過去の私が手を振る場所だから

 

 ふと、なんとなく自分のブログの1番古い記事を読んでみた。日付を見ると、2014年2月に投稿しているので学生の頃である。およそ9年前。つまり、インターネット歴が人生の1/3以上になるということで、ということは自分のありとあらゆる欠片をオンラインに流しているわけだ。

 大学を卒業して就職したときも、恋人が出来たときも、引っ越しや結婚した時もブログに書いていた。よってつまり、私の人生のハイライトをこのブログを読めば分かってしまう。面白いログが出来たものだ。始めた当初はそんなこと微塵も考えていなかった。いやはや。

 アナログだとここまで続いていなかっただろう。誰も読んでいないだろうと書いた記事に対して「あの記事好きです。」とコメントをいただいたり、企画に参加させていただいたりするたびに嬉しくなる。「続けていて良かった。これからも頑張ろう。」と思う。反応があるから続いているといっても過言ではない。書くことは孤独で忍耐のいる作業だ。だからこそ反応があれば嬉しい。そして、書いたとしても必ずしも反応が得られるわけではない。毎分毎秒更新される膨大な情報の塊であるインターネットの海に流すので、ほぼボトルメールのようなものだ。私の言葉がどこか遠くの誰かに届けばいい。

でも、誰かに届かなくてもいい。とも思うのだ。

何故なら、自分が読むから。

 冒頭の話に戻るが、ブログを始めた当時の私は学生で、今現在仲良くしていただいている人たちと出会ったり、まだ出会っていなかったりしている。どうやら大学の臨地実習で大変なようだ。頑張れ頑張れ。いや、違うな。頑張った頑張ったと声をかけるべきなんだろう。自分の得た人生の経験値でなんとか生き延びようとガムシャラにもがく過去の私は今の私から見ると微笑ましく、どこか生意気で、過去の記事を読みながら、なんだか胸のあたりがソワソワしてしまった。この私は一体誰なんだろうか。自分であることに違いはないのだが。

 昔の旅行会社のキャッチコピーかなにかで、「知らない自分に会いに行く。」というものがあったが、ブログに日々を、己の人生を書き残していくことは「過去の自分が未来の自分に会いに行く。」ということではないだろうか。「今の私」は間違いなく「過去の私」にとっての未来だ。ページを開けばいつでも「過去の私」が泣いたり笑ったり悩んだり喜んだりして、それぞれの記事の中で待っている。

 今日も私はブログを書く。いつか、どこかの誰かの為になればいいと、おこがましい感情を抱きながら書く。未来の自分に向けて目には見えない想いを文章にして書き送る。だから、私はブログを書く。

 機会さえあれば「ブログは楽しいですよ。」とあちこちで勧めているが、これは本当に自分自身がそう思っているから。そして、私が貴方の文章を読みたいからです。そしてなにより、未来の貴方が待っているからだと、そう強く思うから。

 

 

特別お題「わたしがブログを書く理由