舞台「炎 アンサンディ」感想 〜虚実を通して現実と向き合うという拷問〜

舞台「炎 アンサンディ」



作 ワジティ・ムワワド

翻訳 藤井慎太郎

演出 上村聡史


2017年3月25日 13:00公演

兵庫県立芸術文化センター


世田谷パブリックシアター公演情報

https://setagaya-pt.jp/performances/201703incendies.html


兵庫県立芸術文化センター公演情報

https://www1.gcenter-hyogo.jp/contents_parts/ConcertDetail.aspx?kid=4282412365&sid=0000000001#


※この記事は物語の核心を含むネタバレに触れています


「封印されていた自らの家族のルーツを解き明かしていく衝撃の物語。サスペンスフルでありながら愛に満ちたストーリーに心を揺さぶられます。今回も麻実れいが10代から60代までを一人で演じます。内乱の混乱の中でも貫き通された母子の絆を、この作品でぜひ実感してください。」


兵庫県立芸術文化センターの公式HPに書かれていた紹介文である。これだけをサッと斜め読みして「お母さんのルーツを探しに行こう!わぁ!パパと恋愛してたんだね!素敵!私達のこともこれだけ愛してくれてたんだね!やったー!頑張って生きていこう!」のようなガールミーツボーイを予想して観に行った。



いい意味で裏切られるどころか全身をナイフでズタズタにされるような観劇となった。



あらすじ

中東系カナダ人女性ナワルは、ずっと世間に背を向けるようにして生きてきた。その態度は実の子供である双子の姉弟ジャンヌとシモンに対しても同様で、かたくなに心を閉ざしたまま何も語ろうとしなかった。そのナワルがある日突然この世を去った。彼女は公証人に、姉弟宛の二通の謎めいた手紙を遺していた。公証人は「姉にはあなたの父を、弟にはあなたがたが存在すら知らされていなかった兄を探し出して、その手紙を渡して欲しい、それがお母さんの願いだった」と告げる。その言葉に導かれ、初めて母の祖国の地を踏んだ姉弟は、封印されていた母の数奇な人生と家族の宿命に対峙することになる。その果てに姉弟が出会った父と兄の姿とは!(世田谷パブリックシアター公式サイトより)



感想


自分の家族の、特に母親のルーツを解き明かすということは自分の肉体のルーツを探ることとほぼ同じだ。「自身を構成する血や骨や肉はどこから来たのか」という問いの解は、母親の卵子が何らかの形で父親の精子を受精した。要するにセックス、もっと動物的にいうなら交尾である。その母親の卵子もかつては母親の両親が存在したことによって生まれたものである。母親が子を腹に宿して出産することが生の誕生というのなら、それは母親が自分の一部である肉塊に意思(脳)を与えて自立させて分裂するという非常にグロテスクで生々しいものだ。自分の肉体はかつて母親の肉体であったのだから。


話を元に戻すが、この作品は双子の姉弟が母の死をきっかけに母のルーツを辿る物語である。双子が生きる現代と母が生きた過去を行きつ戻りつしながら進んでいく。舞台セットは舞台上に正方形の板状のものがあって朽ち果てたバケツが3個転がっているだけだ。ここが彼らの世界であり、国を越え、時代を超えて彼らの人生を物語る。


貧しい村でナワルは生まれ育った。贅沢ができない、お金がないという意味の「貧しい」ではない。それ以前の、いや、人が文化を理解するという最低レベルにさえ到達できない貧しさだ。村に文字を読み書きできる人が誰もいないからだ。そんな村でナワルは育った。愛しい恋人と子を成したが母親にいなかったことにされ、産まれたばかりの赤ん坊(双子の兄にあたる)はバケツに入れられて孤児院へ連れていかれた。そして祖母と「読むこと、書くこと、数えること、話すことを忘れない」と約束したナワルは約束通り字を学び、祖母の名を彼女の墓石に刻んだ。「字を覚えた女」が村に帰って来たというだけでツバを顔に吐きかけられる。そんな村で彼女は育った。そして「私にも字を教えて。ここの人達は『これは風だよ。』って教えてくれるけど風がどんなものか教えてくれない。『これが空だよ。』って教えてくれるけど空がどんなものなのか教えてくれない。だから私にも文字を教えて。」と懇願する少女サウダを連れて共に村から出ていく。アルファベットを大きな声で楽しげに口ずさみながら。さあ、私の愛しい息子を一緒に探しにいこう。


