舞台「TERROR テロ」感想 〜しかし、それが問題なのです 〜

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公式サイト
TERROR テロ| PARCO STAGE

2018年2月17日 14時公演
兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール

作 フェルディナント・フォン・シーラッハ
翻訳 酒寄進一
演出 森新太郎

出演 橋爪功今井朋彦、松下洸平、前田亜季堀部圭亮原田大輔、神野三鈴

※この記事の中には物語の核心に触れるかもしれないネタバレが含まれています

あらすじ

164人が乗った旅客機がテロリストによってハイジャックされた。標的は7万人収容のサッカースタジアムでその日は満員だった。空軍パイロットである少佐は旅客機を撃墜し、乗客の生存者はゼロだった。少佐は逮捕され今日がその裁判である。罪名は「殺人罪」しかも「大量殺人」である。参審員は証言や弁論を見て少佐が有罪か無罪に決めることになり、その結果がそのまま判決結果となる。生命の重さとは何か。人間の尊厳とは何か。法治国家で生きるということは何か。

 

感想
今作品を鑑賞する全観客が参審員として投票することができる。赤い紙(上画像)を有罪か無罪の箱に入れ、それらは集計され、判決結果となる。有罪と無罪とでエンディングが異なるのがこの作品の最大の面白さだろう。作品の物語の行方に直接関わることができる舞台作品は数少ない。投票するときに少しだけ浮き足立ったような観客席を観ていると微笑ましくもなり同時に嫌悪感をも抱く。ドンドンと箱に放り込まれる有罪と無罪は舞台上というフィクションでありながら目の前の現実で行われている裁判の結果を左右するものになる。

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観ていてこれほど苦しいと思ったのはいつぶりだろうか。この作品はトロッコ問題などで既に度々話題に登る「生命の重さはその人数に比例するのか」という究極の問題だけではない。それまでの過程、結果、そして今ある現実とこれから先の未来について考えさせられるものだ。我々は法治国家の下で生きているがそれがどんな意味であるかということを問われる。同時にパイロットの少佐のように決断を迫られる。彼は有罪か無罪かと。容赦なく彼が白か黒であるかの判断をしなくてはならない。その思いはどうであれ彼を有罪とすることは7万人の命を164人よりも重いものであるという意思表示であり、彼を無罪とすることは7万人のためなら164人を犠牲にしても仕方がないというものである。どちらかに判断を下すことによって私はこの手で、明確に人の生命のために別の生命を犠牲にした。生命の重さを測ることなんて不可能だ。1人1人の人生が別のものである以上それらは統合して計算できるものではないからである。だとしても今、目の前で飛んでいる飛行機を撃墜したら7万人を救えるとしたら。どうだろうか。

もしそのどちらかに自分の大切な人がいたら?

検事はスタジアムにいる7万人が15分あれば全員避難できたこと、旅客機にいた乗客がコックピットに乗り込もうとしていたこと、人間のモラルの脆弱性を指摘した上で、憲法の在り方と法治国家の原則について述べる。

弁護人は少佐が己のしたことを認めていることや小さな悪が大きな悪を倒すためにはやむを得ないこと、過去の前例でそういったことは度々行われてきたこと、人間の正義とは何か、検事の弁論を聞いた上で人間の尊厳とは何かと述べる。

どちらもある意味では正しい、どちらもある意味では正しくない

どちらにしても誰かを犠牲にしたという傷は我々に残ることになるのだ。

 

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もしどちらかに自分の大切な人がいたら?

コックピットに乗客が乗り込み、テロリストを抑え込むことができたら?

スタジアムへ避難勧告がされ、7万人が全員避難できていたとしたら?

自分がパイロットだったら?

弁護士だったら?検事だったら?

被害者の遺族だったら?

近い過去に同様の事件が現実で日本で起こっていたとしたら?

