「遠野物語 奇ッ怪其ノ参」感想 〜話を聞かせてもらおう〜





脚本・演出:前川知大
劇場:兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール

公式PV



作品の核心となるネタバレを含みます

あらすじ   

今は昔、あるいは未来。舞台となる世界は、現実から少しずれた架空の日本。社会の合理化を目指す「標準化政策」により、全てに「標準」が設定され、逸脱するものは違法とされた。物事は真と偽、事実と迷信に明確に分けられ、その間の曖昧な領域を排除した。管理の整った首都圏は標準に染まり、地方も固有の文化を失うことで衰退しつつある。作家のヤナギタは、東北弁で書かれた散文集を自費出版したことで、任意同行を求められた。方言を記述したうえ、内容も迷信と判断され、警察署の一室で事情を聞かれている。迷信を科学的に解明することで著名な学者、イノウエが召喚され聴取に加わった。ヤナギタは、書物は標準語と併記のうえ、内容も事実だと主張する。それはある東北の青年から聞いたノンフィクションであり、流行りの怪談とは違うと話す。しかしイノウエは、書かれたエピソードは科学的な解明が可能なものに過ぎないが、奇ッ怪なように書くことで妄言を流布し、迷信を助長するものであると批判する。散文集のエピソードについて二人が議論をする内に、次第にヤナギタが著作に込めた思いや、イノウエが怪を暴き続ける個人的な理由が浮き彫りになっていく。そんな中、ヤナギタに物語を語った東北の青年、ササキが警察署に現れる。イノウエはササキに真意を求める。しかしヤナギタはササキが現れたことに動揺している。彼は今ここに居てはいけないのだ…。散文集(「遠野物語」)のエピソードを紹介しながら、ヤナギタとイノウエは真と偽、事実と迷信、この世とあの世といったものの、間(あわい)の世界へ迷い込んでいく。



感想
以前、ABCホールにて上演された劇団イキウメによる「太陽」を観てからというもの、劇作家・演出家 前川知大の書く作品の面白さのとりことなってしまった。彼の手がけた作品のDVDを買って夜中に泣きながら見たり(「散歩する侵略者」を観てタオルがビショビショになるくらいオイオイ泣いた)、上演台本や小説を読んだりしていわゆる前川ワールドに少しでも触れていたいと思いながら日々を過ごし、ようやく「太陽」以来の生の前川氏の舞台である。とても楽しみにしていたし個人的に好きな俳優である仲村トオルさんと浜田信也さんが出演されるのもあって二重に楽しみにしていた公演であった。実際観に行ってよかった。面白かった。恐ろしかった。
   
私は上演する直前の観客席の照明がゆっくりと暗くなる時間がとても好きなのだが、この作品ではまず一人の男性が舞台に登場し、観客に向かって話しかけるところから始まる。観客もそれに応える。客席いじりもあって何となく場が和むが、これでは芝居というより漫談に近い。とすると、この物語は観客がこの男性(イノウエ)によって語られる物語だということがわかる。

あらすじにもあるように、警察署の一室でヤナギタがイノウエ達に「遠野物語」を語り始めることによって話は進んでいく、だがその話はササキと呼ばれる青年から聞いたものであり、同じくササキもこれは祖母から聞いた話だと言う。つまり、遠野の住人→祖母→ササキ→ヤナギタ→イノウエ→(観客)と物語が口承されていく入れ子構造で、マトリョーシカを順にいくつも開けたり、しまっていくような物語だ。舞台上の時間は進んでいるのに過去から過去へと戻っていく手法は野田MAPによる「エッグ」を思い出した。「あのね、直接聞いたわけではないから本当かどうかはわからないのだけど。」と人から人へ過去の話が現在、そして未来へと語り継がれるのは噂話だけではない。世界中で愛される童話や怪談話、歴史でさえも語られ、消えていく。ヤナギタ(柳田国男をモデルにしたキャラクターだ)は、そうした物語が消えゆくのを阻止しようと本を出版した。形にして後世に遺したかったからである。そうした気持ちは私にもなんとなく通じるものがあった。

