イキウメ「天の敵」感想 ~それでも生きたいのか~


※この記事は物語の核心に触れるネタバレをしています

イキウメ 2017年春公演

イキウメ公式サイト
http://www.ikiume.jp/koremade_24.html

東京芸術劇場 2017年5月28日観劇
ABCホール   2017年6月11日観劇

作・演出 前川知大

 あらすじ
人生という、死に至る病に効果あり。

ジャーナリストの寺泊 満は、菜食の人気料理家、橋本和夫に取材を申し込む。
きっかけは妻の優子だった。寺泊は難病を抱えており、優子は彼の為に橋本が提唱する食餌療法を学んでいた。当の寺泊は健康志向とは真逆の人間だが、薬害や健康食品詐欺、疑似科学や偽医療の取材経験も多く興味があった。優子がのめり込む橋本を調べていく内に、戦前に食餌療法を提唱していた長谷川卯太郎という医師を知る。寺泊は長谷川と橋本の容姿がよく似ていたことに興味を持ち、ある仮説を立てて取材に望んだ。寺泊は、プロフィールに謎の多い橋本は長谷川卯太郎の孫で、菜食のルーツはそこにあると考えた。橋本はそれを聞いて否定した。実は橋本は偽名で、自分は長谷川卯太郎本人だと言う。本当なら122歳になる_。

感想
昨年に同劇団の「太陽」を観てからというものイキウメにハマってしまった。戯曲に盛り込まれる日常とSFの見事な融合や交錯も素晴らしいが私は作品の底に常に流れるテーマがとりわけ好きだ。前川氏の戯曲には「生きていくこと」に対して人間がどう向かい合っていくのか。という永遠の議題を取り上げているように思える。観終わったあとに自分に返ってるような作品が多いのだ。

さて、今作品についてまた書いていこうと思う。いきなりネタバレをするがあらすじにある橋本、いや長谷川卯太郎は人の血液を飲んで生きている。見た目30代半ばで止まっているが2017年(上演している日とリンクしていると思われる。)では122歳だ。彼は56歳まで普通に生きた後、飲血を初めて若返り、それからずっと生きている。

老いない健康的な身体で永遠に生きることと引き換えに卯太郎が差し出したものは生理的欲求だ。あまりにも健康的になった彼は食欲、睡眠欲、性欲を失うことになる。生きていくうえでの生理的欲求は「生きるために生きる」という最も根本的なもので特に「食欲」についてはすぐに生死に直結するものだ。人は食べなければ死ぬ。

私が好きなシンガーソングライターに小南泰葉という女性がいる。どの曲にも死の匂いをまぎれこませる彼女の曲が私は好きなのだが、彼女が書くブログの文章でゲゲッと思ってしまったものがある。
「料理は綺麗に飾り付けられた死体である」
読んだのは多分5年程前で探してみたけれど見つからなかった。残念。当時の私はまさしく「食」について学んでいる学生だったのでゲゲッと思ったのはよく覚えている。何故かはわからないけれど強い拒否感を感じてしまってそれから彼女のブログを読むことをやめてしまった。多分見たくなかった現実を突きつけられたからだろう。

食べることは殺すことだ。生きるために食べる。食べるために殺す。魚も肉も植物も全ては生きている命でそれを摂取しながら我々は生きている。人の理性から生まれた慣習というものかなければもしかしたら今頃マグロの解体ショーなみに人体の解体ショーと切り売りがされていたかもしれないと思うとゾッとする。卯太郎は血を飲むことによって生きているが人体を食べているのと同じである。だが、それを観ている我々は彼を非難できるのであろうか?

話題を次へ移す。

テーマである「生きるとは何か」が根底にあるので直接的な性描写がなく台詞や全体のトーンも淡々としながらもどこか官能的だ。もしくは、観ている側の人間もいつの間にか禁欲の立場に置かれているために少しの刺激でも反応するようになっているのかもしれない。アダムとイブが追放されたのは禁断の果実を食べたからだと昔に聖書で読んだことがあるが、禁じられればそれがとても魅力的なものに思えるのが人間の性だ。


全体の感想としては卯太郎が生きる100年間を食の変遷や時代の流れを用いて巧みに描いているのが面白かった。シーンの切り替えがカメラのシャッター音で無機質に切り替わっていくところや卯太郎自身が語り、それが舞台上で展開されていくという劇中劇である再現劇が今と昔で同時進行しつつ、影響したりされなかったりするところも映画や小説などではできない舞台ならではの手法だと思う。


