ミュージカル「ダディ・ロング・レッグズ 足ながおじさんより」感想 〜ねぇ、ダディ。いつだって愛してる 〜 ※追記あり


公式サイト

阪急中ホール

2017年12月1日(金)18時公演

音楽・編曲・作詞: ポール・ゴードン
編曲: ブラッド・ハーク
翻訳・訳詞: 今井麻緒子
脚本・演出: ジョン・ケアード

出演者
坂本真綾(ジルーシャ・アボット)
井上芳雄(ジャーヴィス・ペンドルトン)

あらすじ
有名なので省略。
(念のため書いておくとこの記事には物語の核心に触れるネタバレがあります。)

前公演の評判もよく、色んな方々にオススメされていたのでなんとなく「チケット余っていたら観ようかな」程度で劇場サイトにアクセスしたのだが土日はほぼ完売していたので何だか悔しくなって金曜日のチケットを取って観劇した。2人芝居のミュージカルということ(私はミュージカルにおいていわゆるアンサンブルナンバーが好き)やいわゆるレミゼエリザベートのような大劇場でかかる超大作ではないことから正直なところそこまで興味がないまま予習もしなかった。よって観劇前における私の中の「足ながおじさん」の知識は昔に読んだ絵本のあらすじである「孤児にお金をくれる影によって足の長く見えるおじさん」程度のものしかない。「楽しみだけど…楽しめるのだろうか…。」と若干の不安を抱きながら客席についた。

想像以上によかった。

数字でいうと想像の10000倍はよかった。と書くとやや大げさになるけれどそれくらいよかった。主人公である孤児院出身のみなしごのヒロイン(ジルーシャ)から「ダディ・ロング・レッグズ(足ながおじさん)」に送られる膨大な枚数の手紙の文字1文字1文字。そこから彼女の愛おしい人生が観客の想像力を通して舞台空間の中にいきいきと浮き上がってくるのだ。上手い例えが見つからないが「読まれる文字によって情景やキャラクターが生まれていく」という点では「見るオーディオブック」というべきか「目でも耳でも楽しめる朗読劇」というべきか迷うところである。

舞台上の美術でリアルなのはヒーロー(ジャーヴィス)の部屋の一角と家の壁くらいだ。あとは沢山あるスーツケースや収納箱を2人に移動されたり積み上げたりしてそれがベッドになったり山になったりするので想像力をより働かせるようなものになっている。農場シーンやニューヨークへ旅行するシーンでは照明や映像投影で家の窓の外(舞台の奥)にその景色が見えるので舞台上ではなんとなくぼんやりと「農場らしき景色」や「都会っぽいビル群」が見えるのだが前述の通り、それが彼女や彼の語りを通して観ている人の頭の中でリアリティを生むのだ。美術を写実的にするよりも抽象的な方がかえって現実味を帯びてくる。演劇の魔法だなぁと思う。

この舞台は原作通り書簡形式にならっていてジルーシャが書く手紙を通して我々はジルーシャの人生を知る。大学入学から卒業まで「ジョン・スミス」(英語圏において最もありふれた名前とされていることから偽名であることを示す)から学費援助を受ける代わりに月に1度手紙を送ることという約束から生まれた手紙だ。その約束には更にルールがあって「質問しないこと」「スミス氏から返事はこない」「感謝の言葉を書いてはならないこと」などがあり、手紙は常にジルーシャからジョン・スミスへの一方的なものだ。ジルーシャは以前に偶然見かけた彼の後ろ姿とその影を思い出し「ダディ・ロング・レッグズ」(足ながおじさん)と愛称をつけ、大学で学びながら手紙を書く生活を送る。


ネタバレします。ダディ・ロング・レッグズの影の正体はジャーヴィス・ペンドルトンである。


『ダディ、あなたの似顔絵を描いていたんだけど頭のところで止まってしまいました。あなたの頭は白髪?それとも白髪が混じってるのか、そもそも髪自体がないのか、それだけでも教えてください!』

ジルーシャはダディ・ロング・レッグズが誰なのか、どんな人なのか、どんな声なのか、姿なのかをクライマックスになるまで知ることがない。それでも彼女は書き続ける。豊かな情景描写と感情表現、それと皮肉に富んだジョークも。

ある日、彼女は風邪に倒れてベッドから離れられなくなるのだが、彼女がその旨を書いた手紙を送るとダディ・ロング・レッグズ(実際は心配のあまり自分から約束を破ったジャーヴィス)からピンクのバラの花束が送られてくる。それをベッドの上で発見したあのジルーシャの目をまん丸にして驚いたあとにする心底嬉しそうな表情ときたら!こちらまで涙ぐむほど嬉しくなってしまう。弱っていて悲しくて寂しい時に彼女が1番望んでいたのはきっと人の温もりでそれは他の誰からでもない「ダディ・ロング・レッグズ」からのものだ。心で何度も「ダディ」と呼びかけながら書いた手紙の相手から、心配という愛情のこもったプレゼント。どんなに、どんなに嬉しかっただろう。それがどれだけ彼女の支えになるか。

