ミュージカル「パレード」感想 〜 誰が殺人者なのか 〜


未来とは今である。

− マーガレット・ミード(哲学者)


アルフレッド・ウーリー

翻訳 常田景子

訳詞 高橋亜子

演出 森新太郎


2017年6月10(土)12時公演

梅田芸術劇場 シアタードラマシティ


ミュージカル「パレード」ホリプロ公式サイト

http://hpot.jp/stage/parade


舞台映像



※この記事は物語の核心に触れるネタバレをしています


あらすじ

物語の舞台は、1913年アメリカ南部の中心、ジョージア州アトランタ南北戦争終結から半世紀が過ぎても、南軍戦没者追悼記念日には、南軍の生き残りの老兵が誇り高い表情でパレードに参加し、南部の自由のために戦った男たちの誇りと南部の優位を歌いあげる。

そんな土地で13歳の白人少女の強姦殺人事件が起こる。容疑者として逮捕されたひとりは北部から来たレオ・フランク。実直なユダヤ人で少女が働いていた鉛筆工場の工場長だった。北部出身の彼は南部の風習にどうにも馴染めずにいた。もうひとりの容疑者は鉛筆工場の夜間警備員、黒人のニュート・リー。事件の早期解決を図りたい州検事ヒュー・ドーシーは、レオを犯人へと仕立てあげていく。新聞記者のクレイグはこの特ダネをものにする。無実の罪で起訴されるフランク。そんなフランクを支えたのはジョージア出身の妻ルシール、同じユダヤ人だった。「レオは正直な人だ」と訴えるルシール。裁判が始まり、ユダヤ人を眼の敵にしている記者ワトソンに煽られ南部の群衆はレオへの憎しみがつのっていく。黒人の鉛筆工場の清掃人ジム・コンリーの偽の証言もあり、レオの訴えもむなしく、陪審員は次々と「有罪!」と声をあげ、判事は「有罪」の判決を下す。

あのパレードの日から一年、夫の帰りを家でただ待っているだけの無垢な女だったルシールは変わっていた。レオの潔白を証明するために夫を有罪に追い込んだ証言を覆すため、アトランタ州現知事のスレイトン邸のパーティーを訪ね、知事に裁判のやり直しを頼む。彼女の熱意が知事の心を動かす。その結果、レオの無実が次々と明らかになっていく。二人の間の絆は、レオの逮捕により強く固く深まっていた。あらためて愛を確かめあう二人。だが、間もなく釈放されるというある日、レオは留置場から南軍の生き残り兵、メアリーの親友フランキーらによって連れ出される。

白人、黒人、ユダヤ人、知事、検察、マスコミ、群衆・・・・それぞれの立場と思惑が交差する中、人種間の妬みと憎しみが事態を思わぬ方向へと導いていく。

そして、また、パレードの日がめぐってくる。「ジョージアの誇りのために!アトランタの町の、故郷のあの赤い丘のために」

(公式サイトより)



最初はまったくもって行く予定なんてなかった。特に贔屓にしている俳優が出るわけでもなかったし、知っているミュージカルでもなかったし。ただ、すごかったのだ。観に行った人たちの声が。「パレードはすごい。」との声が。観に行った人たちが次々と口を揃えて「お願いだから観に行ってほしい。」と毎日ツイッターのタイムラインで流れるそのさまは少し異様とも思えるほどで、最初の方は空席が目立っていたらしいが千秋楽付近では立ち見席までが販売されているほどであった。どういうことだろう。毎日その「声」は量を増して私の目に映る。


パレードはすごいぞ。パレードは素晴らしい。

パレードは今までのそれとは違う。


そしてとうとうフォロワーの方に「貴方にパレードを観てほしい。」とダイレクトマーケティングまでされてしまったのでなんとかチケットを手に入れて観に行った。


結論から言う。気圧された。これでもかというくらい身をブルブルと震わせながら泣いた。手が痛いくらい拍手をして賛辞を送り、ちょっと自分でもどうかと思うぐらい涙をダーダーと流しながら劇場を出た。今まで日本や海外でミュージカルを少なからず(少なくとも日本全体の平均よりは)観てきた自負がある私だが、なんか、もう、すごかった。この作品が持つ音楽性や脚本のドラマ性、言うなれば本質のようなものを観客に伝えようとするキャストとスタッフには凄まじいほどの熱意と努力を感じたし、それを抜きにしても頭を殴られたような衝撃的な感動がそこにはあった。


