「君の言い訳は最高の芸術(著:最果タヒ)」を読む


特に理由はないのだがここ1ヶ月ほど気分が低空飛行だった。沈んでいるわけでも落ち込んでいるわけでもなく自分の中の通常モードからやや下をのろのろと飛んでいる感じ。だからといって仕事に大きく支障が出るわけでもなく友人とご飯に行ってゲラゲラ笑うこともあれば映画を観に行って感動することもある。寝ても起きても晴れと曇りのちょうど中間みたいな気分が続く。そんな1ヶ月だった。

例えばホルモンバランスの乱れだとか寝不足とか日々のストレスとか理由らしい理由はいくらでも探せるが、どれも自分にはしっくりこない。それも自分の中ではどうやらモヤモヤポイントらしく「気分が低空飛行だがその理由が不明なのでさらに低空飛行である」という無限地獄のような思考回路に陥ってしまい、ただなんとなく「早くよくならないかなあ。」とどこか他人事のようにぼんやりと過ごしていた。

そういうときに限って私の中の欲望は実に素直で、私の身体に「今日は仕事終わりに駅前のパン屋さんで明太子フランスパンを買って食べる」だとか「ハーゲンダッツの苺をお風呂上がりに食べる」とか「23時には寝る」とか実に具体的な命令をしてくる。大抵の場合は(というより私の中の欲望が日常的すぎるのもある)叶えられるのだが、たまに「好きな文章を読みたい」という食欲ならぬ読欲というものがムクムクと湧き上がってくる。これが非常に厄介で困りものだ。この欲望は「世の中を静かに観察しているような淡々とした文章が読みたい」こともあれば「情熱と愛情があふれんばかりの文章が読みたい」こともある。前者の読欲が湧いてくると好きなコラムニストの文章を読んだりする。ちなみに後者ではジャニオタや舞台オタなどのブログを読む。初見の文章ならなお良い。初めて味わう文章の味は2回目読むものよりも味が濃い気がする。妥協策として読欲に沿った文章を一度読んだことのある文章で補うこともあるが、それは妥協策であって欲を満たしてはくれない。食欲で例えると今現在の私はハーゲンダッツのバニラが食べたいのに仕方なしに爽のバニラを食べているようなものである。「読書は心の栄養補給」とはよくいったものだ。私の中での読欲は食欲に近い何かでそれは「読むことによって何の飢えを満たすこと」なのかもしれない。では、私の中で最近湧き上がってきた読欲を発表しよう。

「この低空飛行な気分と孤独をなんとかしてくれるような文章が読みたい」

である。私の脳内文章ソムリエも頭を抱えた。だってこの2つには原因がないから。気分が低空飛行だから低空飛行なのだし、孤独だと感じているから孤独なのだ。困ったなあ。どうしようか。と思いながら妥協策で好きな本を読み直してみたりしたがどうにも満たされない。気分は悪くはないが決してよくはない。仕事へ行く。帰る。ご飯をたべる。寝る。のろのろ。ふらふら。

「自分ではどうしようもない孤独」というものは日常の中に確かに存在していて今回はそれがヘドロのようにべったりと背中を覆っているものだった。拭っても拭っても自分から排出される孤独は私自身にまとわりついて離れない。寂しくてたまらないのに1人にしてほしくてたまらない。放っておいてほしいと憤るのに自分は世界中でひとりぼっちなんだと悲しくなる。SNSに書き込もうとしては消す。を繰り返して次々と流れてくる人々の人生を羨ましく思う。今すぐ死んでしまいたいわけでもないし生きたいわけでもない。そんな孤独だ。くだらなさすぎて相手にもされないような孤独だ。どうしたら埋められるのだろうか。帰宅途中にいきなり電車から自分の好みどストライクな運命の人が現れて抱きしめてくれるとかそういうのだろうか。…真剣に5分ほど考えてみたが虚しさだけが残ったのでやめておこう。

そうだなあ。できれば、私にとって遠いどこかの誰かが取り留めもない話を私好みの温度でしてくれればいいのになあ。冬生まれなのでどこか冷静さを感じる文章が好きだ。冷と静。冷たさと静かさ。この両方が好きだ。突き放してくれる温度を持った文章は冷たいのにどこか温かささえ感じるから好きだ。そんな文章が読みたい。そう思っていた。

昨日利用しているSNSにて最果タヒさんのエッセイが紹介されているのを見た。お試し読みができるということで読んだ。本能的に「これだ。」と思った。当日にその本を求めて本屋へ行って購入して読んだ。


 「さみしい」という感情に、だれかがそばにいるかいないか、なんていうのはたぶん、まったく関係がない。自分が楽なリズムで、孤独になったり、孤独をやめたりできるのかっていうことのほうがずっとずっと重大だと思う。自分の都合の良さみたいなものを、どれぐらい保てているかっていうこと。冷たいこと書いているって言われそうだけれど。私が一番さみしいと思ったのは学校に通っていた時だったし、やっぱりそれは疲れ果てたからだった。クラスメイトと毎日顔を合わせて、何人もの友達がいて、親しくしていたし、なんの問題もなかったけれど、掘り起こされていく孤独みたいなものはあった。家に帰っても、眠っても、どこまでも誰かとの関係性っていう揺れ動く水面みたいなところにしか立つことができなくて、「私」が日に日に曖昧になった。そんな状態で一人で考えたりしてみたって、結局他人から切り離した結果の「一人」として存在するしかなくて、なんか生まれたころとは違っている。
(「友達はいらない」より一部抜粋)

この率直さ。感情の動き。温度。最高じゃないですか。彼女の文章を「エモい」とか「狂気的」といった言葉で評しているのをよく見るけれど、どんな人間でもエモーショナルな部分や狂気的な部分は少なからずあってそれを飼いながら生きていると思うのでどちらかというと私は彼女の文章や詩を日常的だと感じている。そう感じている私がエモくて狂気的なのかもしれないが。求めていた温度と孤独があった。「私は慈愛に満ちていて万人に優しい心の温かな人間です。」と主張してくる人より己の冷たさを表へ出してくれる人の方がずっと温かいと思う。彼女の文章には氷を手の中で握りしめたときに感じるピリッとした冷たさと自分の手の温度で溶けた氷の水から感じる温かさがあった。

彼女の作品が、感性がこのまま生み出され続けてほしい。きっと私にとっての常備薬になるだろうと思う。彼女の作品が今現在の私にとってのハーゲンダッツのバニラで、冬に帰宅してから飲む熱々のコーンスープで、遣る瀬無い気持ちが出てきた深夜に飲むアイスコーヒーだ。最高だ。彼女が生きているこの世界だって最高かもしれない。そう思うと思うと低空飛行していた気分も少し上向きに方向転換していた。

どうしようもなくて誰にも共有できない孤独というものは確かにあるけれど、その事実を自分で認識することは有効だと思った。私の孤独は私だけのものだ。

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