 

人間は完璧ではない。矛盾する生き物だ。だからこそ裁判制度がある。だからこそ考えを積み重ね、何が正しいものであるかどうかの基準を作ってきた。それが法だ。でも人間が完璧ではないように法律も完璧ではない。その基準さえも時には揺らぎ、覆され、変化していくものであることを知っておかなければならない。ケースバイケースの限界、感情を抜きにして判断することの困難さを学ばなくてはならない。

そうです。観ていてすごく辛いのです。

己のモラルの甘さとそれでも人を裁かなければならない苦しみを味わい、噛み締めながら鑑賞し、票を投じた上でまた明日からもこの法治国家のもとで生きなければならないからだ。私は良い作品を観た後は世の中が少しだけ違って見えるがこれはちょっと色んな意味で重くのしかかるものだった。突き詰めればどこまでも命題は広がっていく、軍を国が持つことについて、警備について、武装することについて、法律、憲法、人間とは何か。観ながら心臓をギリギリと締め上げられているような苦しさを覚えた。

 

キャストについて触れておく。見事だった。「天秤」という言葉が何度も使われる本作品において役者達のパワーバランスの取り方の難しさは他の作品とは大きく違うだろう。どちらか片方に寄ってしまうとたちまちそれはただの裁判ショーとなってしまうからだ。観客も偏ったどちらかを前提として鑑賞してしまうだろう。どちらかがどちらかを潰そうとするわけでもなく、少しだけ脚本に無理があるような気もしないでもないが(「もしコックピット内に乗客が乗り込んでいたとしたら?」を問い詰めていくと「もしスタジアムに10万人を殺すテロリストが潜伏していたとしたら?」も考えていかない気もするしそれを考えるのは不可能で現実的ではないからである)、バランスよく、それでいて力強く観客、もとい参審員に訴えかけるその芯のぶれなさがよかった。全員よかった。全部このクオリティで芝居が観たい。あと明日も観たいけど予定があるので悲しい。

 

では次に舞台芸術や演出について書いておく。

客電は完全に消灯されずにぼんやりとついたまま舞台は進んでいく。途中途中で微妙にその明暗を調節しているのが上手い。暗いときには気づけば証人の証言と頭の中で展開される物語に引き込まれてしまうし、明るくなるとハッと我に帰り、現実と向き合う姿勢を取り戻すことができる。舞台美術はシンプルに半円形の構造で椅子と机があるだけなので「ここがどこか」を曖昧にしておくにはいいなと思った。そうすることで観客が各々の想像で補い、ぞれぞれの心の中で法廷が開かれる。背面にあるスクリーンで評決や休廷などの表示、判定結果が数字で出るのも見ていて楽しいのでこれはこれでアリだと思うがもっと小さな劇場だと浮くかもしれない。パルコと阪急中ホールの両方で観た人の意見が聞きたい。音響も実際の音かどうかわからないほどのノイズを入れているのが実に上手いが気が散るのでムムムと思いつつ「でも沈黙の中でクーラーの空調音がやけに大きく聞こえるときとかって確かにあるよなあ」とも思った。好き嫌いが別れるかもしれない。

何度も書くが、私は人の生命の重さを人数で測ることはできないと思っている。それと同時に目の前で見知らぬ生命が奪われようとしたときに傍観者でいることも難しいとも思っている。そしてそれはそのときにならないと判断ができず、どちらを選んだとしても一生後悔することになるだろうとも思っている。相反する感情が常に同居している中で倫理観はいつだって不安定でボロボロのままだ。自己中心的で偽善者、傲慢で不寛容だ。それでいて無自覚に自分がいいと思う方向に正しさを求めてしまっている。

 

声を小さくして書くが、私はきっとこの舞台を観るのに向いていないのだと思う。感情を抑えて客観的に、冷静に観ることができなかったからだ。途中で何度も泣いたし検事が人のモラルについて語っている場面ではあまりにも自分の心の弱さに堪え兼ねて「もうやめてくれ」と思うほどだった。どちらを選択しても残るだろう傷と後悔を考えると胸が引き裂かれそうになる。もうちょっと「さて、どっちに投票してやろうかな!」くらいの姿勢で見れたらよかったのかもしれない。ううう辛い。

 

兵庫県立芸術文化センターでは本日と明日の2回公演、本日は無罪判定だったが明日はどうなるのかが楽しみである。

 

人の心を同じ人の心が裁くのはなんて難しいんだろう。2020年の東京オリンピックを目前にした今、世界中で行われている「テロ」という言葉がもたらす脅威とは一体なんだろうか。面白かったです。

