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映画「グレイテスト・ショーマン」感想 〜 「違う」ことが「同じ」ということ 〜

公式サイト

映画『グレイテスト・ショーマン』オフィシャルサイト

 

監督 マイケル・グレイシー

楽曲 ベンジ・パセック&ジャスティン・ポール

脚本 ジェニー・ビックス、ビル・コンドン

 映画『グレイテスト・ショーマン』 Imagination Trailer - YouTube

あらすじ

P.T.バーナムがサーカス作るよ

 

感想

ここまで観客の感想が絶賛と酷評に分かれているものは今までに見たことがない。ちなみに結論から言うと私はこの映画を好きになると決めたので「グレイテスト・ショーマンは最低の映画だ!」という方にはこの記事はオススメできないが、かといって絶賛しているわけでもないので「グレイテスト・ショーマン最高!」という人にもオススメできないかもしれない…。更に脱線するが本作品の日本プロモーションで「#ショーマン最高 をつけて感想ツイートをしよう!」というものがあり、最高と思った人たちのツイートが公式サイトに自動羅列されるようになっているが個人的にはいただけない。最高と思わなかった人の感想だって感想の1つなのになぁと思うから。でもまぁプロモーションとしては合ってるとも思うので、ただ私向けのプロモーションではなかったということだが。

 

話を本作品の中身について戻す。主人公P.T.バーナムが己の夢を叶えるために剥製展示、フリークスたちによる屋内パフォーマンス(サーカス)、オペラ歌手の公演ツアー、フリークスたちによる屋外テントパフォーマンス(サーカス)と数々の娯楽芸術を手がける物語である。プロデューサーとして自身の船を担保に(実際は海の底に沈んだものだが)銀行融資を受け、人々を楽しませるために奔走する。と書けば聞こえがいいが、唯我独尊で周りの意見に耳を傾けず誰かの立場に立って寄り添うこともせず、好き放題のやりたい放題をしているようにも見える。正直あんまり好きじゃないよバーナム氏。私と彼は友達にはなれないよ。彼の独走っぷりと(マジで人の話聞かない)と、その許され方に脚本の甘さが目立つ。また、実在の人物について描く作品はそのキャラクターの正誤性がよく問われるが、これはあくまで「バーナム氏」をキャラクターに仕立て上げたフィクションのキャラクターだと私は思っているのであまり気にならなかった。(ジャージー・ボーイズでのトミー・デヴィートしかり)

 

「彼ら」の選択

 マイノリティとしての彼らをコンテンツに上げてサーカスでパフォーマンスさせるのはまだいい。オーディションのシーンで色んな人が続々と集まっていく。どうしてあそこで「出ないことを選択した人」が描かれてないのかが気になった。音楽のスピード感でガーーッと進められても…いや、描けよ…みたいなモヤモヤが…。マジョリティの中でも出たい人とそうでない人がいるようにマイノリティの中でも絶対出たくない人っていると思うから。だからもしこの映画を見て無垢な善意からマジョリティの人がマイノリティの人を引きずり出すような意見や行動を生むのではないかという懸念がある。

 

話題を変える。「何か美しいものを見て賞賛すること」と「誰かの傷を指差して嘲笑すること」はある意味ではとても似ていて、ある意味では同じなのかもしれない。安全な位置(マジョリティ側)から他人の傷(あるいは個性、あるいはその人自身)を見て差異化して消費しているのは同じかもしれない。そしてどっちも「楽しい娯楽」になりうる。バーナム氏が「生きた剥製」としてユニークな「フリークス」であるマイノリティを多く集めて「消費対象」に仕立てあげたのはものすごく賢いやり方だと思うが(実際成功してるわけだし)。大衆はわかりやすいものが好きだし。

私が「This Is Me」を好きなのはフリークスが自分たちで「見られる立場」から「見せる立場」に逆転したところや自分たちで選んで舞台に立つことを選んだ。というところで、劇場が「観客とパフォーマーの両者の同意からなる空間である」というのがとても好きだ。つまりこれは楽曲単体で見ると万人共通のものだが、私の中ではそれは違うと思っていて「This Is Me」は彼ら自身のマーチソングであり、そこに加わることはできるけど「これは私たちの歌だ!」と先頭の看板を奪うようなことを色んな人が(マジョリティが)言ってるのはどこか違和感を感じてしまう。私の傷が彼らのものではないように彼らの傷は彼ら自身のものだ。「他の人と自分は違っている」という事実が万人共通の「同じ」ものであったとしても彼らとぴったり「同じ」ことが「違っている」というわけではない。そしてそれはグラデーションでありながらも無意識的に「マジョリティ」と「マイノリティ」に分けられ、その構造が差異を良い意味でも悪い意味でも明確にしてしまう。

さらに「This Is Me」を自意識の歌ではなく多様性賛歌として賞賛していいものかとも思っている。あまりにも配慮がない。舞台パフォーマンスが基本的に肉体を通して行われる以上、私たちはその人の「個性」から逃れることはできない。それが「傷」なのか「唯一無二の武器」なのかは劇場に行って見たとしてもわかることは少ない。レティが仲間を鼓舞し、「これが私(This Is Me)」と舞台に立つことを決めたように、それは消費される側の人が選択することだからだ。消費する側の人々はそれを暗黙のうちに彼らが同意しているとしか思うしかない。怖い。どんなエンタメでも当てはまることだからだ。舞台パフォーマンスではないが現にワインスタイン社の映画を私は楽しんで鑑賞していたし、後になって自分の好きな映画に出ていた女優が彼から被害を受けていたことを知った。私は勝手に「この女優は喜んでこの映画に出ている」と思い込んでいたのだ。また娯楽文化を消費すること自体が明確な差別や攻撃に繋がる可能性がありすぎるほどある。娯楽文化はその構造そのものを逃れられないものとして内包している。