今作品の中でジルーシャの世界は外へと開かれていく。それは勉強によって得た知識で広がる世界でもあるし彼女自身が農場やニューヨークへと足を運んだことによって広がる世界でもある。人との出会いで、彼女自身の書く文章で広がる世界でもあるのだ。人生の中で経験や想像力が作品(手紙の文章)になり新たな世界を創り上げていくことの素晴らしさを改めて感じさせてくれる。

話は少し逸れるが、私は舞台鑑賞を「舞台と私(または観客という匿名集団)のイマジネーションの間で作られる共同制作物」と捉えていてリアルタイムで進行する何が起こるかわからない物語を見守りながら自分の中にある知識や経験や感情を全て動員して自分が何を思い、何を感じたのかまでの過程が舞台鑑賞なのだと。読書や絵画や映画など、きっとどんな作品鑑賞でもそうかもしれないが何かを見て何かを感じることは例えそのもの自体を経験していなかったとしてもそこに自分自身を見つけることでそれが自分のアイデンティティの輪郭を捕まえる手がかりになる。何故こんなことを書いたかというと今作品は他のものよりもジルーシャ目線で感情移入しやすいと思ったからだ。キャラクター自身が魅力的なのもさることながら手紙に書かれていく文章がキャラクターとなって動くので前述したが必然的に脳内で音読されているため、想像が容易になっている。彼女がプレゼントをもらって喜んでいるとき、私もとても嬉しい気持ちになる。その感情は確かに昔、似たようなシチュエーションではないにしろ経験したことのある感情だ。ジルーシャに共感し、彼女の目線で物語を見る観客はどこかでジルーシャと共通するものを持っているのかもしれない。みなしごである彼女がサリー(ジルーシャの友人)の家族と対面した時に「サリーのお父さんで、サリーのお母さん!」と感動するシーンがあるがそれは「家族」というものに触れた喜びと知識として知っていたことが現実として世界に存在していることを実感した喜びの両方だろう。私はこのシーンを見て何故かロンドンに初めて行ったときのことを思い出した。右も左も分からないままピカデリーサーカスに到着して駅から地上に出たときに「テレビや雑誌、ネット上などでしか知らなかった世界が存在していて私はその地にこうして立っている」と心が震えるほど感動したのだ。もしかするとジルーシャの「世界旅行」を通じて私は自分の様々な思い出を追体験していたのかもしれない。

ジルーシャの話ばかり書いたのでジャーヴィスのことも書こうと思う。社会主義の話やチャリティーについての話が出てくるが「足ながおじさん」の話をものすごく美化するのではなく資本主義社会の中で社会主義を掲げることやチャリティー行為をすることの意味を込めて入れていたように感じた。彼の行為は持っている者から持たない者への資金再分配である。正直なところジルーシャに対する執着や保護愛(親心のようなもの)から彼女を恋愛対象として愛するようになり束縛したりダディ・ロング・レッグズとして命令するシーンがあるが「なにこれ光源氏計画じゃん…」とやや幻滅したりもした。ジルーシャはダディ・ロング・レッグズへ敬愛の念から彼の言う通りにするシーンがあるが(最後あたりには彼女はダディ・ロング・レッグズからの命令もジャーヴィスからの命令も拒絶し自分の行きたいところで休暇を過ごす)、ある意味では従属的とも捉えられるものであり、それを利用したジャーヴィスをあまり快く思えなかったのだが「チャリティー」の歌によってジルーシャを恋愛対象として愛することへの葛藤や罪悪感、チャリティー(施し)の持つ限界を表現していたのがよかった。でも卒業式はダディっぽい誰か(ニセモノ)を用意してでもジルーシャに「表彰されることをダディに見せる」ことをさせてあげればよかったのになぁといまだに思う。でもジルーシャが幸せそうならもうそれでいいです。と思えるほどジルーシャの魅力が勝ってしまうので少し悔しい。

さて、ダディ・ロング・レッグズの正体はジャーヴィス・ペンドルトンであるが、私はジルーシャが大学生活の中で思い描いていたダディはおそらく全くの別の人物ではないかと思っている。では彼は誰か?どこにいるのか?誰もわからない。彼はどこにもいない。いるとするならそれはジルーシャの書く手紙の中、すなわち彼女の心の中にいる。おそらく彼女は「ねえ、ダディ」と手紙を書いていない時でもダディ・ロング・レッグズのことを思い、彼のことを思っているからこそ書けなかった手紙もあるだろうし、もしかしたら面白くするために少し事実を誇張して書いていたこともあるかもしれない。彼女の想像力がダディ・ロング・レッグズを生み出し、彼女の一部となり寄り添いながら人生を共に歩んできた。これからも思い出として形を変えながらジルーシャと生きていくのだろう。