キラキラ女子にはなれないけれど

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25歳になった。誕生日の前の日に親友と過ごして「25歳とはなんぞや」という議題から飛躍して最終的にはピタゴラスイッチの音真似をしてゲラゲラ笑っていたので今年も来年もそんな風にして過ごせていけたらと思う。それにしても「25歳」ってすごいリアルだ。これは別にいわゆる私もとうとう「アラサー」入りしたというものではなく、自分の母親が私を身ごもった年齢であるということが大きいのだと思う。そういえば「アラサー」も「負け犬」も「草食男子」も「悟り世代」も言葉が生まれるまで世の中には存在していなかったのは実に興味深い。概念から言葉が生まれるのではなく言葉から概念や生まれて一般認知されて使われいく様子は名付けによる効力の大きさを感じる。「草食男子」という言葉が生まれる前にいたのは「恋愛に対してあまり興味がない男性」や「自分から女性にアプローチしない男性」くらいなものだったのに今では「草食だから」と一括りにされてしまうこの簡便さ。ぼんやりとしたイメージを持ってレッテル貼りとグループ分けをして言葉が使い捨てられていく時代の速さには少し恐ろしいものがある。

随分と話がそれたので元に戻す。同級生たちと集まると出てくるのは大体仕事の話が多いのだけど、既に役職が与えられていたり新人の教育係になったいたりして集まるたびに私は感心してしまう。幸か不幸か、私は職場では1番下っ端でこれからも少なくとも数年間はそうなんだろうという立ち位置なので上下関係や後輩指導についての苦労を聞くと「すごいね。大変そう。」となるだけでまるで実感がない。だけどそれとは別に「もうそんな歳か。」としみじみしてしまう。結婚や住宅ローン、介護の話だって現実の問題として話題にバンバンあがるようになってきた。突然訪れるモラトリアムの終結。驚きである。私は高校生の頃、漠然と大学3年生になれば自分の人生をコントロールできるような大人になっているはずだと思って生きてきた。ところがいざ大学3年生になってみるとそんなことは全然なくて23歳になればなれるかなと思っていた。そして悲しいことに23歳のときには今まで生きてきて1番苦しい時期を経験したのでこのイメージはそろそろ捨てないといけないとは思っているけれど25歳になった今、27歳になれば大人になれるんじゃないかなとも思っている。多分、本当に大人になれるとは思っていなくて自分の人生を2〜3年周期で契約し直しているだけなんだろう。あともう少し生きてみようと。

 

24歳だった1年間は内面的にも外面的にも激動のものだった。まず日常の大部分を占める仕事を変えたので生活リズムが一変したし夢だった職業なので毎日それなりに楽しく仕事ができていることは幸福だ。今の職場では誰も私のことを「生意気」とか「可愛げがない」とか言わないし適切に指導してくれるので本当にありがたい。内面的には自分の中にある偏見やプライドを芯から打ち壊して再構築するようなものであれだけ嫌悪していた「女性らしさ」や「ピンク」と和解することができた。(私がピンクと和解した日 - A Song for you)長年、リア充しか行っちゃいけないと思い込んでいたディズニーランドに行って心から楽しむことができた。(魔法のことばはビビディバビディブー - A Song for you)会う人会う人に変わったねと言われるようになった。丸くなったね。肩の荷が下りた感じ。そうですか? 自分ではそう思ってるかもしれないけれど私は今のあなたの方が好きだよ。そっか。ありがとうございます。

何度も何度もブログでもツイッターでも書いているが私は自己評価が著しく低く、自己嫌悪に陥りやすい性格である。そうした方が楽だったからだ。自分のハードルを下げて期待値も下げていた方が何かあったときに落胆することも少ないからそうして生きてきた。だが23のときにその生き方にガタがきてあれよあれよと言う間に身体も心もボロボロになって「自殺しよう」とドラッグストアに行って睡眠薬を大量に買い込んで手首を切る計画まで立てたりしてそのままパニックになって退職した。前職で関わった人たちには今でも申し訳ないなぁという気持ちがあるけれどお互い忘れた方がいいのかもしれない。あれ、23のときの話になってる。

