キラキラ女子にはなれないけれど

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25歳になった。誕生日の前の日に親友と過ごして「25歳とはなんぞや」という議題から飛躍して最終的にはピタゴラスイッチの音真似をしてゲラゲラ笑っていたので今年も来年もそんな風にして過ごせていけたらと思う。それにしても「25歳」ってすごいリアルだ。これは別にいわゆる私もとうとう「アラサー」入りしたというものではなく、自分の母親が私を身ごもった年齢であるということが大きいのだと思う。そういえば「アラサー」も「負け犬」も「草食男子」も「悟り世代」も言葉が生まれるまで世の中には存在していなかったのは実に興味深い。概念から言葉が生まれるのではなく言葉から概念や生まれて一般認知されて使われいく様子は名付けによる効力の大きさを感じる。「草食男子」という言葉が生まれる前にいたのは「恋愛に対してあまり興味がない男性」や「自分から女性にアプローチしない男性」くらいなものだったのに今では「草食だから」と一括りにされてしまうこの簡便さ。ぼんやりとしたイメージを持ってレッテル貼りとグループ分けをして言葉が使い捨てられていく時代の速さには少し恐ろしいものがある。

随分と話がそれたので元に戻す。同級生たちと集まると出てくるのは大体仕事の話が多いのだけど、既に役職が与えられていたり新人の教育係になったいたりして集まるたびに私は感心してしまう。幸か不幸か、私は職場では1番下っ端でこれからも少なくとも数年間はそうなんだろうという立ち位置なので上下関係や後輩指導についての苦労を聞くと「すごいね。大変そう。」となるだけでまるで実感がない。だけどそれとは別に「もうそんな歳か。」としみじみしてしまう。結婚や住宅ローン、介護の話だって現実の問題として話題にバンバンあがるようになってきた。突然訪れるモラトリアムの終結。驚きである。私は高校生の頃、漠然と大学3年生になれば自分の人生をコントロールできるような大人になっているはずだと思って生きてきた。ところがいざ大学3年生になってみるとそんなことは全然なくて23歳になればなれるかなと思っていた。そして悲しいことに23歳のときには今まで生きてきて1番苦しい時期を経験したのでこのイメージはそろそろ捨てないといけないとは思っているけれど25歳になった今、27歳になれば大人になれるんじゃないかなとも思っている。多分、本当に大人になれるとは思っていなくて自分の人生を2〜3年周期で契約し直しているだけなんだろう。あともう少し生きてみようと。

 

24歳だった1年間は内面的にも外面的にも激動のものだった。まず日常の大部分を占める仕事を変えたので生活リズムが一変したし夢だった職業なので毎日それなりに楽しく仕事ができていることは幸福だ。今の職場では誰も私のことを「生意気」とか「可愛げがない」とか言わないし適切に指導してくれるので本当にありがたい。内面的には自分の中にある偏見やプライドを芯から打ち壊して再構築するようなものであれだけ嫌悪していた「女性らしさ」や「ピンク」と和解することができた。(私がピンクと和解した日 - A Song for you)長年、リア充しか行っちゃいけないと思い込んでいたディズニーランドに行って心から楽しむことができた。(魔法のことばはビビディバビディブー - A Song for you)会う人会う人に変わったねと言われるようになった。丸くなったね。肩の荷が下りた感じ。そうですか? 自分ではそう思ってるかもしれないけれど私は今のあなたの方が好きだよ。そっか。ありがとうございます。

何度も何度もブログでもツイッターでも書いているが私は自己評価が著しく低く、自己嫌悪に陥りやすい性格である。そうした方が楽だったからだ。自分のハードルを下げて期待値も下げていた方が何かあったときに落胆することも少ないからそうして生きてきた。だが23のときにその生き方にガタがきてあれよあれよと言う間に身体も心もボロボロになって「自殺しよう」とドラッグストアに行って睡眠薬を大量に買い込んで手首を切る計画まで立てたりしてそのままパニックになって退職した。前職で関わった人たちには今でも申し訳ないなぁという気持ちがあるけれどお互い忘れた方がいいのかもしれない。あれ、23のときの話になってる。

