舞台「白蟻の巣」感想 〜 きっと楽しいから一緒に死にましょうよ 〜

舞台「白蟻の巣」感想 


2017年4月4日 19:00公演
アフタートークショーあり

新国立劇場公式サイト


演出 谷賢一

キャスト
平田 満 
石田佳央 
熊坂理恵子 

あらすじ
ブラジル、リンスにある珈琲農園。経営者である刈屋義郎と妙子夫妻、その運転手の百島健次と啓子夫妻。4人は奇妙な三角関係にあった。啓子の結婚以前に、妙子と健次が心中未遂事件を起こしていたからである。
それを承知で健次と結婚した啓子ではあったが、徐々に嫉妬にかられるようになり、夫と妙子が決定的に引き離される方法はないかと思案する。一方、心中事件を起こした妻と使用人をそのまま邸に置き続ける義郎の「寛大さ」に縛られ、身動きの取れない妙子。
義郎の寛大さがすべての邪魔をしていると思った啓子は、邸から遠く離れた地へ義郎を送り出す。
義郎の留守の間に健次と妙子が再び関係を結び、それが露呈することで自分たち夫婦が邸から追い出されることを目論んだのだ。
白蟻の巣のように、それぞれの思いが絡み合い、いつしか4人の関係が変化していく......。(公式サイトより)

感想
三島由紀夫のことは何一つ知らない。漠然と蟹工船を書いた人だったかなと思っていたのだがそれは小林多喜二だった。うろ覚えにもほどがある。もう少し国語の勉強をしっかりしておけばよかったと後悔しながら鑑賞した。ちなみに戦後のブラジル移民の歴史もほとんど知らない。歴史も勉強しておけばよかった。

舞台セットは上流階級階級の人間だろうなと思われる家具がいくつか置かれていてどうやらこの話は家の中の話らしいということがわかる。背景には大きな紗幕が前後に距離をあけて2枚垂れ下がっているのだが、この布と照明の組み合わせがとても美しかった。それぞれの幕に別の色の照明をあててグラデーションにしたり色を混ぜたりして朝焼け独特の空の色を映したりしていて照明デザインと舞台美術が上手くマッチしていたと思う。その幕から人が出たり入ったりするので(カーテンのようになっているので真ん中から人が出入りできる)家のウチとソトの境界線が舞台上にも引かれているのがよくわかった。

戯曲の内容に話題を移そう。まさに「白蟻の巣」というタイトルに相応しく、家を構成する柱(人間)を白蟻(これもまた人間)が少しずつ食い潰していくような話だった。最初のシーンで紗幕に映像投影がされているのだが、それは明らかに木目でその中から妙子がヨタヨタとおぼつかない足取りで登場する。上から下まで白で身を包み、「木の中」から登場する姿は「ああ、彼女が白蟻なのだな」と思わせるのに充分だった。どれだけ柱を食べても満腹になることはない白蟻である。他の3人も場面によって全身に白を着て登場するので「誰が白蟻で誰を食い潰しているのか」ではなく「全員がどこかに白蟻のようにお互いを食い潰し、削り取る不毛な人間関係」という終わらない絶望と永遠と続く日常の話だったということが観終わるとよくわかる。最初のシーンと最後のシーンが朝食前の食卓であったこともそれをよく表していたと思った。

彼らの朝食についても少し言及しておこうと思う。メイドがテーブルにクロスを引き、調理場へ引っ込む、主人夫婦と使用人夫婦(彼らは運転手として働いていている)が席につく、朝食が運ばれてくる。食べる。会話をする。食べ終わる。仕事へ行く。私は個人的に1日という時間の中で1番ルーティンワーク化されているのは朝ではないかと思っていてそれが「日常」であることを端的に示すものであるということも思っている。だが夜は違う。情事が行われるのが大体夜ということも大きく影響しているとは思うが、日が沈み、闇の中で秘密を作り、分かち合うのは夜だ。そして朝になると秘密に蓋をして何もなかったような顔をして朝食を食べて仕事へ行くのだ。片方は心中未遂までしておいてもう片方はそれを「気づかなかったことにしよう」とまでしていたのに朝食は用意される。死にたかった2人と死んでほしかった2人が朝食前のあの場所で相見えることは「これからもこの日常は続くのだ。」という絶望的なメッセージだ。これからもまた形式上では主人夫婦と使用人夫婦として生きていかなければならない。どれだけ相手への気持ちが離れていても家という1番狭くて小さな世界で退屈に暮らしていかなければならないのだ。それがどれだけ絶望的か。この戯曲の中で起こる出来事は我々にとって程遠いことかもしれないが、とっくに腐りきっている日常を繰り返していかなければならないという絶望感は通じるものがあると思う。

最終的に主人夫婦と使用人夫婦はお互いの妻、夫を交換するかのようにダブル不倫を行うのだが、この関係を見ていても私は愛だとか恋だとかそういう綺麗なものを感じることができなかった。「好きだから」「愛しているから」といったものがなかった。あるとしたら「退屈だったから」「満たされてなかったから」といった平凡な感情である。それが逆に生々しいと感じた。人は相思相愛でなくてもさほど嫌でなければ、勢いやきっかけがあればキスもセックスもできるし、それを絆とすることも可能だからだ。美しい糸のような絆が育まれるのではなく錆びついて茶色になった鎖を相手の首にかけるような会話が続いていく、「この日常から抜け出したい。楽になりたい。」と思い言葉を発しても逆に相手や自分を鎖で縛り付けてその重みに潰れそうになっている。

この戯曲では人の寛大さが生む残虐性が色濃く描かれているのだが、この許し、許されるという関係から生まれる主従関係には2つの面が存在していて、一方では「許してくれた優しいお方」と「許された罪人」という関係、もう一方では「『許す』という行為で人を支配する寛大で強欲な君主」と「その下で身動きもがとれなくなっている下僕」という関係の2つが同時存在している。いわゆる飼い殺しをされていると彼らは感じていてまるで一度死んでしまったかのように呆然と生きている。ここで面白いのが彼らの旦那様である義郎は寛大さから彼らを許しているのではなく、義郎の弱さから彼らを許してしまうのだと終盤で吐露することだ。妙子はこれまでも何度も過ちを犯している。きっとこれからも犯すだろう。そして義郎は弱さによって彼女を許し続けるだろう。そしてその終わらない主従関係の夫婦は自分達の弱さによって続いていく。今まで私は生きていて「許すこと」がとても尊いことで「許さない」ことが人間の小ささを示すことだと思っていたが、そのどちらも片方の側面から物事を見ていただけで実際には「許すこと」「許さないこと」もある意味では弱さからくるものなのだと今回の戯曲を観て感じた。

私はどちらかというと上記のことばかりに目がいって、戦後の鬱屈とした敗北感や今では使われていない美しい日本語、主人と使用人の支配関係が変化していくといったことには目が向かなかったのだがこれは私自身の勉強不足としか言いようがない。

この戯曲では最初と最後で何も変わらない。人は死なないし2組の夫婦という器が変わることもない。何もかもが中途半端な妙子と健次、それを許し続ける義郎、唯一4人の中で「生きている人間」とされ、妬や欲からくる熱量をもった啓子もいつか彼らのように「死んだような人間」にようになってしまうのだろう。正直、先週見たアンサンディのように心を激しく揺さぶられたり頭を殴られたかのような衝撃を受けるような作品ではなかったが観終わったあとに自分と向き合えるような作品だったと思う。

中途半端な私たちは「一緒に死のうね」って言っているのが生きていて1番楽しい