さて、24のときに失った何かを取り戻すかのように色んなことに手を出した。「似合わない」とか「らしくない」とか周りの人や内なる自分に言われてももうどうでもよかった。したいことはとりあえずやってみて合わなかったらやめる。くらいの姿勢の方がずっとずっと楽しい。私の生き方は私で決める。自由に伴う責任を持つ。これでいいじゃないか。周りの人がどう言おうと賃金が発生したり上がるわけでもないし私の未来について責任を持ってくれるわけでもないのだから。まだ完全にではないけれどそう思えるようになったのが24歳のときの話。

 

話題を変える。冒頭でレッテルやグループ分けの話をしたが、個人的に「キラキラ女子」について触れておかないといけない気がするので書く。私はオタクである。それも筋金入りのオタクなので最早ジャンルがどうこうとかではなく考え方や思考がオタクだ。何を好きになってもオタクになる。確か目覚めたのが思春期真っ只中の頃だったので自己表現とストレス発散の場をオタクライフに向けた。好きなことだけをしてキャーキャーする生活のなんと楽しいことか。まだ今よりもそこまでアニメや漫画の文化が市民権を得ているような時代ではなかったけれど、しょこたん腐女子彼女、電車男などのオタク達のコンテンツが徐々に登場していた時代でもあったのでそこまで「オタクきもい」のような扱いを受けたことはなかったが自意識過剰だったので「オタクな私は他の人とは違うんだ」とものの見事に色んなものをこじらせたまま成長した。「リア充爆発しろ」というネットスラングが大流行していたのもあると思う。「オタクはリア充ではない。」という見解が共通認識としてあったような気がする。実際のところはよく知らない。

 

今になってわかったことだが「私はキラキラ女子にはなれない」ということである。先程オタクについての話を書いたので誤解されないようにしたいのだが「オタク≠キラキラ」では決してない。オタクでもキラキラ女子は沢山いる。昔の私に言うときっとビックリするだろうが本当にいっぱいいる。じゃあなんで「私はキラキラ女子になれない」のかと言うとそういう人間だからである。まずキラキラ女子とはという定義が色んな人にあると思うがそんなに食い違っていない気がするのでその辺のことはわざと曖昧にして話を進めることにしよう。キラキラ女子ではない私は彼女たちと同じことをしても根本的なものが違うのである。行動原理や思考が違うので得られるものもおそらく異なっているものだろう。私はどちらかというと人付き合いが苦手で1人行動が大好きなのでその分「誰かと過ごす時間」をないがしろにしてきたのかもしれないなという不安がある。1人で行った東京もロンドンも筆舌しがたいほど多くのものを私に与えてくれたけれど「これでいいのかな」とふと我に返ったときに僅かながらゾッとしたりもする。

 

過去には戻れない。過去はやり直せない。高校生の時にもっと真面目で熱心な部活に入っていたら、大学生のときにサークルに入っていたら、もっと明るくて元気で素直でキラキラした人に私はなれていたのだろうか。戻れない過去をようやく受け止めるようにはなってきたけれどまだまだ自分がなれない人たちに対して羨望と嫉妬の念がある。

 

でもそれでいいじゃないか。私はキラキラ女子にはなれないけれど彼女たちのことは好きだ。共感できなくても理解してみようと思う。可愛いものを綺麗に身につけて楽しそうなことを一緒にしたりそれぞれで満喫しましょう。だってあなたたちは私の敵ではないのだから。キラキラ女子がこちらに手を振っていたら同じように手を振り返そう。だって私たちは友達になれるのだから。私とあなたたちは違う人間だけれど当たり前のことで好きなことが少しずつ違う1人1人の人間であるということは同じだから。悪意や憎しみで攻撃することは論外だけど、私たちを誰も何も否定することなんてできない。あなたは最高に素敵な人であることはまず間違いないし私だってもしかしたら同じくらい素敵なのかもしれない。それでいいんじゃないかな。たまに会ったりお別れしたりいっぱい笑ったり泣いたり怒ったりしましょう。私はキラキラ女子にはなれないけれど私なりに不器用なやり方で自分を応援することにしました。

 

私へ。25歳の誕生日おめでとう

 

資生堂の「赤」を持ち歩く

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資生堂のルージュルージュ ピコ(ぽぴー)を買った。小さなクレヨンくらいの大きさでとても可愛らしい。私の小さな持ち歩きポーチにも難なく入るしポイントメイクのコスメを使い切ったことのない私としてはこれくらいの大きさがちょうどいいので気に入っている。あまりにも気に入っているので使いもしないのにフタを開けたり閉めたりして遊んでいることが多い。まるで子どもだ。