ミュージカルとしての「グレイテスト・ショーマン

現代音楽で彩られるキャッチーなナンバーや目まぐるしく続く華やかなパフォーマンスは観ていて単純に楽しい。特にバーでカーライルとバーナムがボーカルバトルをするナンバー(The Other Side)は最高だった。かっこいい。ザック・エフロンヒュー・ジャックマンと対等に歌い踊るなんてハイスクールミュージカル時代には思わなかったので個人的にはこのナンバーだけでも観に来てよかったなぁと思った。またオペラ歌手のコンサートという名目で行われている「Never Enough」でオペラの歌い方(ベルカント歌唱?)ではなくポップス仕立てになっていたのは少し驚いたがミュージカル全体のことを考えると納得できる。そういえば「実在の人物の物語なのに当時の音楽ではなく現代音楽を使っているのがおかしい」という意見を見たけれど、一昨年にトニー賞各部門をこれでもかというほど受賞したミュージカル「ハミルトン」を見て落ち着いてほしい。日本でやってないしチケット高いけども。「違和感がある」というのはわからなくもないが、現代の人々に送るミュージカルとしては正当法のアプローチではないだろうか。

「This Is Me」において彼らが「見られる立場」から「見せる立場」に逆転することは先程書いたが、それだけではない。このナンバーだけで映画そのものを支配下に置いてしまうほどの強い力を持っている。レティが声をかけて震わせながら「This Is Me」と歌うところでは彼女だけ時間軸は大きく拡張され、他の人たちはゆっくりと回りながらジャンプしている。時間すら超越した彼女はこのナンバーで絶対的な存在になっている。アンサンブルがこのナンバーを歌い上げることによって起こるこの逆転現象は主人公であるP.T.バーナムと彼自身の映画であるはずの「グレイテスト・ショーマン」そのものを霞ませているように感じる。ナンバー単体ならプレゼンのときにキアラが初めてマイクの前で本ナンバーを歌い、その素晴らしさに映画の作成が即決定した。というエピソードとパフォーマンス(動画がある)の方がドラマチックだなぁと個人的には思う。

https://youtu.be/XfOYqVnFVrs

そういえばプロットをナンバーが凌駕している例として同じくミュージカル「コーラス・ライン」の「ONE」が思い浮かんだが、これはアンサンブルたちによるアンサンブルたちの物語なので作品のバランスを崩すことなくむしろ一体となって作品を引き上げているので今回のものとはまた違う。

 

ここから始めよう

この作品では色んな事柄が対比として描かれている。貧しさと裕福、成功と失敗、見るものと見られるもの、娯楽と芸術、光と陰、過去と未来などである。1人の人間を構成する要素が無限大にある限り誰しもが時代状況や環境、立場によって「はぐれもの」として無視されたり攻撃されたりする可能性があり、そしていつでも逆の立場になることだってあるのだ。実は今、この記事を書いている最中だが私は私が怖い。私は私以外の人になれない。きっとこの記事の中でも私の差別的な表現や考えが含まれていると確信しているからだ。これからも私は無意識に、無知によって、時にはよかれと思い込んで人を傷つけてしまうだろう。これは開き直りではない。毎回反省したいし学習したい。私はここからまた始めたいのだ。個性について、差異について、差別について、娯楽と消費について改めて考えていきたい。色んな状況が変化し続ける今だからこそ考えたい。だからこの記事を読んで「それは違うよ」と思った方は是非指摘してほしい。

余談になるが本作品に怒りを表明している人に対して「ミュージカルは楽しんでみるものなのだからある程度のことは目をつぶって見るものだ」という意見をいくつか拝見した。いわゆる現代から見た古典ミュージカルが「明るく楽しく観れるもの」(ハッピーなラブコメディ)がとりわけ多く、ミュージカルのイメージもそこから脱却しきれていないことがわかる。だが実際は全く違う(あくまで「個人的なミュージカルの楽しみ方」というものであれば全く問題ないけれど)。実際に起きた冤罪事件がテーマの「パレード」、家族内の問題を扱った「Next to Normal」、エイズクライシスや貧困を扱った「RENT」など他にも人種問題や偏見、貧富の差や社会問題について取り上げている作品は多い。「ミュージカルは明るく楽しく観れるもの」から変化してきた結果である。これを否定することはミュージカルの歴史を否定することに他ならない。私はそれこそ明るく楽しいミュージカルも好きだが、今「グレイテスト・ショーマン」に関して起きている反応を「ミュージカルは楽しんで見るものだから違うでしょ」と一蹴するのはあまりにも暴論だと思う。新作として出される作品がどのように捉えられているのか。観客の視点は今の世界を反映しているのだから。

色々書いたがあまり褒めてないことに気づいたので褒めつつまとめることにする。パフォーマンスナンバーはどれも豪華で見ていてワクワクするようなものばかりで大好きだ。ザックがかっこいい。みんなかっこいい。しかし脚本の甘さが目立つ。扱っているテーマへの配慮が足りないとも思うがそれを含めた「娯楽と消費」について問題提議をしているのかもしれない。

 

なんかまとまってないし私は自分の考え方を信頼していないのですぐに消すかも

 

 

グレイテスト・ショーマン(サウンドトラック)

グレイテスト・ショーマン(サウンドトラック)