さて、24のときに失った何かを取り戻すかのように色んなことに手を出した。「似合わない」とか「らしくない」とか周りの人や内なる自分に言われてももうどうでもよかった。したいことはとりあえずやってみて合わなかったらやめる。くらいの姿勢の方がずっとずっと楽しい。私の生き方は私で決める。自由に伴う責任を持つ。これでいいじゃないか。周りの人がどう言おうと賃金が発生したり上がるわけでもないし私の未来について責任を持ってくれるわけでもないのだから。まだ完全にではないけれどそう思えるようになったのが24歳のときの話。

 

話題を変える。冒頭でレッテルやグループ分けの話をしたが、個人的に「キラキラ女子」について触れておかないといけない気がするので書く。私はオタクである。それも筋金入りのオタクなので最早ジャンルがどうこうとかではなく考え方や思考がオタクだ。何を好きになってもオタクになる。確か目覚めたのが思春期真っ只中の頃だったので自己表現とストレス発散の場をオタクライフに向けた。好きなことだけをしてキャーキャーする生活のなんと楽しいことか。まだ今よりもそこまでアニメや漫画の文化が市民権を得ているような時代ではなかったけれど、しょこたん腐女子彼女、電車男などのオタク達のコンテンツが徐々に登場していた時代でもあったのでそこまで「オタクきもい」のような扱いを受けたことはなかったが自意識過剰だったので「オタクな私は他の人とは違うんだ」とものの見事に色んなものをこじらせたまま成長した。「リア充爆発しろ」というネットスラングが大流行していたのもあると思う。「オタクはリア充ではない。」という見解が共通認識としてあったような気がする。実際のところはよく知らない。

 

今になってわかったことだが「私はキラキラ女子にはなれない」ということである。先程オタクについての話を書いたので誤解されないようにしたいのだが「オタク≠キラキラ」では決してない。オタクでもキラキラ女子は沢山いる。昔の私に言うときっとビックリするだろうが本当にいっぱいいる。じゃあなんで「私はキラキラ女子になれない」のかと言うとそういう人間だからである。まずキラキラ女子とはという定義が色んな人にあると思うがそんなに食い違っていない気がするのでその辺のことはわざと曖昧にして話を進めることにしよう。キラキラ女子ではない私は彼女たちと同じことをしても根本的なものが違うのである。行動原理や思考が違うので得られるものもおそらく異なっているものだろう。私はどちらかというと人付き合いが苦手で1人行動が大好きなのでその分「誰かと過ごす時間」をないがしろにしてきたのかもしれないなという不安がある。1人で行った東京もロンドンも筆舌しがたいほど多くのものを私に与えてくれたけれど「これでいいのかな」とふと我に返ったときに僅かながらゾッとしたりもする。

 

過去には戻れない。過去はやり直せない。高校生の時にもっと真面目で熱心な部活に入っていたら、大学生のときにサークルに入っていたら、もっと明るくて元気で素直でキラキラした人に私はなれていたのだろうか。戻れない過去をようやく受け止めるようにはなってきたけれどまだまだ自分がなれない人たちに対して羨望と嫉妬の念がある。

 

でもそれでいいじゃないか。私はキラキラ女子にはなれないけれど彼女たちのことは好きだ。共感できなくても理解してみようと思う。可愛いものを綺麗に身につけて楽しそうなことを一緒にしたりそれぞれで満喫しましょう。だってあなたたちは私の敵ではないのだから。キラキラ女子がこちらに手を振っていたら同じように手を振り返そう。だって私たちは友達になれるのだから。私とあなたたちは違う人間だけれど当たり前のことで好きなことが少しずつ違う1人1人の人間であるということは同じだから。悪意や憎しみで攻撃することは論外だけど、私たちを誰も何も否定することなんてできない。あなたは最高に素敵な人であることはまず間違いないし私だってもしかしたら同じくらい素敵なのかもしれない。それでいいんじゃないかな。たまに会ったりお別れしたりいっぱい笑ったり泣いたり怒ったりしましょう。私はキラキラ女子にはなれないけれど私なりに不器用なやり方で自分を応援することにしました。

 

私へ。25歳の誕生日おめでとう