ミュージカル「FUN HOME ある家族の悲喜劇」感想 〜 私はインクを介して父と対峙する 〜

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公式サイト 『FUN HOME ファン・ホーム ある家族の悲喜劇』

2018年3月4日 13時公演

兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール

原作:アリソン・ベクダル

音楽:ジニーン・テソーリ

脚本・歌詞:リサ・クロン

翻訳:浦辺 千鶴

訳詞:高橋 亜子

演出:小川 絵梨子

 

※この記事には物語の核心に触れるかもしれないネタバレが含まれています

 

あらすじ

アリソンは今43歳の漫画家で彼女はレズビアンである。彼女の父 ブルースはゲイで彼が43歳の時に自殺した。アリソンは自分の人生を漫画に描きながら家族、そして父との想い出を辿っていく

 

感想

この作品の感想を書くにあたって、私がまだ幼かった頃の父との想い出といえば何だろうかと思い返していた。そういえばリビングで眠ってしまった小さな私を父が抱っこして寝室まで運んでくれていたことがある。私はそれが大好きで時々わざと寝たふりをして運んでもらっていた。パジャマ越しに感じる父の体温はいつも温かく、そのときに体臭とも柔軟剤や洗剤の匂いとも違う、父だけが持つ独特の匂いを嗅ぐのがたまらなく好きだった。流石にある程度大きくなるともうやってくれなくなってしまったけれど。
話を本題に移そう。本作品であるミュージカル「FUN HOME ファン・ホーム とある家族の悲喜劇」はあらすじにもあるように主人公である漫画家 アリソンが「父の上で飛んだ時、時々完璧なバランスが取れた瞬間があった。」と飛行機ごっこをしているところから始まる思い出の数々を描きながら辿っていくという回想録形式のものである。しかし、そこにあるのは郷愁感だけではない、客観的な目線で今の自分の年齢から眺めた自分の人生を見つめ直している。ほぼ舞台に出ずっぱりなアリソン(現在)は幼い頃の自分を見て懐かしみ、そしてときには失望しつつ生々しい痛みを覚え、楽しみながら慈しみに満ちた眼差しで自分の人生を漫画に描いているのだ。

彼女は自分に起きた過去の出来事を描いている。「過去は変わらない」というが、実際には「過去は変わらない」のではなく「過去に起きた事実は変わらない」ではないだろうか。つまり「過去の思い出は『自分がどのように見るか』によって常に変化する」ということだ。舞台の上で駆け回るアリソン(幼少期)はまだ自分がレズビアンであることも父親がゲイであることも知らない。だがそれを見つめるアリソン(現在)はそれを知っている。だからこそ「補足説明」と何度も繰り返し「人生の描きなおし」を行なっている。彼女は一体、自分の人生の何を描きなおしたいのか。幼少期に父親と飛行機ごっこをして遊んだことだろうか。家業である葬儀屋の商売道具(棺桶)に潜り込んで遊んでいたことかもしれない。それとも大学生の頃に自覚した自分のセクシャリティのことだろうか。当時の恋人とのセックス。自分の性を受け入れてもらうことの喜び。実は幼少期にとある女性を見て自分の気持ちに既に気づいていたこと。父親がゲイであること。それを知っていた自分の母親。幼少期によく遊んでもらっていたベビーシッターが父親の恋人であったこと。どれだろうか。彼女は描き続ける。時折インクを落としたようなシミ模様が背景に映し出されるのは舞台上で行われている出来事が漫画の原稿用紙の上であることを彷彿とさせる。

そして、このインクの染みが現代のアリソンの足元に広がるシーンが終盤にある。原稿の上(アリソンの人生)で父親の死が近づいている中、苦悩する彼女が「私は絵を描いているだけ、絵を描いているだけ。そうだ、これを描こう。」と家の家具に近づいていくが次々と消えていってしまう。その中で父親であるブルースが自分と向き合うことになる。いつのまにか作者であるアリソンが自分の描いているはずの原稿上にいた。彼女はブルースと共に車に乗り込む。隣同士の2人。私はこのシーンで歌われる「電話線」が1番心に残った。

