舞台「TERROR テロ」感想 〜しかし、それが問題なのです 〜

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公式サイト
TERROR テロ| PARCO STAGE

2018年2月17日 14時公演
兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール

作 フェルディナント・フォン・シーラッハ
翻訳 酒寄進一
演出 森新太郎

出演 橋爪功今井朋彦、松下洸平、前田亜季堀部圭亮原田大輔、神野三鈴

※この記事の中には物語の核心に触れるかもしれないネタバレが含まれています

あらすじ

164人が乗った旅客機がテロリストによってハイジャックされた。標的は7万人収容のサッカースタジアムでその日は満員だった。空軍パイロットである少佐は旅客機を撃墜し、乗客の生存者はゼロだった。少佐は逮捕され今日がその裁判である。罪名は「殺人罪」しかも「大量殺人」である。参審員は証言や弁論を見て少佐が有罪か無罪に決めることになり、その結果がそのまま判決結果となる。生命の重さとは何か。人間の尊厳とは何か。法治国家で生きるということは何か。

 

感想
今作品を鑑賞する全観客が参審員として投票することができる。赤い紙(上画像)を有罪か無罪の箱に入れ、それらは集計され、判決結果となる。有罪と無罪とでエンディングが異なるのがこの作品の最大の面白さだろう。作品の物語の行方に直接関わることができる舞台作品は数少ない。投票するときに少しだけ浮き足立ったような観客席を観ていると微笑ましくもなり同時に嫌悪感をも抱く。ドンドンと箱に放り込まれる有罪と無罪は舞台上というフィクションでありながら目の前の現実で行われている裁判の結果を左右するものになる。

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観ていてこれほど苦しいと思ったのはいつぶりだろうか。この作品はトロッコ問題などで既に度々話題に登る「生命の重さはその人数に比例するのか」という究極の問題だけではない。それまでの過程、結果、そして今ある現実とこれから先の未来について考えさせられるものだ。我々は法治国家の下で生きているがそれがどんな意味であるかということを問われる。同時にパイロットの少佐のように決断を迫られる。彼は有罪か無罪かと。容赦なく彼が白か黒であるかの判断をしなくてはならない。その思いはどうであれ彼を有罪とすることは7万人の命を164人よりも重いものであるという意思表示であり、彼を無罪とすることは7万人のためなら164人を犠牲にしても仕方がないというものである。どちらかに判断を下すことによって私はこの手で、明確に人の生命のために別の生命を犠牲にした。生命の重さを測ることなんて不可能だ。1人1人の人生が別のものである以上それらは統合して計算できるものではないからである。だとしても今、目の前で飛んでいる飛行機を撃墜したら7万人を救えるとしたら。どうだろうか。

もしそのどちらかに自分の大切な人がいたら?

検事はスタジアムにいる7万人が15分あれば全員避難できたこと、旅客機にいた乗客がコックピットに乗り込もうとしていたこと、人間のモラルの脆弱性を指摘した上で、憲法の在り方と法治国家の原則について述べる。

弁護人は少佐が己のしたことを認めていることや小さな悪が大きな悪を倒すためにはやむを得ないこと、過去の前例でそういったことは度々行われてきたこと、人間の正義とは何か、検事の弁論を聞いた上で人間の尊厳とは何かと述べる。

どちらもある意味では正しい、どちらもある意味では正しくない

どちらにしても誰かを犠牲にしたという傷は我々に残ることになるのだ。

 

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もしどちらかに自分の大切な人がいたら?

コックピットに乗客が乗り込み、テロリストを抑え込むことができたら?

スタジアムへ避難勧告がされ、7万人が全員避難できていたとしたら?

自分がパイロットだったら?

弁護士だったら?検事だったら?

被害者の遺族だったら?

近い過去に同様の事件が現実で日本で起こっていたとしたら?

