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舞台「フリー・コミティッド」感想 〜 自我の混乱と形成 〜

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公式サイト

公演詳細 | StageGate [ステージゲート]

 

2018年7月14日公演

DDD青山クロスシアター

作:ベッキー・モード
翻訳:常田景子
演出:千葉哲也
出演:成河

 

あらすじ:売れない俳優サムはとある大人気レストランの電話予約係である。ある日、同じ電話予約係である同僚が職場に来ない。だが様々な人々が予約を取ろうと電話をかけてくるので彼は2人分の電話を1人で取ることになる。もしもし、電話予約係です。ご用件をどうぞ。サムは鳴り止まない電話を取り続け客や職場からの理不尽な要求に悪戦苦闘することに。

 

※この記事は物語の核心に触れるネタバレをしています

 

感想

あらすじにもあるように電話を取りまくる予約係の青年の話である。一人芝居なので勿論全ての役を成河さんが演じるのだが全38役という凄まじいほどの役の多さだ。これでもかというほど数々のキャラクターを舞台上で性別年齢関係なく声色や表情で演じ分けているのには感嘆した。電話を取ると一瞬で次々と変わるそれを見るとなんとなく中国の伝統芸能である変面(一瞬でお面を次々と変える芸)を思い出したこともここに書いておく。

さて、ストーリーの話に移る。地下室(DDD青山クロスシアターも地下なのがニクい)で電話を受けているサムだが基本的に無茶難題をふっかけられて混乱しているところに更に電話がかかってきて、てんやわんやするのだがその構造は終盤になるまで変わらずに続くので観ているこちらとしてはひたすらいじめられっ子、いや、ハラスメントの被害者が被害を受けている図を見せられていることになるのであまりいい気分はしなかった。というのは私個人でそういうことに対する拒絶反応が出てしまう過去の思い出があるからなので、もう少しフラットな感情で観賞したら違ったものが見えたかもしれない。ごちゃごちゃしている地下室も次第にゴミ箱のように見えてきたりもしたのだ。

終盤には彼がウッカリ言ってしまったことをキッカケにキャラクター達のパワーバランスが崩れるので救いといえば救いだが、ひっくり返ることはないのでこれにも少しモヤモヤしてしまった。それが今の職場の環境がどんなに悪いものだとしてもそれでも生きていかなければならないという人生の世知辛さを示しているとしても。

先にも書いたがキャラクターが38役も登場するのだが何個か描き方が気になったキャラクターがいた。まず日本人の観光客から始める。声が小さくポソポソと話し、サムと意思疎通ができない(忘れたが「いつですか?」というサムの問いかけに「○名です」と答えていたような気がする)ので彼は言葉を濁してそのまま電話を切ってしまう。それを観て笑う観客。

 

つらい

 

何がつらいって私自身も国際電話をかけて拙い英語を話して応対してもらったことがあるからである。外国人が書いた日本人を日本人が演じてそれを観て笑うという構図にクラクラした。他にも中国人シェフを演じる時にわざとそれっぽく(昔のアニメに出てくるような声色とイントネーションで)話しているのにも引っかかった。出てくる女性のキャラクターも底意地の悪いような人物が多く、何だかなぁという気持ちである。

書く側も見る側もある程度のステレオタイプを内在化しているものでレッテルを共有してそれを楽しむのは「笑い」の中であるあるのものだが、1999年オフブロードウェイで初演の作品を2018年の日本でやるにあたってそのまま持ち込むのは観客へのアプローチとしていいものなのかと悩んだ。じゃあ2016年にブロードウェイで再演されジェシー・タイラー・ファーガソンが出演したのはどうなんだと言われそうだが私は観てないので何とも言えない。ステレオタイプを笑うことと何かや誰かを差別することは紙一重で常に揺れ動くその境界線はまだ私にもわからないのだ。だからこそどんな気持ちでこの作品を観ればいいのかわからなかった。

演出の話に移る。元の脚本はおそらくほぼコメディとして書き上げたものでそこに皮肉や人間ドラマを隠し味程度に盛り込んだのだろう。だが今回の日本版の演出は隠し味である人間ドラマの部分を引き出そうとして何を食べているのかわからない料理のようだった。風刺になるほど皮肉が効いておらず人間ドラマになるほど深みがなくコメディにしてはゲラゲラと笑えるほど痛快さや緩急がなく(「笑い」における間の取り方は重要だ)、演出と脚本のバランスの悪さが目立ってしまったのではないかと個人的には思う。あ、緩急があまりにも少なく観客すら置いてけぼりにして爆走するのは「都会そのままのスピードだから」とパンフレットでは書いてあったような気がする。が、都会のスピードをそのままを舞台上に持ち込んだとしてもそれがリアリティに繋がっていたのか?と私は問いたい。

そして、嫌だなと思う部分も多くあれば好きだなと思う部分もある。本作品は「電話」に振り回される青年の話だが、この電話をかけるという行為は基本的に相手をどこか無条件に信頼しているものではないだろうか。だからこそ保留にされても待っているものだし「サム、待ってるよ」のような台詞も出てくるのだろう。あとサムが電話相手のためを思って奔走する話でもあるが電話相手がサムのことを思って行動する部分も多くはないがあるのでそこに人情を感じたりもした。また、サムを見ていると人のキャラクターとは自分1人だけで構成されるものではなく他者と関わることで作られるもので良くも悪くも影響しあっていて、彼らの間で紡がれていく言の葉ははらはらと散っていくようだが、しっかりと地面に降り積もっていき木の一部となる。誰でもない青年(売れない役者という役設定も「何も演じていない役者」をイメージさせるのでそうしているのだと思う)が1人の人間として、サムとして自分の意思で行動できるようになる終わり方は好きだが、私が見たい回は何となく「あぁ、サムはまたこの地下室に帰ってくるんだろうな」と思うような演技でボンヤリとだが悲しくなってしまった。

最後になるが脚本と演出にかなり個人的な感情が重なってしまい「これは私向けではないな」と思った観劇経験であった。オリジナルのようにコメディとして突き抜けた感じにするとかひと続きのショートコントとして暗転を繰り返して続けていくとかしてもかなり印象が変わりそうだ。成河さんの実力には舌を巻いたがモヤモヤの残るものになったので自分なりにその問題と向かい合っていこうとおもう。