そして戦争が始まった。


戦争、難民、孤児院、虐殺。教科書やニュースでしか見ないような言葉だ。その言葉には時々写真や動画がついているけれど、そこにリアリティはあまりない。何故か。知らないからだ。何故か。実感がないからだ。


「本日未明に〇〇地区で空爆があり100人を超える犠牲者が出た模様です。そこには女性や子供もいるそうです。」


へー。


「今日の天気は曇り、時々雨。お出かけの方は傘を持ってお出かけください。」


え、マジかよ。嫌だなあ。めんどくさいなあ。


テレビに映し出される映像と文章は例えば、包帯がグルグル巻きの男性や顔を埃まみれにして泣く女性だったりする。遠い国の遠い出来事のように思う。命の危険など一切なく、優雅にテレビやパソコンを通じて我々はそれを見る。テレビもラジオも「放送できる最大レベルの現実」を放送しているだけでそれは現実の一片であって全容ではない。100人死んだのであれば100人の人生の100通りの終わり方があり100体の死体があるはずだ。決してテレビでは放送されないような現実。それをこの作品は我々に叩きつける。目を背けたくなるような現実を、今まで見てこなかった事実を。舞台で起きていることは紛れもなく「この世界の現在進行形の虚実」だ。だが我々はこの世界で起きている「同時進行の現実」に向き合わなくてはならないのだ。舞台上で起こる悲惨な出来事を眺めながら、同時に頭のどこかしらで今起きているであろう悲惨な出来事についても考える。


「自分の3人の息子のうち殺されたくないやつを1人だけ選べ。3秒以内に選ばないと全員殺す。」と軍兵に脅され、震えながら1人の息子を選び、2人の息子を目の前で銃殺された母親のことを想う。倫理観の壊れきった世界のことを想う。


現代のシーンで工事の音が聴こえる。けたたましいドリル音だ。それが少しづつ過去へと時代が移っていく。ドリル音はそのままだ、音が次第に大きくなっていく。時代が過去に戻る。ナワルが語る。自分が今目にした光景を。バスに乗ろうとしたら軍がやってきてバスを囲み、ガソリンを撒き始めた。バスは難民でいっぱいだった。ナワルは自身が難民ではないことを兵士に主張してバスから降ろしてもらう。その直後。火が放たれた。バスが燃える。マシンガンの音も聴こえる。いつの間にかドリルの音がマシンガンの音に変わっていることに我々は気づく。床が揺れる。音は全く同じなのに、決定的に

何かが違う。ナワルは絶叫する。人が燃えた。バスから逃げようと手を伸ばした女性の手が溶けた。人が人によって焼き殺されたのだと。


演る。観る。という舞台と観客の拘束する。されるという相互関係はある意味信頼関係ともいえるがそれは時に鎖のようにお互いを縛り付けるものだ。私はこの作品で、役者たちの語りによって嫌というほど辛い現実を見せつけられた。それはある1種の拷問のようで見ていて涙が止まらないのに「この涙を流す自分は本当の戦争も、本当の悲劇も知らないのに何故泣いているのだろうか。私はこれを見て泣くなんておこがましいのではないか。許されないことではないか。」とも思わされる。身と心が引き裂かられるような痛みを感じながら観た。


希望も未来もない世界で過去だけが積み上がっていくこの世界で絶望だけが濃さを増していく。ナワルの愛しい息子は見つからなかった。戦争はまだ続く。人は血を流して死んでいく。


2幕の始まりではナワルとサウダは活動家になっている。書くこと、話すことを選んだ結果だ。そしてナワルは軍の最高指導者を暗殺することに成功し、軍に逮捕される。暗殺の結果、軍の暴走が起き、数多くの難民が皆殺しにされた。ナワルは収監され、5年間もの間、拷問され続けることになる。


「ここでは拷問係によって収監されている女が強姦されていました。よくあることであす。やがて歌う女(ナワル)も妊娠しました。よくあることです。1人きりで彼女は出産しました。そのときのうめき声は我々に対する呪いの呪文のようにも聞こえました。」


産まれた子供は双子の姉弟だった。


そこでナワルの双子の娘、ジャンヌは己の出生の秘密を知る。自分は母が拷問係によって強姦されて出来た子供であることを。


とある中東の紛争地区。1人の若い狙撃兵がヘッドホンでノリノリな音楽を聴きながら人を殺していく。殺したあとにカメラのシャッターを切りながら。なんとなくではあるが私は彼がナワルの息子ではないかと予想する。戦争写真家が彼に撃ち殺される。その死体をパペットのようにして彼はしばらくバラエティショーの真似事をして遊ぶ。そのショーの内容は戦争と平和をショーとして皮肉って、というよりむしろ嘲るようなもので不快感を強く感じるものであるが、これをお金を出して観ている自分が言えることではないのだなと深く絶望する。確かに私は今、エンターテイメントとして戦争を消費している。