 

少し前から漠然と資生堂の「赤」に憧れがあった。おそらく2年ほど前に大々的に発売されたリップのルージュルージュのイメージがあるのだと思う。(「SHISEIDO」から、「赤」を極めた口紅「ルージュ ルージュ」 2016年7月1日(金)発売 ~ 資生堂のテクノロジーが生み出す「16色の赤」で、一人ひとりの魅力を引き出す新口紅~|株式会社資生堂のプレスリリース )あとブランドのアイデンティティカラーであることも関係しているのかもしれない。資生堂(SHISEIDO GINZA TOKYO) が掲げたテーマの「Beauty vs. the World」 もその真意はよくわからないけれどすごくかっこいい。化粧品ブランドとして全世界に堂々と胸を張って「美」を主張している潔さと覚悟を感じる。

なのでデパートで資生堂の真っ赤なショップバッグを持った人が歩いているのを見ると「いいなぁ」と羨望の目で見つめていた。いいなぁ。私も欲しいなぁ。それにしてはまだ私自身の中身が伴ってないから次回にしよう。そうしよう。長い間ずっとそんな風に思っていた。資生堂は私にとって「大人の女性」の象徴で、自分自身をコントロールすることができるような人が持つものだと思い込んでいた。ちなみにディオールに対しては「カッコいい女性」というイメージが未だにあるしシャネルは「自立した女性」である。 

そんな中、ルージュルージュ ピコというミニサイズのリップが発売されると聞いて「おぉ、それなら」と発売日にコスメカウンターへ足を運んだ。(ブランドSHISEIDO ピコシリーズ|オンラインショップ|ワタシプラス/資生堂)ルージュルージュの人気色と限定色2色の8色展開、そして通常サイズの半分でお値段も1944円(税込)というお手軽さ。当たり前だが美容部員のお姉さんがしっかりと機械で肌色判定した上でタッチアップしてくれたので納得のいくリップが選べると思う。馴染み色(普段使い向け)と際立ち色(リップが主役になるメイク向け)の2パターンオススメ判定してくれるのもありがたい。白状する。両方買った(ぽぴーと珊瑚礁)。あれ、通常サイズのものを1本買えたのでは…。

 

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そんなわけで私もとうとう資生堂の赤リップデビューを果たしたのである。

 

デパートコスメを普段からガンガン購入している人にとっては鼻で笑われるかもしれないが、個人的にまだ少しだけ敷居が高い。だがそれでいい。敷居は自分で越えることで快感を得られる。そんな私にとってルージュルージュ ピコはお守りのようなもので塗ってなくても「私だって持てるんだ」とポーチの中で見つけるたびに少しだけ自信になる。塗ってみるとその発色のよさとツヤにうっとりしてその日は無敵になれる。資生堂の「赤」は私を強くしてくれる。

 

今度は通常サイズのものを買ってみようと思う。そのときは今よりも資生堂に似合う自分になれていたら嬉しい。

  

ブログを続けているということ

このブログを始めて約4年になる。中学生の頃に宝塚歌劇団にハマっていてその時にもアメブロをやってみたり高校生の頃にデコログをやって日常を綴っていたりしていたのだが、今現在続いているブログとしてはこれが最長になる。当初、始めた理由はツイッターの情報量に疲れてもう少し閉じた空間でゆっくりと自分の考えをまとめたいというものであったけれど今では両方ともガンガン活用しているので自意識の内外のバランスが取れてとてもよい。

 