アリソン

何か言わなきゃ

何かをパパに

次の 次の 次の 信号の

光 光 光の下で聞こう

どんな気持ち? 2人が同じと…

過去に戻ったアリソンは永遠と続く電話線(電線)を車から眺めながらブルースと会話をしようと何度も試みる。次の信号で聞こう。ダメだった。次の信号で聞こう。何でもいいから言おう。私とパパが似ているってことを。

ブルース

新しいプロジェクトに取り掛かったって言ったっけ?150号線のところにある古い家なんだ。見たことあると思うよ。少なくとも四、五十年は空き家のまま放置されてた家だ。

やっと自分のセクシャリティについて少しだけこぼし始めたかと思いきや、すぐに次の家の改装計画について話をし始めるブルース。アリソンは自分のセクシャリティを受け入れて両親にカミングアウトしたがブルースは違った。彼は最後まで1人のゲイとしてではなくあくまでアリソンの父親であろうとした。

アリソン

何か話して

何でもいいから!

2人の生き方は交わることなく平行線をたどっている。まるで永遠と続くような真っ直ぐの電話線のように。しかしその電話線は大学生のアリソンとブルースを繋いだ絆でもある。アリソンがあの場にいたのはこの瞬間を描き直したかったからだ。もし、あのとき何かを言うことができていたら。もし、あのとき父親から何かを言ってもらうことができたなら。「何か話して」と叫ぶ彼女の姿は父親との絆を手繰り寄せたいという真っ直ぐな愛と底のない後悔の哀しみの塊に見えた。

だが、過去に起きた事実は変えられない。どれだけ描き直しても、見つめ直したとしてもブルースは死に、アリソンは1人になる。ただ、少しずつその見方は変わっていく。現代に帰ってきた彼女は再びペンを取り、こう描き始める。

 

「父の上で飛んだ時、時々完璧なバランスが取れた瞬間があった。」

 

また、過去の始まりと終わりがやってくる。

 

1人の人間として家にいた娘アリソンと、家を保つことに執着していた父ブルース。社会の最小構成単位である「家族」を「家」にスポットライトを当てることによって何が浮き彫りになるか。それを観客それぞれにすくい取ってもらうような作品だった。「Home」を「Family」と取るか「House」と取るのか日英の翻訳の難しさが伺える。またアリソンが漫画を描くことを上手く活用して、ペンのインクが点(1人の人間)になり、線(それぞれの人生や絆)が引かれ、円(ブルースの人生の始まりと終わりの場、または輪廻や循環の象徴)に変化して個々のアイデンティティの輪郭をなぞっていくのも観ていて楽しむことができた。各キャストのパフォーマンスもどれもよく、「少数精鋭」という単語がよく似合う洗練されたチームだったようにも思う。彼らは舞台上でその瞬間瞬間を精一杯生きていた。余談だが、「おいでよ ファン・ホーム」のナンバーがジャクソン5の「ABC」にどこか似ているなと感じたのだが前者も後者も1970年代のものだった。もう少しアメリカの文化について学んでいたらそのあたりのノスタルジックな雰囲気を感じ取れたのかもしれない。

ゲイの父親とレズビアンの娘。彼らの関係は一見すると奇妙なものかもしれない。家族に起きた悲喜劇を何度も繰り返すことになろうこの作品は彼女が「自分は何者か」を見つめ直し、探し続ける旅路の物語であり、その根底には父親の存在が必ずあった。迷ったとき、悩んだとき、ペンを取って線を描くとき。原稿用紙に枠線を引くたびに2人の「電話線」が彼女の心の中に現れるのだろう。

この前、久しぶりに自分の父親の顔をまじまじと見てみた。父は少しだけ訝しげな表情をしたあとに「何?」と笑った。目尻にシワがいくつも寄る。あれ、こんなに老けてたっけ。違う。時間が流れて私が成長したんだ。目を閉じて昔のことを思い出してみる。そこにはかつてのアリソンたちと同じように父と遊ぶ幼い私がいた。

多種多様な価値観や物が濁流のごとく大量に流され、消費されていく今。本作品を観て、改めて自分という人間は何処から来ているのかを考えさせられた。生きることは常に難しいがその刹那に確かにある美しいものを思い起こすことは何度だってできる。心に思い浮かべさえすれば、いつだって私たちは会えるのだから。