パレードはすごかった。

この観劇体験を忘れないために今こうしてキーボードを叩いている。


あらすじにもあるように、この物語はとある少女殺人事件に絡んだ人達の物語で実際の事件を元にしたミュージカルである。私はこの事件を恥ずかしながら知らなかったのだが、むしろ知らないままのほうがいいと思い予習はアメリカ史をサクッと読み直すくらいにしておいた。それが功を奏したのかどうなのかはわからないが私個人の問題なのでよしとする。


舞台はアトランタ。そこに住む人々のご都合よく変わる正義によって最後には「処刑」された冤罪の罪人レオ・フランクの物語。と書けば1行で済む作品ではあるがそこに描かれているのは人間のエゴイズムと差別意識、愛情と正義、そして南北戦争という血にまみれた歴史である。今回の演出で(オリジナルを知らないので比較できないのが惜しいが)、キャラクター達が第四の壁を越えてこちらに向かって喋り、お前はどうすると指さす。お前達も関係者なのだとスポットライトが観客席に容赦なくあてられる場面さえある。この作品の中で観客は聴衆と化し、時には罪人をさばく陪審員となり、絶えず正義とは何かを問われる。彼は罪人なのか。裁かれるべき人間なのかと。


この作品で面白いのは音楽によって観客の感情をコントロールされることではないだろうか。ミュージカルだからこそできることで言葉以上のものを音楽で伝える。その手法は暴力的なまでに強制力のあるものだ。音楽に「のる」ことは音楽に「のせられている」ことで我々はまんまと彼らのいいようにその流れに身を任せてしまう。フランクの裁きに加担することさえしてしまう。これも立派なプロパカンダで世論操作の一部である。なんて恐ろしい。あえて真実を伝えずにあちらからこちらへと正義の天秤を揺らし続ける数々のナンバーは観客のモラルや自尊心をこれでもかというほど逆なでして時には不快感すら覚えるものだが、だからこそこのミュージカルは素晴らしいとも思う。人の正義感なんて脆く弱いものである。真実はどこにもなく残るのは記録と事実の羅列だけだ。人は何が見たいのかによって今日の白が明日には黒になることもあるのだ。


あぁ、陪審員よ。

あの罪人をどうか殺してください。

幼気な少女を犯し、未来を奪ったユダヤ人を吊るしてください。殺してください。

だって皆んな言っている。

新聞にも載っている。これは真実。

彼は変な奴。偉そうなユダヤ人。

強欲な変態。正義はここにある。

だから殺してください。さあ。


殺してください。


人の死は刺激的な悲劇で裁判は正義と名のつく娯楽になっているという点ではミュージカル「シカゴ」がすぐに思い浮かぶがミュージカル「ジーザス・クライスト=スーパースター」もそういった場面があるので見たことない人は是非見てほしい。


話題を変える。私は勧善懲悪でハッピーエンドな作品を観ることも好きだが同じくらい、いやもしかしたらそれ以上に理不尽な悲劇を観ることも好きだ。人生は楽しいこともあれば悲しいこともある。泣きながら奥歯を噛み締めて報われない悔しさを味わったことも、その中のかすかな希望に救われたことだってある。何でもありなのが人生だ。喜劇も悲劇も悲喜劇も人間の歴史だ。他人の人生を追体験することによって自分自身がどうあるかを考えさせ、再認識させる悲劇が好きだ。「たまたまそちら側にいなかっただけだ」という偶然と安心感と幸福を味わうことができる悲劇が好きだ。ブレヒト的演劇(叙事的演劇)を上演することは意味がある。答えのない質問をする作品は観た人の心のあり方の輪郭を捉えてくれると私は強く思うのだ。


パレードを観て私は己の心の弱さと正義感の不安定さを学んだ。それでもなお諦めない人の強さを、愛情を学んだ。他の人にも是非聞いてみたい。


さて、今回の演出で印象的なのは大樹と紙吹雪、照明の3点である。


紙吹雪から語ることにする。南北戦争の戦没記念パレードで歌われるアトランタの曲と上から降るカラフルな紙吹雪。「あぁ、綺麗だな」と素直に思った。なのに場面ごとにどんどんと降り積もっていく紙吹雪を見て段々と奇妙な違和感を感じた。これは何だろうか。人々に踏まれ、ほうきで掃かれるこれは何だろうか。


あ、これ人の死体だ。


色とりどりの紙吹雪は人種のるつぼと呼ばれるアメリカ合衆国に住む人々の命だ。白人も黒人も黄色人種も、ユダヤ教徒キリスト教徒もイスラムも仏教もいる国の命だ。


大木から散る落ち葉ともとれるそれは南北戦争で散った膨大な数の命だ。その命を「腐葉土」としてそびえ立つ大木はアメリカ合衆国そのものである。歴史の名もなき犠牲者たちの上に国は今も存在しているのだ。


