舞台「岸 リトラル」感想 〜腐敗する父の死体は何を語るか〜

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公式サイト

『岸 リトラル』 | 主催 | 世田谷パブリックシアター

2018年3月17日公演

兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール

作:ワジディ・ムワワド
翻訳:藤井慎太郎
演出:上村聡史

出演:岡本健一 亀田佳明 栗田桃子 小柳友
鈴木勝大 佐川和正 大谷亮介 中嶋朋子

 

※この記事は物語の核心に触れるネタバレをしている可能性があります

 

あらすじ

青年ウィルフリードは名前もわからないような女と最高のセックスをしているときに疎遠になっていた父イスマイルが死んだとの電話を受ける。父の死体を引き取ったウィルフリードは母の墓に埋葬しようとするが母方の親戚たちから反対される。父イスマイルが母ジャンヌを殺したのだと。ウィルフリードは父の死体を埋葬する場所を探すために両親の祖国へ旅立つことになる。

 

感想

同作家(ワジティ・ムワワド)と同制作スタッフの「炎 アンサンディ」を去年観て素晴らしかったので鑑賞。ちなみに「炎」も「岸」もワジティ氏による「約束の血4部作」の作品であり、「岸」が1作目のものである(あと「森」と「空」がある)。「炎」が己の父親に関する謎解きをしていくサスペンスなのに対して「岸」では己の父親(死体)が話す言葉に心を乱されるという奇妙な謎が常にまとわりつくような話だった。

物語は女性の喘ぎ声が聞こえ、下着姿の青年が体を震わせながら白いペンキで下腹部を塗りたくられるところから始まる。今まで舞台上でセックスをする作品はいくつも観てきたけれどここまであからさまに精液を彷彿とさせるようなものを観たのは初めてだったので少々驚いた。「ジリリーン アナタノオトウサマガオナクナリニナリマシタ!」と性交真っ最中に(しかも挿れたまま)電話で父の死を告げられたウィルフリードは自己の妄想によって何とか現実を補完しながらその中を行きつ戻りつしつつ生きている不安定な青年だ。父の死は彼の中で映画のワンシーンであり、それでも困ったときはアーサー王の家来である剣士が戦ってくれる。そうでもしないと自我を保てないからだ。序盤は観ていてこちらも混乱してしまうほど彼は映画の中の俳優になり、剣士と共に戦う勇者であり、父の死への対応を迫られている子供になる。ただでさえ不安定な彼が父の遺品から自分に送られるはずだった大量の手紙を開けたとき、彼は自分の出生を知ることになった。私はここのシーンが特に好きでカバンから舞い上がる大量の便箋が、紙が、文字が物語を紡ぎ出していることや父から子への愛情と後悔、それを受け取り、読んだ子が「僕が知らない『僕』が出てきた」と困惑する様子は観ていてゾクゾクするほど興奮した。まるで手紙から文字が浮き上がってそのまま形になるような不思議な体験だった。そして手紙から湧き出す両親の人生は子を彼らの祖国へと旅立たせる。起き上がった父の死体と共に。

さて、この父の死体であるがよく動く。そしてよく喋る。そしてよく腐る。踊ることもあるし叫ぶことさえある。死体は全体的に少しコミカルで最後には「ウィルフリードの父の死体」から旅の途中で仲間になった若者たち(彼らもまた誰かの子供たちである)の「父」に昇華されていくのだが、ここで「おや」と疑問が浮かぶ。もしかしたらウィルフリードの父の死体は最初から動いても話をしてもないのではないか。彼はまるで自分一人だけで遊ぶ人形ごっこのように手紙から生まれた「父」という偶像を重ねて自分との対話をしていたのではないかと。父と交わり、生まれてきたことによって母を殺し、セックスでしか「生きている」という実感を味わえなかった彼は父の死体を通して死ぬことを学ぶ。「死ぬことを学んだから今度は生きることを学ばなくちゃ」と子供の頃から共に戦ってきた妄想の剣士へ別れを告げるのは彼が精神的に親から自立をしてアイデンティティを確立したことの明示だ。

内戦によって疲弊した国で出会った様々な事情で親を失った子供たちが仲間になり、埋葬する場所を探しながら彼らの物語を繋げていこうとするところは何となく童話「桃太郎」を想起させるものがあるが、ここには鬼ヶ島もなければ金銀財宝もない。彼らは海を目指すだけだ。後で調べてわかったことだが彼らにとっての海は「国境」で海ではしゃぐ姿を思い出すと複雑な気持ちになった。彼らはここから出ていくことがあるのか。もしくはそれが可能なのか。

首の繋がった死体が「奇跡」と呼ばれる国で彼らは海に父を埋葬する。父の死体にはこの国の膨大な人間の名前を書いた電話帳を錨にして。

詩的表現が多く、荒唐無稽な構造である本作品は「炎」に比べると随分と荒削りだがその分、行き場のない直球の感情を起爆剤にしてクライマックスまで邁進していく。露骨な性表現はかえって生命の生々しさを浮かび上がらせ、死が相対的に深くなっていくものだった。後半の美術がやや安っぽく見えてしまったり、クライマックスに何度も挟まれる父と子の対話に中だるみを感じたものの、作品の中にある混沌とした感情や生きることについて、父という存在への挑戦は観ていて唸る部分もある。

「怒れ」と力の限りを尽くし叫ぶ父の死体は声なき声の塊に見えた。彼らの怒号をこの世界は受け止め、彼らと真摯に向き合うを必要とされているのだろう。見ていないのだから知らなかったでは済まされない。

感情も己の姿も生命も剥き出しにした作品を見て、私は彼らの祖国であろう遠い国をことを考えた。舞台を観ることは私の世界を狭くも広くもし、また更に複雑にする。