性はこれでもかというくらい鮮やかな柄の着物を着こなしていて客席に華を添えていた。もちろん、きっちりとした恰好の方もいればジーパンにスニーカーというラフな人もいて大衆娯楽らしさを感じることができた。

・演目
歌舞伎塾(立役、女方のできるまで)
汐汲
女伊達
の3本立てである。以下、順を追って感想を書く。

まずは1本目の「歌舞伎塾」
幕が上がるとペターンとお辞儀をした中村勘九郎さんと中村七之助さんが登場し、舞台上には楽屋を模したセットがあった。そこに歌舞伎役者が2名登場し、どのようにして歌舞伎が作られているのかを実践しながら見せてもらい、それを勘九郎さんと七之助さんが面白おかしく解説するという私のような初心者には非常にありがたいものである。さらに歌舞伎役者の準備だけではなく音の演出効果の実践と解説までついていたのでありがたい話である。

さて、立役(男役)と女方(女役)の化粧の仕方、着物の着付けを見るのは意外と面白く、普通の(と書くと誤解を生むかもしれないが)成人男性2名が一生懸命化粧をほどこすことによって歌舞伎役者へと出来上がっていくのは勉強になった。特に女方と呼ばれる女役をする役者は目吊りという左右に長いヒモがついた頭巾のようなものをかぶり、そのヒモを頭上でギュッと結ぶことによって、いわゆる顔面テーピングをしていたのは驚いたものである。詐欺メイクじゃん。

そして、次に衣装となる着物を着ていくのだが、何枚着るの?というくらいドンドン着物を重ねていく。必然的にドンドン着膨れして大きくなる役者さん達。そこに大きなカツラを被る役者さん達。

いや、デケェよ(物理)

はい、これで出来ました。と前に出てきた御二方の大きいこと。3まわりくらい大きくなっている。以前観劇した来日版キンキーブーツにおいて「ドラァグクイーン達の恵まれた長身は舞台ですごく映える」といった趣旨の話をしたが、「恵まれないのなら足しちゃえばいいじゃない」と衣装やカツラによって大きくなった歌舞伎役者達を見てこういったアプローチ法もあるのだなと思った。

途中に勘九郎さんと七之助さんの質問コーナーがあり、選ばれた3名の観客からの質問に答えられていた。

質問①
(勘九郎さんに対して)舞台「真田十勇士」の大千穐楽でおみっちゃんにキスされてましたがどうでしたか?

正直、「歌舞伎塾関係なくね?」と幻滅してしまった。外部の舞台作品の大千穐楽の内輪ネタをここで聞くなんてなんて野暮なことをなさるのだろう…。それとも歌舞伎界ではこれが普通なのだろうか? 勘九郎さんと七之助さんがやいのやいのしながら上手く返されていたが、なんだかなぁという気持ちになった。

質問②
御兄弟で恋人役や夫婦役をされることもあると思いますが、そのへんどうなんでしょうか(気まずくなったりしないの?)

幼い頃からコンビとしてずっと舞台に立っていたので当たり前すぎてなんの違和感もない。とのこと。なるほど。歌舞伎では実の兄弟が舞台で恋人役や夫婦役を演じる。それが当たり前になっていて「全力で愛しますよ」と本人の口から言われる。そりゃ萌えるだろうなと思いました。いろんな意味で。

質問③
◯◯の再演の予定はないのでしょうか?勘九郎さんはする予定がないと明言されていましたが云々

忘れたので割愛


準備が出来たお二人が「草摺引(くさずりひき)」を披露して1本目は終わり。

草摺引超ざっくりあらすじ…男の人が敵討ちに行こうと鎧を片手に出て行こうとするのを妹が「まだ早い」と引き止める話。鎧の引っ張り合いだけの話。

ついでに
汐汲超ざっくりあらすじ…海女である女の人(中村七之助さん)が都にいる元カレのことを想って踊る話。

女伊達超ざっくりあらすじ…伊達男2人を相手に勇ましい女伊達が喧嘩の真っ最中。そんな女伊達にも想い人がいて恥じらいながら想いを明かしていく。という話。

どちらかというと物語を楽しむのではなく舞を楽しむための3本立てだったので、ミュージカルでいう「ヒット作のヒットダンスナンバーの1曲をスター俳優が演じるショー」みたいなものだと捉えておいた。

今回この3本の歌舞伎を観たわけであるが、ごめんなさい。さっぱりわからなかった。何がわからないかというとナレーション的役割を果たしてくれる長唄がわからない。聞き取れなかったのである。もう劇場の真ん中で「字幕をください」と叫びたいほどであった。

歌舞伎を和製ミュージカルと例える人が多くいるが、まさしくその通りで歌によって物語が進んでいくのである。それが現代人である私の耳では拾えない。江戸時代に成立したとされる歌舞伎。当時のことを考えるとそれこそ現代でいうミュージカルみたいなものだったのだろうと思う。流行りの作品があれば、その作品の歌を大衆が口ずさむこともあったのだろう。絶賛されるような美しい舞があればそれを真似て知人に見せるようなこともあったのかもしれない。だが、かつてのように日常的に和歌を嗜む人は現代において激減している。ポップス、ロック、ジャズ、クラシックなどありとあらゆる音楽文化が日本で輸入された結果、我々にとっての音楽が和歌ではなくなってしまった。同じくして日本語も進化をし続けた。もはや歌舞伎の世界とは言葉と音楽も違う異国の地であるとすら思う。

演目や公演、会場によってはイヤホンガイドや字幕を利用することができるらしいので次回行くことがあれば是非利用したい。にしてもイヤホンガイドによる解説や現代語字幕が必要な歌舞伎とは今の世界で大衆文化、商業演劇として成り立っているのだろうかと素朴な疑問な浮かんだので詳しい方に解説してもらいたい。

少し話題を変える。今回の観劇で色濃く感じたのが「歌舞伎とは血の文化」であるということだ。中村家だけではなく歌舞伎の家柄というものは養子を何度か迎えながらも血を絶やさずに芸と共に名を継ぎ続けている。歌舞伎の家に男子として産まれた瞬間に歌舞伎ファンを含めた誰もが「歌舞伎役者が産まれた」と思うだろう。その子が長男ならば「世継ぎが産まれた」とも思うだろう。歌舞伎の道を選ばずに会社員になった人もいるらしいので強制的なものではないと思うが、それでも暗黙の了解で「家柄の血を継ぐもの」が求められているような気がした。物心つく前から舞台に立ち、周りの期待に応えるべく芸を磨く彼らは祝福される存在でもありながら血に呪われた存在でもあるのかもしれない。だからこそあそこまで舞台上で輝けるのかもしれないが家柄も含めて楽しむ歌舞伎ファンにグロテスクなものを感じた。(そもそもファンとは身勝手でワガママなものなので歌舞伎に限ったことではないとは思う。)

つらつらと書いてきたが、歌舞伎ならではの舞台演出法にはなるほどなぁと感心しきりだったし(舞台でありながら2次元的なアプローチが多く、アニメのセル画のような印象を受けた)、勘九郎さん、七之助さんの女方の美しさはもうたまらないものがあったし、派手な着物は見てるだけで「綺麗!高そう!超高そう!」とはしゃげるし、また行ける機会があるのならしっかりと予習をしてから臨みたいと思ったのもまた事実である。楽しかったよ!歌舞伎座行ってみたい!


オマケ
せっかく京都に行ったので京都っぽいものを食べてきた。漬物も買って帰った。