記号としての存在

大学生の頃、1年間ほど居酒屋で働いたことがある。居酒屋といっても大手チェーン店ではなく家族経営の小さな店で15〜20人入れば満員になる大きさである。客の入りも回転率もよくて中々に繁盛しているところだった。私がそこでやった仕事といえば注文を取ることと料理を運ぶこと、ドリンクを作ること、皿を洗うことの4つくらいだった。


客が来たらおしぼりとお箸を持っていく。いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?飲み物の注文がないときはお冷やかお茶のどちらがいいかも聞く。ビールが2つと枝豆、冷奴ですね。ありがとうございます。オーダー入ります。そしてビールをジョッキに注いでテーブルに運び、出来た料理を運ぶ。手が空いたら洗い物をする。それでも手が空いたら備え付けのテレビを見る。たまに常連さんの話し相手になることもある。チップとしていくらかお小遣いをもらったり高級なお菓子をいただいたこともあるが、いかがわしいことは何もなく私はなんの色気もないシンプルなエプロンをつけて接客をするだけのただのアルバイトしかなかった。会計をすることもなかったのでアルバイトととしても半人前だったと思う。まぁそれでも楽しかった。常連さんの頼む飲み物を上手く作れるようになったとき(お酒と水の配合とか何をプラスするかとか)は「お、ちょっと私イケてるんじゃない?」と調子に乗ったりした。このお店の客層は固定客が結構な割合を占めており、私のことを「店員さん」ではなく名前を覚えて名前で呼んでくれる人も少なからずいた。私も彼らのことを「お客様」とか「お客さん」ではなく名前で呼んだりする。常連さんと行きつけの店の店員というそれ以上でもそれ以下でもない関係である。この関係はどこにでもあるありふれたものであるがなかなか興味深い距離間だったなと今になって思う。顔と名前(ただし苗字だけ)、それと見た目から判断できる性別や年齢程度はわかるが彼らがどこの誰かなのかを私は知らない。職業や勤め先を教えてもらったこともあるが、あとで先輩(このお店ではいわゆるママのような役割を果たしていたベテランの人)に「あれ全部嘘だよ。」と言われたりしたので何が嘘で何が真実なのかもわからなかった。そしてそれは知らなくてもなんの問題もない情報でもあった。よく来てくれる常連さんと一端の店員という枠組みの中に当てはまればなんでもよかった。


色んな常連さんがいた。毎日晩ご飯を食べにくる地元の学生。火曜日と水曜日に麦焼酎のお湯割とお茶漬けを食べるおばあちゃん。金曜日にライムサワーとうどんを食べていた髪の毛の長いサラリーマン。昔の話を聞かせてくれるおじいちゃんにどうやら不倫の逢い引き場所としてお店を使っていたらしいお姉さん。私が働いている間に常連さんになった人もいれば来なくなった常連さんもいる。そんな彼らから私は色んな話を聞いた。嘘を話そうが本当を話そうが適当に相槌をうってくれる他人。のれん1枚くぐれば消えてしまうという関係の薄さ。その距離間がかえってよかったのかもしれない。ある人からは結婚詐欺で訴えられそうなんだけどどうしようと言われ、ある人からは先月に夫が死んだと言われ、ある人には来月から大学へ行くと言われた。「人の数だけ人生がある」ということは薄々学んではいたことだったけれど、ここまで人間及びその各々の人生を実感したのはこのお店で働いた1年間だったと思う。私は嘘か本当かわからない本当のような話を沢山聞いた。それは奇妙な距離間で生まれた不思議な話ばかりで今となっては確かめようのないものだ。またいつか暇になったらあのお店に行こうとボンヤリ思いながら今日は眠ることにする。夢の中でいらっしゃいませと過去の私が迎えてくれるだろう。