ミュージカル「ビリー・エリオット」感想 〜ビリー、頑張って。いってらっしゃい 〜



※この記事は物語の核心となるネタバレが含まれています

公式サイト

梅田芸術劇場メインホール
2017年10月29日(日) 12時公演

脚本・歌詞:リー・ホール
振付:ピーター・ダーリング

翻訳:常田景子 
訳詞:高橋亜子


キャスト


あらすじ
1984年。イングランド北部・ダーラムの炭鉱町ではサッチャー政権の赤字炭鉱閉鎖計画に反対して町一丸となってのストライキが行われている。そこに住む少年ビリー・エリオットがバレエと出会い、ロイヤルバレエスクールへの入学を目指す。同名映画のミュージカル作品。

感想
本カンパニーは東京でプレビュー公演を行ったのち、約2ヶ月という日本では比較的珍しい長期公演を経て大阪へと移動してきた。関西民である私は待った。観劇日を待ちに待った。私の観測圏内ではプレビュー公演から毎日その感想や興奮が留めなく流れており、「○○くんビリーかすごい!」や「△△くんマイケルが成長してる!チケット増やしたい!」「とにかくすごい!」などのように9割9分絶賛で埋め尽くされていてその熱量はミュージカル「パレード」日本公演のときの同じようにやや異様なほどであった。またもやホリプロ。すごい。マチルダ・ザ・ミュージカルもやってほしい。

作品自体は映画やロンドン公演のライブビューイングで鑑賞していたしその素晴らしさも充分知っていたので、当時の私の本音を言うと「みんなが言うほどではないだろう。ハードルを上げて鑑賞して落胆しても嫌だし。」と少しばかりたかをくくっていた。が、鑑賞後の今では他にまだ書かなければならない感想文を放り投げてこのビリー・エリオットの感想を書いている始末である。それくらいとてもよかった。日本版も実に素晴らしくそれでいて日本版カンパニーならではの工夫(翻訳など)もある。そして何よりこの作品を実際に劇場で観るという行為がどれだけ意味のあることなのかを体感した。

本作品では主人公であるビリーや彼の友人であるマイケルを含めて10名ほどの子役が登場する。年齢も背丈も違う子供たちが舞台上を駆けまわる姿は愛らしいものではあるが、それだけでなく彼らはオーディションを勝ち抜いてレッスンを重ねてきたれっきとしたプロで各々がキャラクターの体現していたように思う。時々、台詞がまるきり棒読みなところが気になったが、その点ではマイケル役である山口れんさんの台詞の扱い方や間の取り方がとても上手かったのが印象的だった。これからの山口さんのキャリアが楽しみである。

そう、彼らのこれからが楽しみなのだ。

前田晴翔さん演じるビリー・エリオット。立ち姿も顔立ちも整っていて大人っぽく、どこか都会的な洗練さを既に持ち合わせているが、まだ残るあどけなさや両親や先生などの信頼している大人だけに見せる甘えるような表情も可愛らしい。まさに少年期のど真ん中を行くようなビリーであの時期特有の反抗心や自立心と不安や好奇心の間で揺れる不安定なビリーを見事に演じている。

オーディション(入学試験)へ行くことを父親に禁じられたときに彼が発する「母ちゃんなら行かせてくれた」の絶叫には観ていて心までもなく身体までも震えるほどだった。その絶叫から始まるナンバー「アングリーダンス(Angry Dance)」はこの作品の目玉ともいえるナンバーで爆音で鳴らされるエレキギターとドラムの中でビリーは感情を爆発させて踊る。怒涛のタップを踏む姿は生命の危険すらを感じる鬼気迫ったもので彼自身の魂を削るかのようだ。ベートーベンは交響曲第5番(運命)の冒頭の4つの音を「運命はこのようにして扉を叩く」と説明したが、ビリーは己の足で一心に運命を人生に刻んでいるように思える。

また観たい。もっと観たい。子役たちがこれからこの先もっといいパフォーマンスをするであろうその絶対の未来にある可能性を考えると瞬きすら惜しいほどその瞬間が愛おしい。我々が目撃しているのは1秒前の彼らの未来そのものだ。公演が終わるたびに彼らはそのぶん大きく成長している。