入れ子構造で語られていく「遠野物語」ではあるが、実際起きたとされる遠野の奇っ怪な物語の何篇かを語っていく(そしてそれを舞台上で再現する)という複雑そうで実は単純だ。オムニバス形式のものだと思えばいい。だが、現在と過去、そしてそのまた過去を同じ空間上で同時進行していくため、観ながら今の自分は一体どこへいるのかが常に不安定になるというものであった。最後のシーンで登場する決してここにはいないはずのササキによって、こちら側である「人の世」とあちら側である「あの世」もしくは「魔界」とでも書けばいいのだろうか。その境界線があいまいになり、何もかもが混沌とした状態でヤナギタはイノウエに「伝えましたからね。」と言って舞台から去る。イノウエと同じく「どちらでもないどこか」または「この世界」に取り残された我々は漠然とした不安を抱える。ラストにブツリと余韻をまるで感じさせないような暗転でこの作品は終わりを告げるのだが、これがもう本当に恐ろしく、全身に鳥肌が立った。色んな作品で暗転を上手く使ったものは見てきたが、この暗転はただの暗転ではなく、完全なる恐ろしい「闇」であった。まるでこの世から切り離されて閉じ込められたような。そう、「どちらでもないどこか」に置いていかれて「あの世」に足を踏み入れたような感覚。いるわけがないのに自分のすぐ後ろに口にするのも恐ろしいような何かがいたような錯覚さえもあの場で体感した。背筋が寒くなるどころではなく、自分の今生きているという存在を一瞬疑ってしまうような恐怖があったのだ。あのラストのためだけに同じ作品を観たいとさえ思う。舞台鑑賞は現実世界ではないどこかへと我々を連れて行ってくれるものであると常々思っていたのだが、まさか「あの世」にまで運ばれるとは思いもよらなかった。

この作品の本質はもちろん「語る者」と「語られる者」による「物語の口承」だろう。サイモン・マクバーニーによる一人舞台「The Encounter」では彼の語りと演技によって「観る朗読劇」といえばいいのか、むしろ「聴く一人芝居」なのかという目の前で繰り広げられる芝居と耳から聞こえる朗読によって観客の脳内に浮かぶ情景が2つ同時進行していくという面白い芝居があるが、芝居と語りによって進んでいくのはこの作品でも同じような部分は確かにあって、シンプルに作られたセットの中で舞台上のキャラクターと観客の作り上げていくイメージを共に頭の中で共有していくようなものだった。

セットの話に触れたのでもう少し詳しく書くことにする。公式サイトの舞台写真を見ればある程度はわかるが、セットはいたってシンプルで立方体を模したような金属の線で作られた空間が舞台中央にあり、その後ろには千切られた大きな和紙のようなものがある。(NTlive「戦火の馬」で用いられているスケッチの舞台セットのようなものだ。)その和紙は墨のようなもので雑にグシャグシャを塗りつぶされているが、ただ塗りつぶされているのではなく、目をこらしてみると何やら風景画のようなものが隠すように塗りつぶされていると感じた。おそらく遠野の地ではないかと個人的に思う。既にこの地は消されていたのだ。何者かによって。

「語られる者」が「語る者」になり、遠野物語はひっそりと息をひそめながら未来へと紡がれていく。物語は人にとって必要だからだ。嘘と真実、あの世とこの世のどちらでもあってどちらでもない不確かな物語でもそれは誰かの心に存在した死者の言葉だ。溢れるほど毎日生きている人間によって作られていく言葉の流れの中で1滴の墨を落としたような死者の言葉はふとしたときに我々の心の中に暗く浮かんでくるのだ。

観劇後に「面白かった。」とツイッターに書き込んで自分もいつのまにか「語る者」になっていることに気づいて「こりゃやられた」と唸ってしまった。前川さんの作品には観終わったあとに自分の中の何かを変化させるようなカラクリがあるような気がする。彼の新作をこれからも楽しみに生きていくことにしよう。


そんな「遠野物語 奇ッ怪其ノ参」は全国ツアー中でかつて遠野の地があった岩手県でも上演するのだというのだから嗚呼恐ろしや恐ろしや。1番怖いのは人間なのかもしれない。