大樹の話に移る。アメリカ合衆国そのもののモチーフであるとついさっき書いたが、もちろんそれだけのものではない。映画「それでも夜は明ける」では黒人である主人公が拉致され、奴隷になり主人に刃向かった罰として理不尽に吊るされるシーンがあるが、私にとってパレードの大樹はそれを彷彿とさせるもので、ミュージカル「ジーザス・クライスト=スーパースター」のユダが首を吊るシーンも思い出してしまうものだ。パレードは夕焼けで赤く染まる丘とそして大木が現れるところから始まる。そのときに流れる音楽はリズムよく叩かれるスネアドラムの音だけだ。ネタバレを避けてきた今日という日を迎えた私であったが、この作品、ミュージカル「パレード」が開幕してスネアの音を耳にした瞬間に全てを悟って号泣した。


誰かが理不尽に吊るされる

誰かが誰かの手で処刑される


大樹は吊るされるための舞台でスネアドラムの音は誰かが処刑台へ登ったときの音楽だった。


映画「パイレーツオブカリビアン」の第1作目では主人公キャプテン ジャック・スパロウが軍に逮捕されて処刑台へ連れていかれるシーンがあるが、そのとき脇に配置されているのはスネアドラムを抱えるドラム隊だ。タカタカと叩かれるその音は罪人の死を待ち望む音で、ドラムロールは執行時の音だ。


誰に言われるわけでもなく瞬間的に「これ」は「あれ」だとわかってしまった。音楽は言葉以上のものを伝えるが今回は相手が悪すぎた。最初からむごすぎる。


絶えず「正義とは何か。善意とは何か。」と観客に問い続ける本作品ではあるが、その問いを投げかけているのはキャラクターの台詞や音楽だけではなく照明も大きく関係しているのが印象的であった。下から上に照明を当てるシーンがとても多く、キャラクターの表情がよく読めない。何を考えているのかがわからない。わからないからこそ観客は考えさせられる。キャラクターの本心を想像力を働かせて見ようとする。また照度が強いものが多いことから光と影が色濃く映る。それにも怖いものを感じた。


キャラクターの描かれ方が少しだけ雑というか劇的に変わりすぎる(バカな妻として描かれていたルシールがフランクの裁判をきっかけに変わっていくのはよくわかるが、話し方までもがガラッと変わっていて少し違和感があったりフランクも最初に典型的なユダヤ人として描かれすぎているような気もした)ところや、ミンストレルショーやブラックフェイスがどういう経緯で行われて今タブー視されているのかを全観客が理解していると仮定してでの演出だと信じているが黒人を演じるにあたって顔を黒いドーランで塗りたくっているところにも少し違和感があったが、とてもいい作品、キャスト、スタッフだったと思う。石丸さんのパフォーマンスを初めて生で見たが、純粋に歌の上手さだけで人は泣くのかと涙を流しながら驚いたし、他のキャストも様々なジャンルのアメリカ音楽を見事に声色を変えて歌い上げていた。


人は間違える。フランクも、妻のルシールも知事のスレイトンも間違える。だが彼らは考えることをやめなかった。おかしいと思う部分を考え続け、証言を洗い直し、真実を探し続けた。たとえこの物語の結末が最悪の悲劇であっても、それが現実の事件を基にしたものであっても、我々はそこから学ぶことができる。考えることができる。「考え続けろ」と暗黙に主張するこの作品は観客を、人間そのものを信じているからこそ主張しているのだ。


過去は変えられないが学ぶことは絶対にある。そして未来は変えられる。


ここで、ジェームズ・ボールドウィンのエッセイ「アメリカの息子のノート」からこの文章を引用してこの感想を締めくくることにする。


「どうやら人間は対立しているようにみえる二つの観念を心の中に永遠に持ち続けねばならないようだ。第一の観念は受容、人生をあるがままに、人間をあるがままに、敵意をもたずに全面的に受容するということである。この観念に照らしてみると、言うまでもなく不正はあたりまえのことになる。しかしこれは人間が自己充足していられるということを意味するのではない。なぜなら第二の観念は同様の力をもっているからである。人間は決して、自分自身の人生において、こうした不正をあたりまえのこととして受けとめてはならず、全力を尽くしてそれと戦わねばならない。」



考えろ。戦い続けろ。


まだ終わっちゃいない。