ナショナル・シアター・ライブ「戦火の馬」感想〜幸福はこの地に産み落とされた〜


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あらすじ
主人公が幼少時から愛し育てた馬が軍馬として徴用されたことから、数奇な運命をたどることに。果たして二人は再会できるのか?(公式サイトより引用)

感想
スティーブン・スピルバーグの同名映画をテレビ放送で鑑賞し、映画も素晴らしいのだから舞台もさぞかし素晴しかろうと思い、鑑賞した。


舞台は簡素な半円形のもので具体的なセットはなく、引きちぎられた画用紙のような幕が上にあるだけだが、この幕に映像を映したりして時代の流れや戦場の暴力を演出している。小道具の使い方も巧みで役者が棒を持って交差させたり移動することによって舞台上の空間がセリ場になったりするのは観ていて面白かった。舞台上のリアリズムを強調するよりも、観客が持つ共通のイメージを頼りにしてシンプルに舞台を仕上げていたので、観客には各々の持つイメージの背景が見えていたのだろうと思う。私は「舞台は鑑賞している観客の頭の中で完成されるものである。」という考えを少なからず持っていて、だからこそ観劇体験には鑑賞者各々の人生や感性が反映されるものだと思っている。評判の作品を観てもあまりピンとこなかったり、酷評されている作品を観てとても感動したりといった経験は誰にでもあるだろう。それは誰にも否定できないもので、その人だけの思い出ではないだろうか。

話が逸れたので戻す。舞台セット自体はとてもシンプルに作られているが、登場する等身大のパペットはとても美しく、複雑に出来ている。この物語は主人公である少年と、同じく主人公である美しい狩猟馬ジョーイ(英語で彼の名前は『Joey』だが幸福や喜びを意味する『Joy』を連想させる名前だ。)の成長物語と彼らを取り巻く第一次世界大戦という悲惨な歴史の物語だ。この大戦から登場した機関銃や戦車、毒ガスはこれからの戦争が「いかに大量の人間を殺すか」というむごい方向に進んでいくことが安易に予想できる。そうした破滅と無慈悲の戦争の中で時代遅れでもある戦馬として徴用されたジョーイはイギリス人の元で育てられ、フランスの地でドイツ人として戦い、ドイツ人に保護され、荒れ狂う戦場で働き続けた。彼は馬であるのだから言葉も国籍も関係ない。戦争の中で彼はある意味どちらにも属さない自由の身であるが、逆をいうと常に利用される立場でもある。そうした姿はなんとなく今の世界にもいる難民を思い出すもので、何からも自由になることと見放される、利用されることの難しさを感じた。この物語が普遍的なのは、いつの時代も戦争の被害者である言葉を持たぬ者がいることの表れではないだろうか。

悲しみの歴史である第一次世界大戦を描く本作品であるが、この作品の目玉はやはり人形使いが操縦することでパペットに吹き込まれる魂だろう。馬は3人の人形使いが、ガチョウは1人によって操られている。どれも本物と見間違うくらいの動きで、馬に至っては関節や筋繊維のねじれ方まで再現されているのは本当に感銘を受けた。なんてたって舞台上で馬が呼吸をしているのだから。この作品では主に馬であるジョーイと、同じく馬であるトップソーン(サラブレッドで美しい黒毛の馬)が登場するが、喧嘩したりじゃれあったりしている二頭を見るのはもう物語関係なく楽しい。等身大ということで実際に見るとその大きさや蹄の音、その重量などで大迫力なのだろうと思う。

言葉を持たぬ二頭ではあるが、その動きをもって言葉以上に彼らの感情を表現している。ジョーイが最期、倒れようとしているトップソーンを持ち上げようと頭で彼の頭をグイッとする一連の動作があるのだが、もうそこで私の涙腺がダメだった。トップソーンが戦争によって疲弊し、死んでしまう。辛い。死んでしまったトップソーンから彼の魂である人形使いがそっと彼の体から抜け出る。この作品による明確な死の表現である。辛い。悲しみにくれるジョーイがトップソーンの頭をツンツンと頭で突く。辛い。その姿を見て私は「トップソーン死んじゃ嫌だよおおおおおお。ジョーイを置いていかないでよおおおお。」と映画館でそれはもうオイオイ泣いた。ちなみに今もそのシーンを思い出して泣きながらキーボードを打っている。

暗い歴史の中でもジョーイとトップソーンの姿は美しく気高い。そうした彼らの姿に魅入られた人々の優しさもこの作品の中にある。そんな人々の優しさに応えようとする馬の優しさもこの作品の中にはある。

本作品「戦火の馬」では常に馬が登場人物たちの希望として描かれていた。「激動の時代を走り抜ける希望」というテーマはいつの時代にも受け継がれていくものだろう。馬という自然美を人知と努力によって再現するという、人間による自然への敬愛をとても強く感じることができる作品でもあった。

来日公演観たかった…。と思うが時すでに遅し。だが映像だけでもとても楽しめたし、色んな視点を楽しむことができるのは舞台の映像作品だけのものであろう。

よい作品をこうして日本で観られることの喜びを噛み締めてまたナショナルシアターライブに足を運ぼうと思う。