双子の弟であるシモンも母ナワルの遺言に導かれて兄を探していた。人から人へと導かれ、抵抗勢力のリーダーである男性と会う。そこで彼は兄が抵抗勢力に属していたこと、優秀な狙撃手になったこと、兄もまた自身の母親を探していたこと。見つからなかったためにそこを飛び出し、軍に入ったことなどを聞く。ナワルが軍の最高指導者を暗殺したことで軍は破綻し、兄も捕まった。しかし優れた写真家、芸術家であることが評価され、収監されずに済んだ。むしろ仕事まで与えられた。兄は名前を変えてその仕事についた。



その仕事は刑務所での拷問係だった。



双子の姉弟の父親は、実の兄でもあったのだ。ナワルは自身の、愛する息子に拷問されていた。夢の中で抱いてあやしただろう。時には支えとなり、時には希望となっただろう息子に電気を流され、爪に釘を刺され、「売女72番」と呼ばれ、何度も犯されたのだ。死ぬほど憎い相手が愛する人と「ずっと愛しているからね。」と約束した息子に。


ナワルはそれを国際刑事法廷の証人台で知る。目の前でピエロの鼻をつけてヘラヘラと笑うかつての拷問係が自分の息子であることを知る。


拷問も強姦も舞台上で繰り広げられることはない。あるのは彼らの語りだけだ。爪先から脳天までが絶望と諦めで深く傷つき、疲れきった彼らの語りはそれだけでどんなパフォーマンスよりも衝撃的なもので素晴らしいものだった。心の傷口がまだ癒えきってない、ジクジクと膿がまだ流れているような、そんな演技だ。


観ていて何度も吐きそうになった。


込み上げてくる吐き気と戦いながら、止まることのない涙と鼻水を何度も拭きながら観た。観なければならないと思った。観終わったあとは心身ともに疲れきっていてヨレヨレで帰路についた。


この作品に救いはない。希望もない。実の父親が実の兄であるというおぞましい事実が変わることもない。自分たちの血肉が恐怖と憎悪から産まれたという事実は一生変わることはないのだ。双子の姉弟、そして父親である兄がこれからも生きていくことに変わりはない。あるのはこれからも続いていく現実と積み上がっていく過去だけだ。また我々もこれからを生きていかなければならない。


役者たちの演技。圧巻だった。特に主演のナワル役である麻実れいが素晴らしかった。底知れない芯の強さと想像を絶する過去を抱える1人の女性の人生を見事に生き抜いていた。他の役者たちの相互反応もよく、このカンパニーだからこそのこの公演なのだと強く感じた。


戯曲も極めて素晴らしく、サスペンスとしての謎解きを楽しめるような伏線、言葉の持つ強さ、それを扱う人間の愚かさや絶望を痛いほど書き上げていた。台詞の1つ1つから滲み出る苦痛と血肉と憎悪の密度の濃さは今までに観たことがないもので観ているこちらが顔を歪めてしまうようなものである。上記でも少し触れているが、人が過去を語り今を生きることについて真摯に向き合っている作品であった。


演出も基本がシンプルなセットながら照明や音声を駆使して現在と過去の行き来をこなしていたし、かといってやりすぎることもなく、役者たちの演技と観客の持つ想像力を活かしていたと思う。


最後のシーンでは登場人物全員が身を寄せていて両端にいる人物がビニールシートの端を持ち、雨避けをしている。サーサーと雨が降る音が聴こえる。私にはこの音が慈しみの雨の音にも、中東にある砂漠の砂が降る音にも聴こえる。そしてどこかで銃弾が降り注ぐ音にも聴こえるのだ。


観る前と観た後で自分が見ていた光景が今までと違って見える。そんな舞台作品に出逢えることはこの上のない幸せだと思う。それがどんなに残虐で悲哀に満ちた内容のものだったとしても。


観てよかったと心から思う。終演後、ボロボロ泣きながら「もう二度と観たくない。」と思うくらい素晴らしい作品だった。


よし、感想を書き終わった。


なんとなく、首に手を当ててみる。

トクトクと脈を打っているのがわかる。


私はいま生きている。