さらに「食」というキーワードから連想される物事の多様さ、その本質にある残虐さを改めて感じた。個人的には舞台上に常に中央に存在するテーブルが表す「コミュニケーションの場」がとても好きだった。食卓であるそれは団欒の場でもあり話し合いの場でもある。食事と会話を通じて交流していく人達の関係性の変化が上手く描かれていてそこが好きだ。最初はうわべだけの会話をしていた卯太郎と寺泊が段々と打ち解けたようになっていく。人が人を仲良くなろうとするときによく「ご飯に行きませんか」と誘うが人間関係の構築において食事の場であるテーブルの存在がよくこの戯曲に当てはまっていたように思う。


先ほども書いたが、この戯曲は「人間の本能からくる欲求を手放した上で老いと時間から解放されるとどうなるのか。またその状態を継続させるには犠牲が必要である」というもので、つまり生きる中で必要とされる条件を全部削ぎ落として「生きるとは何か」を問う話である。卯太郎は食欲も睡眠欲も性欲もなく、老いることも病気になることもなく永遠の寿命があり、子孫を残すことができない。それが強調されるかのように彼を訪ねてくる記者(寺泊)は「病を患っており」「余命が限られていて時間がなく」「子供がいる」人間で対照な立場に存在するキャラクターだ。その2人が同じ空間にいてお互いの距離間を測りながら会話をやりとりしていく様子はまるで悪魔と取引する人間のように思える。そう考えるとこの作品が卯太郎による契約の長い前説明のようにも思える。


子孫を残していくという「種の連鎖」からも食べ食べられるという「食物連鎖」からも外れても残るのは、卯太郎の持つ思考と言葉だ。この作品を観ているときにずっと私の頭の中には映画「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」があった。ここでベンジャミン・バトンの簡単なあらすじを説明する。詳しくはググってほしい。というより映画単品でも素晴らしいので見てほしい。一応ネタバレ注意。


ベンジャミン・バトンは老人の身体で産まれ、その姿を見た父親が彼を老人ホームの入り口に捨てた。運良くその老人ホームで働く夫婦に拾われたベンジャミンはそこで育つこととなるが不思議なことに彼は歳をとるほど若返る。人とは違う時間軸で生きる彼と出会う人々。彼はデイジーという少女と出会い次第に愛するようになる…という話。


ベンジャミンはデイジーと出会い、近づき、恋をする。デイジーは歳を重ねていくがベンジャミンは若返っていく。それでも一緒にいることを選んだ彼らは束の間の「同い年」を楽しむ。鏡の前で並んだ2人は「今がちょうど同じくらいだから目に焼き付けたい」と鏡に映る自分たちを見つめる。


天の敵の話に戻る。ラストシーン近くで卯太郎は恵(卯太郎のかつての妻に生き写しのように似ている)というパートナーと一緒に写真を撮る。ざっと計算したがこの時の恵はおそらく卯太郎の身体年齢と同じくらいの年齢である。写真を撮る2人。撮っているのは寺田だ。


見事にこの2つの作品が私の中で重なった。


人生に孤独はつきものだ。誰かと魂レベルで何かを共有したり共感するのはとても難しいことで、例え肉体を交えようが何をしようが人間は1人の身体に1人分だけの精神を詰め込まれている。だが誰かと共に過ごしたり笑いあったり触れ合ったり愛し合うことで「自分にはこの人がいる」と信じることで解消できる孤独も確かにある。でもその人が自分とは違う時間軸で生きていたら? いつか絶対に来る別れを毎日のように実感させられるとしたら?耐えられるだろうか。これは卯太郎の話だけではなく寺泊の話でもある。正反対の位置にいながら彼らはとても似ている項目が沢山ある。


それでも彼らは共に生きることを選んだ。ほんの短い間ではあるが、他の人たちが当たり前に生きている「同じ時間」の中で愛する者の姿を写真に、目に焼き付けようとする。


それは何故か。決まっている。

愛しているからだ。愛は最後まで残る。


そして愛する者と共に過ごして孤独がなくなったとしても共に同じ時間を歩めないという絶対的な孤独から生まれる絶望はより色濃く彼らにのしかかってくる。人生は選択の連続だとよくいわれるが、選択肢のどちらを選んでも別の幸福があり、その代償として別の不幸があるだけだ。誰しもが人には言えない秘密を抱えているしそれぞれの絶望を持っている。


そんなことを考えているときにふと「それでも生きたいのか」という問いが浮かび、離れなくなる。何かや誰かを滅亡させるほど犠牲にしても私は生きたいのだろうか。


寺泊の妻が寺泊を抱きしめながらこの作品を締めくくる最後の台詞を言う。

「大丈夫、大丈夫。」



大丈夫なのだろうか。

この戯曲は明らかに何かを試している。


劇団名イキウメの「生きたまま彼岸を覗く」というコンセプトが改めて末恐ろしいと思えた作品だった。


まとまってないけど終わり