子役たちはまだ肉体的にも精神的にも未発達で、それでいて成長期の真っ最中だ。彼らがこの姿、この声でパフォーマンスしてくれるのは今この瞬間しかない。明日には声変わりが始まるかもしれない。来週には身長が伸びて外見が変わっているかもしれない。「私は今この場所で彼らのこの瞬間を目撃している」という特権的自覚は観劇においてドラマ性を生み出し、子役たちを大量に起用していることによって本作品のそれは他の作品の比ではない。

炭鉱夫たちと警官たちが罵倒しあい衝突するシーンと町の公民館のようなところで行われているバレエ教室のシーンが交錯するナンバー「ソリダリティ」(Solidarity)では対立していたはずの炭鉱夫と警官が次第にバレエ教室のダンスに取り込まれていき、最後にはウィルキンソン先生の指示を受けながら少女たちと共にステップを踏む。その中で練習を続けるビリーは才能を開花し始める。混沌の中で彼はひときわ輝く。その表情や動きにはまだ不安があるが中に好奇心がある。それは観客にこれから先にあるかもしれない様々な何かを期待させる。異なる空間が同時に存在し、混ざり合うという舞台だからこそできるもので個人的にお気に入りのシーンだ。炭鉱夫と警官の対立はお互いの生活のために行動しているもので彼らの考えに違いはあれど同じ人間で彼らもそれぞれ同じように日常を送っている。夢と現実の対立も様々な障壁がその間に立ちはだかっているが、決して断絶されているのではなくひと続きの繋がっているものだ。夢と現実、街と国、炭鉱夫と警官の対立をバレエ教室との楽しい混沌へと変えながら「団結(Solidarity)」を唱えるこのナンバーはそう遠くない未来でいつかこの分断がなくなることを示唆しているように思えてならない。日本版の歌詞である「団結だ 団結だ 団結 永遠に」も耳残りがよく、ついつい歌ってしまうようなリズムの良さがいいのも書き記しておく。


最後のシーンの話をする。ロイヤルバレエスクールに合格し、荷物を抱えて町から出ていくビリー、自転車でおそらく町外れまでやってきたマイケルがビリーを呼び止める。ビリーはマイケルのところまで戻って「またな」と告げ、町から出ていく。舞台から観客席へと彼は歩く、そこには彼以外のキャストも美術もない外の世界だ。当てられるのはスポットライトだけ。炭鉱夫たちのヘッドライトがビリーの行き先を照らし、背中を押しているのかもしれない。

そのあと、しばらくするとバレエの女の子たちやビリーを取り囲む大人たちが舞台上に登場し、彼を呼ぶ。ビリー!

ビリーはまた観客席の通路から舞台へと戻っていく。その足は少し駆け足で顔には安堵の笑顔が浮かんでいる。初めてこの作品をライブビューイング版で観た時に「どうして舞台から登場せずにわざわざ観客席から戻るんだろう?」と違和感を感じたことが蘇った。そのままフィナーレへ行くなら舞台上に出てきた方がなんとなくスムーズな気がする。

観客席の通路
舞台上からビリーを呼ぶ人々

あぁ、そうか。
ビリーは町へ帰ってきたんだ。それを町の人々が町外れまで迎えにきていた。彼の名を呼ぶのは彼をみんなが愛してるからだ。

ビリー、おかえり。
待ってたよ。おかえりなさい。

ビリーの旅立ちと帰郷は世界中にある親から子への数え切れないほど繰り返される「いってらっしゃい」と「おかえり」のやりとりだ。どうか無事でと祈りながら子を送り出し、少しずつ成長して帰ってきた我が子を迎え入れる。いつか来るかもしれない最後の「いってらっしゃい」までそれは続けられる。