せっかくライブドアブログから移行したところなのでブログに関するブログ記事を書いてみようと思う。4年間にわたり続けてきたけれど1円も儲けてないし記事の閲覧数だって三ケタいくのがやっと、訪問者数に至っては基本的に一ケタである。いわゆる過疎ブログだ。それでも続けていると思ってもいなかったところで反応がもらえたりしてそれがすごく面白い。私はブログ記事を書き上げたら投稿したあとにツイッターにも流すのだが(そしてそれの反応も基本的に少ないものである)、ごくごく稀に、それも舞台感想を書いたときに限るが出演している女優やスタッフに紹介してもらえたりすることがある。恐れ多くて正直「ヒイイイイイィ!」となるがそれでも私の声が届いて嬉しいという気持ちは確かにあって次回もまた書くぞと前向きになれる。「貴方の作品をこう受け取りました」という声を「確か聞きましたよ」と言ってもらえるのはやはり嬉しい。これは決して「私は認知されているのよ!」という自慢ではなく、あちらもこちらと同じようにオンラインに存在していてインターネットを介して舞台の感想を検索したり読んだりしてるんだなぁという人間性に魅力を感じるというものである。舞台の制作側の人たちは観客である私からすると別世界の人でファンタジーの中に住む魔法使いの集団と思いがちだが実際はそんなことなく、あちらも私と同じように生身の人間であるということにちょっぴり嬉しくなったりもする。なので舞台の感想をまとめる際にブログを利用していると稀に面白い体験ができるのでオススメしておく。あと文章でまとめるようになると自分の鑑賞ポイントがどこにあるのかがわかりやすくなったのでその点でもオススメである。

 

話題を少し変える。1年ほど前にツイッターを介して知り合った方に「ブログ楽しみにしてます」と直接声をかけてもらったことがある。その人は私とは全く違うジャンルが好きで毎日のようにリプライを飛ばしあったりする仲ではなかったし記事を更新していてコメントなどの反応をもらったこともなかったので大変驚いたのとものすごく嬉しかったことをよく覚えている。上手く言えないけれど海に流したボトルメッセージを海岸で待ってくれている人がいたんだとハッキリと認識できた。そんな感じである。コメントやイイねで反応をもらえるのはものすごく嬉しいけれどそうでなくとも心待ちにしてくれている人がいるんだなぁという事実が私はとても嬉しい。

 

私は私のためにブログを書いている。数年後の自分へのタイムカプセルを小分けにして埋めている。今日の私はこんな感じでしたと書き送る。けれど私の書いた文章がどこかにいる誰かの言葉や感情になればいいとも思っている。もし私の記事の更新を楽しみにしてくれている人が1人でもいるのなら私は自分とその人のために書きたい。

 

 

 

NTlive「エンジェルス・イン・アメリカ 第一部 至福千年紀が近づく」感想 〜 未来が翼を広げてやってくる 〜

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神様、助けて。僕には無理だ。」

 

公式サイト

 https://www.ntlive.jp

 

 作:トニー・クシュナー
演出:マリアン・エリオット
出演:アンドリュー・ガーフィールド

ネイサン・レイン

デニース・ゴフ

スーザン・ブラウン

 

あらすじ

エイズクライシス真っ只中の1980年代ニューヨーク。ゲイカップルのルイスとプライアー、弁護士であることに固執するロイ・コーン、セックスレスの夫婦であるジョーとハーパー。彼らを取り巻く人間関係や当時のアメリカの社会背景、失望、葛藤、偏見を描く。

 

感想

 正直なところ、この戯曲の中で描かれているものある程度理解できたかと聞かれてもおそらく半分もできていないだろう。扱われているモチーフの解説がほしい。ミュージカルや芝居を観るようになってある程度アメリカ合衆国について勉強したつもりだけれどそれでもやっぱりわからない。この戯曲が私にはさっぱりわからない。

 でも面白かった。とてもよかった。妄想と空想がひしめく世界で人間の感情が共鳴して交錯するのが個人的に好きだった。

 

彼らにとっての未来は希望や夢の満ち溢れた輝かしいものではなく容赦なく迫り来るタイムリミットのようなものでそれはすなわちいつか来る死であろう。「何故あなたが?」という悲痛な言葉が胸に刺さる。

 

己にとってより良くあろうと生きてきたはずの人達がまるで球体のパズルを完成させるピースのように思える。そしてその最後の一欠片が埋まらないまま手の中で消えていってしまう病魔の無情さ。自由の国アメリカ社会の個人主義アイデンティティと己の葛藤、セックス、妄想。信仰によって人は救済されるのか。彼らにとっての「未来」で生きる我々は何かに救われているのだろうか。天使は神からどんな指示を受けて目の前に君臨したのか。

 

