舞台「フリック」感想 ~僕にも色々ある。彼らにも色々ある~

昨晩、ホットココアを飲もうと思い立ち、マグカップに牛乳を入れて電子レンジで温め、市販されているココアパウダーを溶かすまではよかったのだが、うっかり飲むのを忘れて放置してしまった。かつてホットココアだったものはホットココアにしては冷たく、アイスココアにしてはぬるいココアになっていた。温めなおすのが手間なのでそのまま飲むと予想以上に苦かった。そんな風になってしまったココアを飲みながら、ふと「そういえばフリックもこんなかんじの作品だったな」と思った。 


フリック

原題:The Flick

作:アニー・ベイカー
翻訳:平川大作
演出:マキノノゾミ

出演者:菅原栄二
    木村了
             ソニン
             村岡哲至

公式サイト
http://www.nntt.jac.go.jp/play/performance/151225_007977.html


あらすじ
2012年の夏。マサチューセッツ州ウースター群の古びた映画館。
いつか映写係になることを夢見て働くサム。映画狂のエイヴリー。紅一点のローズ。まだ35mmフィルムで映画を映写しているこの映画館で働く3人だったが、時代の波はデジタル化に向かい、フィルム映写機からデジタル映写機に移行するという話が持ち上がる。それぞれに悩みを抱え、どうせ自分は…と卑屈になりながらも、与えられた仕事をそれなりに、けれど懸命にこなす従業員たち。一時、心が通じ合ったかに思えたのだが、デジタル化と共に、それぞれの本音が露呈し…(パンフレットより抜粋)

舞台セット模型

感想
舞台「フリック」(原題:The Flick)は古びた映画館で働く2人の男性と1人の女性の物語である。舞台セットも映画館の座席で、映画館におけるスクリーンが舞台における第4の壁になっている。観客はスクリーンの裏側から彼らの日常を観察するのである。映画館のスタッフの彼らは映画館上映後の清掃をしながらダラダラと世間話をする(ローズは映写係なので清掃はしないが乱入してくる)。そして暗転。の繰り返しである。今回の舞台の場合、大がかりな舞台セットの変更は皆無なので、この暗転は「ワンシーンの終わり」と「時間の経過」を表しているのだが、私はこの暗転がまるで映写機のフィルムの交換のようだと感じた。昔のフィルム映写機は1本の映画でも何本かのフィルムを交換しながら上映するのだが、その交換の瞬間に映写機を覗くとわずかではあるが暗転の一瞬があるらしい。カシャリと交換されながら時間が経過していく映画館での話。とても上手いと思った。

暗転の話をしたが、同時に照明の話も忘れずにしておこう。本作品は映画館のスクリーンが第4の壁である。つまり、あるはずの幕がないのだが、そうした状況の中でもしっかりとこの映画館は映画を上映してくれるのだ。座席という我々が普段全く気にしていないスクリーンで。映画館で映画が上映されているときに映画という光が観客を照らしている。それを舞台において再現しているのである。ぼんやりと上から下に流れていく字幕、会話する俳優と女優が座席に投影されていてとてもリアルだ。1幕、2幕の終わりに黄色の照明が舞台全体に当てられていくのだが、舞台上のすべてがモノクロになり、凹凸も感じさせないようになっていたのが見事だった。舞台という3次元を映像という2次元に焼き付けてこの舞台は幕を閉じる。それは、「どんな人物、どんな場所、どんな人生でも撮る価値がある1本の映画(作品)である」というメッセージにも受け取れるのだ。

掃除をしながらダラダラと会話をする話。と書いた。そして、それはその通りなのだが、これがまた面白い。物語は新しく入ってきたスタッフ(エイヴリー)に仕事を教えるスタッフ(サム)という何気ない日常から始まる。後部座席から前座席まで順番に、ほうきで掃除していく2人の掃除の仕方やそのスピードの違いに、どんな仕事でも最初はそれなりに差があるものだと再認識する。一見、何気ない日常の会話にキャラクター達の距離感や仕事観がさりげなくわかるようになっていて、時間が進んでいくごとに段々と深みを増して、観ているこちら側も彼らの仲間の一員になった気にさえなってくる。映画の話が多いので映画好きな方にも是非ご覧いただきたい。

一緒に過ごす時間が長ければ長いほど、漠然と相手のことをすべてわかったつもりになっている。というのは万国共通の話らしい。一見分かり合えたかのように見える彼ら、それとなんとなく彼らをわかったつもりになっていた我々観客だが、それを少しずつ剥ぎとっていくかのように彼らの過去や現在置かれている状況を露わにしていく。エイヴリーは自殺未遂をしていたし、サムは知恵おくれの兄を持ち、盲目的なまでにローズを愛している。ローズはローズで奨学金という借金を背負い、カツカツの毎日を暮らしていた。この彼らのバックグラウンドが一種の秘密として共有、もしくは露呈されていくことによって単純な毎日のなかで人間関係が複雑に変化していく。

人間関係のなかで発生する感情ほど複雑で難解なものはないだろう。この3人の仕事仲間という名前の奇妙な三角関係は近づいたり遠のいたりしながら形成されていく。この距離感も彼らが適当に休憩がてら座る座席の位置によって明確にされており、彼ら3人のはずの舞台が、別の見方をすると、とある映画を見に来た不特定の人物たちの人間関係にも見える。「仲が悪くなるほど彼らは仲良くなってしまった。」という距離感と人間関係のテーマをとても現実的な手法でこの作品は訴えかけてくるのだ。

結果的にエイヴリーだけが映画館を去ったサムとローズの冷酷ともいえる判断と行動に私は素直に怒ることができなかった。自分も彼らの立場になるときっと同じことをしてしまうだろう。それがこの世界のリアルだ。サムがエイヴリーにしてあげた優しさの数々だってこの世界のリアルにちがいない。ローズがエイヴリーに抱いた衝動的な性愛感情も、エイヴリーが「このままでもいい?」と手を繋いだときに振りほどかない優しさも現実として起こった出来事だ。優しさも嫉妬も憤怒も、どんな感情だって人間と人間の間には起こりうるのだ。まるで次々と足されていく知恵の輪のように感情の複雑さという当たり前のことを客観的に観客として、しかも舞台で見ることによってより見つめなおすことができた。人間とはとても難しい。そして何よりも不器用すぎる一面を併せ持っている。

この作品で誰かが急に殺されるようなドラマティックな出来事は起こらない。彼らの関係性は複雑に変化していくものの、親密という一線を越えることはなく、またダラダラとした日常が映画館で送られていく。だが、それでいいのだとも私は思う。彼らのありのままを受け入れてその不器用さを愛おしく笑いながら、私たち観客もまた複雑な日常にかえっていくのだから。

心が震えるような感動シーンがあるわけでもない。クライマックスと呼べるようなものもあるにはあるが、特にはない。しかし、舞台が終わって俳優たちがカーテンコールに出てきたと、私はポロポロと泣いてしまった。未だに何故泣いたのか自分でもよくわかっていないが、それはまた冷めてしまった苦いココアを飲んだ時にでもまた考えようと思う。

オマケ
劇場入り口にいるクマスタッフ(フリックバージョン)。ナイスポージング