手紙(Letter)のシーンでビリーの母親が18歳の未来へのビリー(作品上で彼は12歳である)に宛てた手紙が読まれるが、そこには「あなたが成長するのも、泣くのも、笑うのも、暴れてわめくのも見れなかった」とある。ここに書かれているそれらは全て舞台上で起こる数々の出来事を暗示しているが、12歳になるまでの過去のことも示しているのかもしれないしそれからの未来のことも示しているのかもしれない。我々は13歳になったビリーをこの舞台上で観ることができない。幕が降りたあとにビリー・エリオットは劇場のどこにも存在しない。彼が生きるのは観客の心の中だけだ。彼がロイヤルバレエスクールで何を学び、何に苦労し、笑い、泣くのかを我々は観ることができない。そういう意味ではビリーの母親と同じ立場にあるのかもしれない。だからこそ彼の祈るしかない。彼のことを愛していると、誇りに思っているとその瞬間に伝えるしかないのだ。

女装が好きな友人マイケル、愛情深いバレエ教師のウィルキンソン、兄のトニー、祖母、父のジャッキー・エリオットや町の人々がビリーの夢を応援する。父のジャッキーに至っては賃金を稼ぐために炭鉱夫の誇りを捨て町からの疎外を覚悟してまでスト破りを行う。炭鉱でストが行われていた当時、いわゆるスト破りや参加を拒んだ者には仲間から容赦ない暴力やリンチが行われていたという。あの閉鎖的な田舎でスト破りをすることはそれほどまでに危険なことだ。ジャッキーは自分のプライドや生命までもかけて息子であるビリーのために動く。「息子の夢を叶えてやりたい」というその気持ちは微塵の曇りもない愛情だ。「俺の息子だ」と所有権を主張ばかりしていたジャッキーが最後のオーディション会場でビリーのことを誇らしげに「俺の息子なんです」と言っていたところでは笑いながら大粒の涙をこぼして泣くという器用なことをしてしまった。ここのジャッキーの表情が実に複雑で愛情深くて見事だった。ちなみに益岡徹さんである。

益岡徹さんに触れたのであと1人印象的だった配役に触れておく。柚希礼音さんだ。彼女のことは宝塚時代のときと退団後初舞台であるミュージカル「プリンス・オブ・ブロードウェイ」でしか知らなかったが、今回のウィルキンソンの役は彼女によく合っていた。ビリーのために炭鉱夫たちに張り合うところでも負けていなかったし蓮っ葉な言葉遣いも似合っていたのと生徒と先生という他人の距離間の測り方が上手いなと感じた。ただフィナーレの時のダンスは流石トップスターというべきか、堂々たるゴージャスな貫録が溢れでていてウィルキンソンの「田舎でバレエを教えている二流教師」っぽさが薄れていたように思うが、総合的にはとても好みだった。舞台上での実力やカリスマ性を重視すると彼らが演じるキャラクター性が薄れてしまうという話はキンキー・ブーツのときにも確か似たようなことを考えていたような気がする。

ビリーも成長するが周りの大人たちもビリーと共に成長している。バレエや娯楽に対して偏見(この偏見はビリー自身にも根強く残っていて周りのから彼への影響がうかがえる)を持っていたが偏見を捨て、フィナーレではなんとあのチュチュを履くまでになる。炭鉱夫たちがチュチュを履くその滑稽さも面白いが素直に嬉しくなる素敵な明るいフィナーレだ。

まとめる。自分を表現するのは言葉だけではない。ダンスでもファッションでも自己表現のひとつだ。誰を好きになっても、何を好きになっても恥じることはなくむしろ誇りに思おう。人生を楽しもう。まだ存在しない未来を夢見て、その可能性を信じようというメッセージをここまで真摯に伝えてくれるこの作品は最高だ。根底には限りない人間愛が流れていて製作陣の温もりを感じることができる。キャストもよかった。音楽も、翻訳も、歌詞も、脚本もよかった。全く同じシナリオや内容で観ているのに新鮮な驚きと感動で泣いた。幕間で知り合いにあって話をしながらボロボロ号泣してしまうほどよかった。

そんな素晴らしい日本版ビリー・エリオットも今週で大千穐楽を迎えてしまう。どうかキャストもスタッフも観客も満足のいく公演になりますように。またどこかでこの世界のビリーたちが活躍する世界でありますように。


ビリー、頑張って。いってらっしゃい