あぁ、なんて素晴らしいんだろう。物語はその真偽を問わず必要とする人々の中で生き続けるのだ。

ここまで褒めているので特にキャストについて書くことはないのだが、ジルーシャ役の坂本真綾さんの声の表情の豊かさは筆舌にしがたいほど素晴らしかった。「ねえ、ダディ」の一言で「いつもありがとう」「話したいことがあるの」「困っています」「愛してます」などを伝えるあの説得力。クルクルと変わる顔の表情や屈託のない笑顔も素敵だった。歌唱力だけでいうと声量や声の伸びが足りなかったような気もするがそれでも彼女がジルーシャでよかったと心の底から思うし彼女のジルーシャが私は大好きだ。ジルーシャ可愛い!ジャーヴィス役の井上芳雄さんのラブコメディの演技を初めて観たのだが笑いの間の読み方やタイミングの取り方が実に上手く、少し腹も立つけれどそれでも憎めないジャーヴィー坊ちゃんには適役だったと思う。足も長い。足の長さ、大事。ソロナンバー「チャリティー」での声の広がり方はさすが。日本版オリジナルキャストでありながらベストキャストと名高いのも納得だ。

誰かに手紙を書きたくなる気持ちになる。そんな愛おしい感想を抱かせてくれるこの作品に出会えてよかったと思う。他にも小道具の話やジルーシャの言葉の中で特に気に入ったものの話など書きたいことは山ほどあるがこの辺にしておく。

初めて読む本にワクワクしたり恋心に戸惑ってしまったり、見知らぬ土地や知識、人への好奇心が抑えられなかったりするジルーシャの気持ちの揺れ動きを文字を通して我々は知る、そして己の持つ思い出から生まれる感情と一緒にゆっくりと味わいながら人生の美しさを感じるのだろう。 よかったです。DVD発売も決定しているので欲しいな。


追記:
本作の原作小説「あしながおじさん」をようやく読んだ。色んな訳が出ているようだが私が読んだのは谷川俊太郎によるもの。

読み終わった時に思わず「こんなことある?」と声に出していた。大好きなミュージカルの原作はユゴーの「レ・ミゼラブル」から始まり「マチルダは小さな大天才」まで読んだことがあるが、それぞれの共通点や相違点を見つけて「フムフム面白いなぁ。でも私はミュージカル(または原作)の方が好きだなぁ。どっちも好きだけど」程度だった。けれどこれは違った。大きく違ったのだ。小説を読むとミュージカルのジルーシャが弾けんばかりの生命力をもって私の頭の中を元気に走り回る。私が観た舞台上でのジルーシャが書いていたのはこれだ。この手紙(小説)だったんだ。と。小説とミュージカル、この2つが繋がってこの作品に対する愛おしさが倍増するような素敵な経験だった。ミュージカルにする際にゴッソリとカットされている部分があるはずなのにそんな風には微塵も感じなかった。そういえば、ユゴーは音楽について「音楽は人間が言葉で言えないことで、しかも黙ってはいられないことを表現する。」と言葉を残したがまさにそれではないかと思う。ミュージカルを彩る数々のナンバーや音楽によって切り取られた小説の部分が見事に補完されていた。

「さようなら、おじさま、あなたも私と同じくらいしあわせだといいな」

「ありがとう、おじさま、ほんとに、ほんとにありがとう。私が生まれてはじめてもらった、本物の、本当のプレゼントです。私がどんなにあまえんぼか白状します。わたし、ベッドに突っ伏してわんわん泣いてしまいました。あんまり幸せで。あなたは確かに私の手紙を読んでくださっている。」

あしながおじさん あなたはどこにいらっしゃるのかなぁ?」


あなたのことを本当に愛してるとそれ以外の言葉を巧みに使って文章にするジルーシャがあまりにも愛おしい。それに彼女が書く風景描写のなんと見事で美しくて輝いていることか。

読み終わったときにミュージカルを観たときと同じくらいの多幸感、いや、ミュージカルを観たときと小説を読んだことによって得られたものの2つだから2倍の多幸感を感じたが同時に激しく後悔した。

18歳の私にこの本を渡してあげたかった。このミュージカルを観てほしかった。心の中のジルーシャと共に大学生活を送ってほしかった。彼女をロールモデルにして生きてほしかった。当時の私に幸せの秘密や人生につまずいたときに笑い飛ばす強さを教えてくれていたら。そんなことを考えた。

ジルーシャに、彼女になるには私はもう大人になりすぎた。彼女と昔の私は友人になれるがきっと彼女にはなれない。ジルーシャ、私は18歳だった私にあなたのような感性や考え方を与えてほしかった。あの頃の私は世間知らずでそのくせ何でもわかったフリをしていて、泳げずに溺れているのに深いところへ深いところへと手足をジタバタさせるような女の子でした。ずっと苦しかった。ジルーシャがいてくれたら。そう思い、今も戻れない過去を考えると胸の奥がギュッとなって息苦しくなる。そんな苦しさを覚えるくらい素晴らしい小説だと思う。

降り積もった雪が朝日に照らされて輝くような、雨上がりに葉に溜まった水滴が光を浴びてその周辺をを明るくするような、眩しいくらい愛おしく、美しい小説、そして同じくらい素晴らしいミュージカルである。読んだことない人は今すぐ読もう。1時間もあれば読めます。


100年前の人と心から共感できる。友人になれる。これだから私は未知の作品に触れることをやめられない。