可能性の取捨選択

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マシュマロ(ツイッターにおける匿名メッセージサービス)で「あなたのブログを読みたいです」と嬉しい言葉をいただいたので久しぶりに書くことにする。とはいっても舞台の感想をまとめるほど自分の時間はないので近況報告のような備忘録を書く。

最近やっと涼しくなったのでとても嬉しい。今年の夏の暑さには本当にうんざりしていて来年もあの暑さなら避暑地に逃亡してやると心に決めた。道行く人々の暑くて辛そうな顔を毎日見ることに耐えられない。夏ってもっとずっと楽しい季節だったんじゃないの。酷暑で海水浴やプールでの水泳が中止になる(水温が高いため)なんてあまりにもむごい。私にまだ夏休みがあった頃は永遠と続くような長い退屈とそれをどうにか発散しようとするイベントへ行って飽きるほど素麺を食べて氷の沢山入ったカフェオレを飲みまくってお腹を壊すのが常だった。でも今年の暑さだとそのイベントさえ世間は堪能していないのではないかとさえ思う。私も毎年行っていた海に今年はとうとう行けなかった。「酷暑の馬鹿野郎」とどこかに投書でもしたい。そんな暑さに続き、仕事が繁忙期を迎えて褒められたり怒られたり励まされたりしながら何とかやっている。来月にはもう少し余裕ができそうなのでまだ頑張れてはいるけれど、これがずっと続くとなるとなかなか厳しい。

 

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8月末に長野県へ恋人と行った。3月頃からずっと行きたかった場所で会う人会う人に「長野県に行きたい」と訴えていたし恋人と出会った日もスマホを彼の目の前に突き出して「ここに行きたいんだけど!どう!?」みたいなことを言っていた。紆余曲折あって恋人として彼と一緒に行けたのはどこか感慨深いものがある。

ずっと行きたかったところは驚くほど遠く、息を呑むほど綺麗だった。木に囲まれた小道を2時間ほど歩いたが全然疲れなくて感動した。底まで見通すことができるほど透明な池の中でスローモーションかと思うくらいゆったりとした動きで泳ぐ魚を見た。魚といえば海でビュンビュン泳ぐものをイメージして生きてきたので「この魚やる気あるの?」としげしげ見つめた。池の水面はさざ波すらなく、静寂という言葉が似合う場所だった。時々ゾッとするほど人の気配や明るさを感じない場所があって本当に素晴らしい。誰にも干渉させないという強固な意思のようなものを感じる。人の手によって自然が守られているけれど当の自然は寡黙で雄大で脅威すら覚えた。結局のところ人間なんてちっぽけな存在で永遠に勝てない自然がいて圧倒されるのみである。今の年齢でこういう経験ができてよかったなと思う。静かで美しく、冷たい場所だった。 また行きたい。

2018年もあと3ヶ月ほどだが、あまりにも色々ありすぎて精神が追いついていない。「自分の人生は自分で決めていい。自分の好きなことをしてもいい」ということを本当の意味で理解して行動するようになったのは2年ほど前からで、そこから加速装置をオンにしたかのように目まぐるしく日常が変わっていった。そのスピードはどんどん増しているし、自分が追いつけていないのに更に自ら色んなことを自分に課していくのは面白く、それでいて疲れる。下り坂を走って下りるときによく似ているのかもしれない。自分の足が勝手にぐるぐると坂を下りて耳元で風がビュンビュンと吹く。心臓は悲鳴をあげ、肺はもう限界を迎えているのに「もっともっと」と胸の奥で声がする。

「人生はドラマだ」に類似したうたい文句は今まで吐いて捨てるほど見てきたし聞いてきたが他人事だと思っていた。が、今ではどうだ。学生時代からやりたかった職業につき、恋人ができた。この前は恋人の実家に行って彼の家族に会った。そして今度は自分の意思で1人暮らしを始めようと物件を探して契約し、引越しをしようとしている。自分の生活がどうなるのか私にはわからないが、今よりももっと楽しくなるような気がする。というか楽しくするのだ。絶対に。「私の人生なんてこんなもんだろうな」と自分の身の程を弁えて行動していたときは何かをやりたくても「私なんか」を言い訳にしてきたし、その分楽しそうな人を見ては羨んで憎んでいたけれど「私なんか」を決めていたのは自分の中にある他人の物差しだった。人生はドラマで人生は最高で人生は面白い。色んな人からそれを教わった。「今までは恥ずかしくて言えなかったけれど実はこんなことがしたい」と性別や年齢問わずに相談するようになったら「いいじゃん、やろうよ」とあちらこちらからドアが開いた。自分にはこのつまらない人生しかないんだと最善策と思われるドアを1つずつ開けてきたけど実は横にも後ろにも前にも上にもドアがあって、それが一気に開いたので眩しくてクラクラした。特に恋愛に関しては苦手意識と自意識過剰と過去の経験が相まってなんとなく遠ざけてたし(というよりそれ以外のことが楽しくて仕方なかったのもある)、しまいには少々見下したり馬鹿にしたりしてきたのだが「世の中の恋愛してる人たちってこんなめまぐるしい経験やってんの!?精神状況がジェットコースターじゃん!?すごいな!?」という学習をした。すごい、偉い。みんな偉い。恋愛しててもしてなくてもしてても偉い。

好きな言葉がある。ウィニー・ホルツマン(ミュージカル版ウィキッドの脚本家)が言ったもので文献はどれか忘れてしまったがそれはこうだ。

「何年か前にユダヤ教徒が自分自身を見つけるために行っている特別な教えを聞いた。詳しいことはよくわからないが、その考えとは基本的にはこうである。『全ての人が隠れた痛みを持っていることを忘れるな。例えあなたが百万年間それを探して見つからなくても全ての人は誰にも言えない悩みを抱えている』」

当たり前のことかもしれないが、私はこの言葉を思い返すたびにハッと我に帰る。自分の人生は自分のものであると同時に他人の人生もその他人のもので比較するのは不可能なことであると。私の人生の選択が合っているのかは分からない。そもそも正解なんてないのだから未来の私でもわからないのではないだろうか。でも楽しんでやろうと思う。時々は休んだりしたい。また長野にも行きたい。いやはや。

 

では、とりあえずまだ手付かずの引っ越しの荷造りに取り掛かることにする。