二部も楽しみです。3月まで待てない…

舞台「黒蜥蜴」感想 〜 美しい悪夢が闇に漂う 〜

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公式サイト 『黒蜥蜴』特設ページ 梅田芸術劇場

 

梅田芸術劇場メインホール

2018年2月3日 12時公演

 

演出 デヴィッド・ルヴォー

原作 江戸川乱歩

脚本 三島由紀夫

音楽 江草啓太
音響 長野朋美
衣装 前田文子

あらすじ

有名なので省略

 

感想

黒蜥蜴といえば以前に宝塚歌劇団によるもの(『明智小五郎の事件簿―黒蜥蜴(トカゲ)』『TUXEDO JAZZ(タキシード ジャズ)』 | 花組公演 | 宝塚大劇場 | 宝塚歌劇 | 公式HP )を見たのと、美輪明宏の代表作であるということくらいしか知らなかったのでどちらかといえば三島由紀夫よりも江戸川乱歩の方に知識が偏っている状態で鑑賞した。

 

美術や衣装はモノトーンを基調としていて全体的に退廃的な雰囲気を全体にまとっているのでなんとなく昔のモノクロ映画を見ているような印象を受ける。退廃的なその世界は花弁が落ちる直前のドライフラワーのような美しさだった。特に黒蜥蜴のまとう衣装がどれも本当に素敵でそれを着こなしている中谷美紀さんの佇まいの美しさときたら。その中で唯一カラフルになるのが屋敷の台所(召使いたちの雑談の場になっている)だが、その中でメインキャラクターは登場しない。彼らはある意味ではファンタジーの住人でモノクロの世界の中でそれぞれの美学を追求する芸術家でしかない。黒蜥蜴は死んでいるものを愛する(唯一の例外は明智小五郎であるが)芸術家で明智小五郎は犯罪を愛し、早苗は夢物語を愛し、雨宮は嫉妬や束縛を愛する芸術家である。己の美学を追うあまりそれぞれの倫理観がどこか俗世間の望むものから欠落しているようだ。

 

今作品では明智小五郎はヒーローではなくダークヒーローでもなく平和や退屈を嫌う、犯罪を愛している私設探偵でしかない。いわゆる犯罪を解き明かしていく痛快サスペンスとは全くの別物で見ようによってはあまりにも不親切といってもいいほど説明がなく、探偵と犯罪者という格好の登場人物がいるのに推理劇の要素を切り取り、あくまでも黒蜥蜴と明智小五郎ラブロマンスとして仕立て上げている。現実とはあまりにもかけ離れたキャラクターや設定、ストーリーをそれでも受け入れられるのはその世界観をファンタジーとして完全に作り上げているからであり、日本が舞台の作品だからといってリアリティを出すために凝るのではなく幻想的で耽美な世界観に重点を振り切っていたのがよかったと思う。舞台中心に位置する盆の使い方もわかりやすく黒蜥蜴と明智小五郎の2人のシーンだけ反時計回りに回転することからこの2人が時間すらも超越した存在であることがわかる。現実も観客も何もかもを置いていく2人だけの世界であると。また棒を使って船を表現しているのが面白く、曇りガラスを使って見えそうで見えないキャラクターを想像させる演出もエロティシズムを感じですごくよかった。ただ主演の2人である中谷美紀さんと井上芳雄さんのアクの強さがもう少しあればもっとよかったと感じたのかもしれない、とも思ったことも書いておく。ヒーローではない明智小五郎トリックスターとして舞台を振り回し観客も混乱させる役割を担っているのでもっと嫌味な奴で浮いててもいいのになと。井上芳雄さんの演技が悪いというわけではなく(むしろよかった)、彼自身が好青年さのある魅力の持ち主なのである。逆に成河さんが演じる雨宮のアクの強さが濃く、作品自体のクライマックスがラストの黒蜥蜴と明智小五郎のシーンではなく雨宮と早苗(仮)のシーンになっていた。舞台空間の大きさとキャラクターのパワーバランスの調整の仕方をどうこの戯曲を使って取っていくのかが難しそうだ。

 

全体の雰囲気や世界観は好みで解釈の仕方も好きだったけれど梅田芸術劇場メインホールと三島由紀夫戯曲の相性はあまりよくないのかもしれないと思った。

 

短いけど終わり。よい2018年観劇始めでした。