青年団リンク ままごと「わが星」感想 〜お誕生日おめでとう ありがとう〜


作・演出・演奏
柴幸男


DVD鑑賞
(2009年三鷹市芸術文化センター)

公式サイト

戯曲

この作品のあらすじを書くのは非常に難しい。同じくらいこの作品について紹介したり説明するのも難しい。何故なら書いてもこの作品の醍醐味が伝わらないからである。試しに書いてみよう。

コスモスという団地にとある家族が住んでいる。そこに「ちーちゃん」と呼ばれる幼い女の子が住んでいる。ちーちゃんは両親と祖母、姉とともに暮らしている。ちーちゃんは父に誕生日プレゼントとしてもらった望遠鏡を覗き込むのが趣味である。父に「もっとよく見えるようないい望遠鏡が欲しい」とねだる。姉や母にワガママはやめなさいと叱られるがちーちゃんはねだる。ちーちゃんは来週になるために回り始める。また別の場所で望遠鏡を覗き込む少年がいる。どうやら彼はちーちゃんを見ているようだ。

我ながら書いていて頭をかかえるような文章である。伝わらない。伝わるわけがない。ので、今から書く感想は観た人にしかわからないような感想になるだろうと思うがご了承ください。

この作品は宇宙、そして銀河系の一部である太陽系をとある家族として表現している。「ちーちゃん」は地球である。ちーちゃんが7回自転すれば1週間が過ぎ、ちーちゃんが1回公転すれば1年が過ぎる。宇宙の始まりからちーちゃん(地球)が生まれて死ぬまでの物語を怒涛の言葉遊びと韻踏みで進んでいくラップミュージカル、それが「わが星」である。よく知られているが星には誕生と死があり、寿命がある。光は光速で進む「光」というもので我々が普段目にしている夜空の星は何年、何百年も前に星が発した光である。気が遠くなるような時間の中で宇宙は存在している。人間が産まれて死ぬまでの時間なんて宇宙からすれば一瞬にも満たない一瞬で目の前で過ぎていく瞬間でしかない。ちっぽけなものだ。だがその中にドラマがあり日常がある。そういったことをこのミュージカルはリズムよく伝えてくれる。永遠と続く時報のリズムの中に家族の日常があり、永遠と続くように思われる日常の繰り返しがあり、終わりがくる。人はいつか死ぬが星もいつかは死ぬのだ。

大学生の時に納骨堂の図鑑を図書館で読んだことがある。おびただしいほどの数の頭蓋骨、肋骨、大腿骨などで形成された納骨堂は恐ろしさを超えてもはや美しさを感じるものである。ピラミッド状に積み上げられたドクロ。人骨のみで作られたシャンデリア。かつての貴族が当時の宝飾品をつけている骸骨。それをたまに思い出して妙にホッとすることがある。「人はいつか死ぬのだ。」と再確認して妙に安心するのだ。どんなに偉い人でも悪人でも死んで骨になるのだ。私は今、骨になる前の状態なだけである。と。

死ぬことは「無」に還ることである。産まれることは「無」から「有」になることである。宇宙は産まれて死んでいく。人間も死んだ状態から産まれてまた死んでいく。無から有。有から無への宇宙旅行である。乗車する宇宙船の名前は地球号。すごいスピードで自転したり公転したりするので振り落とされないようご注意ください。

このミュージカルの中で観客は膨大な数の言葉で頭を埋め尽くされる。何もない至ってシンプルな床の上で膨大な言葉を発し、日常を重ねていく彼らがそこにいる。観ている我々は何百通り、何千、何十億のも時を巡り、そこにある何十億のも生命の生死と出逢いを目撃するのだ。全ての人生を否定して肯定して全部綺麗に洗い流すほどの時間の流れがここにはある。

たくさんあったね
たくさんいたね
たくさん住んだね
たくさん死んだね
ハッピーバースデートゥミー

人間という小さなものが宇宙という巨大なものと同化し、生きて死んでいく。そういえば星野道夫の本だったと思うが、大きなものが小さなものと時に似ていることがあると書いていた文章を読んだことがある。例えば、卵を割ったときの様子が何とか星雲に似ているとか何とか。



このミュージカルを観たあとに時計を見た。規則正しく動く秒針を、時間を見て私はこう思ったのだった。「ああ、確かに私は今生きている。」と。