 

人間は完璧ではない。矛盾する生き物だ。だからこそ裁判制度がある。だからこそ考えを積み重ね、何が正しいものであるかどうかの基準を作ってきた。それが法だ。でも人間が完璧ではないように法律も完璧ではない。その基準さえも時には揺らぎ、覆され、変化していくものであることを知っておかなければならない。ケースバイケースの限界、感情を抜きにして判断することの困難さを学ばなくてはならない。

そうです。観ていてすごく辛いのです。

己のモラルの甘さとそれでも人を裁かなければならない苦しみを味わい、噛み締めながら鑑賞し、票を投じた上でまた明日からもこの法治国家のもとで生きなければならないからだ。私は良い作品を観た後は世の中が少しだけ違って見えるがこれはちょっと色んな意味で重くのしかかるものだった。突き詰めればどこまでも命題は広がっていく、軍を国が持つことについて、警備について、武装することについて、法律、憲法、人間とは何か。観ながら心臓をギリギリと締め上げられているような苦しさを覚えた。

 

キャストについて触れておく。見事だった。「天秤」という言葉が何度も使われる本作品において役者達のパワーバランスの取り方の難しさは他の作品とは大きく違うだろう。どちらか片方に寄ってしまうとたちまちそれはただの裁判ショーとなってしまうからだ。観客も偏ったどちらかを前提として鑑賞してしまうだろう。どちらかがどちらかを潰そうとするわけでもなく、少しだけ脚本に無理があるような気もしないでもないが(「もしコックピット内に乗客が乗り込んでいたとしたら?」を問い詰めていくと「もしスタジアムに10万人を殺すテロリストが潜伏していたとしたら?」も考えていかない気もするしそれを考えるのは不可能で現実的ではないからである)、バランスよく、それでいて力強く観客、もとい参審員に訴えかけるその芯のぶれなさがよかった。全員よかった。全部このクオリティで芝居が観たい。あと明日も観たいけど予定があるので悲しい。

 

では次に舞台芸術や演出について書いておく。

客電は完全に消灯されずにぼんやりとついたまま舞台は進んでいく。途中途中で微妙にその明暗を調節しているのが上手い。暗いときには気づけば証人の証言と頭の中で展開される物語に引き込まれてしまうし、明るくなるとハッと我に帰り、現実と向き合う姿勢を取り戻すことができる。舞台美術はシンプルに半円形の構造で椅子と机があるだけなので「ここがどこか」を曖昧にしておくにはいいなと思った。そうすることで観客が各々の想像で補い、ぞれぞれの心の中で法廷が開かれる。背面にあるスクリーンで評決や休廷などの表示、判定結果が数字で出るのも見ていて楽しいのでこれはこれでアリだと思うがもっと小さな劇場だと浮くかもしれない。パルコと阪急中ホールの両方で観た人の意見が聞きたい。音響も実際の音かどうかわからないほどのノイズを入れているのが実に上手いが気が散るのでムムムと思いつつ「でも沈黙の中でクーラーの空調音がやけに大きく聞こえるときとかって確かにあるよなあ」とも思った。好き嫌いが別れるかもしれない。

何度も書くが、私は人の生命の重さを人数で測ることはできないと思っている。それと同時に目の前で見知らぬ生命が奪われようとしたときに傍観者でいることも難しいとも思っている。そしてそれはそのときにならないと判断ができず、どちらを選んだとしても一生後悔することになるだろうとも思っている。相反する感情が常に同居している中で倫理観はいつだって不安定でボロボロのままだ。自己中心的で偽善者、傲慢で不寛容だ。それでいて無自覚に自分がいいと思う方向に正しさを求めてしまっている。

 

声を小さくして書くが、私はきっとこの舞台を観るのに向いていないのだと思う。感情を抑えて客観的に、冷静に観ることができなかったからだ。途中で何度も泣いたし検事が人のモラルについて語っている場面ではあまりにも自分の心の弱さに堪え兼ねて「もうやめてくれ」と思うほどだった。どちらを選択しても残るだろう傷と後悔を考えると胸が引き裂かれそうになる。もうちょっと「さて、どっちに投票してやろうかな!」くらいの姿勢で見れたらよかったのかもしれない。ううう辛い。

 

兵庫県立芸術文化センターでは本日と明日の2回公演、本日は無罪判定だったが明日はどうなるのかが楽しみである。

 

人の心を同じ人の心が裁くのはなんて難しいんだろう。2020年の東京オリンピックを目前にした今、世界中で行われている「テロ」という言葉がもたらす脅威とは一体なんだろうか。面白かったです。