2018年の手帳と2017年の反省


だいたい世間的に毎年10月にはその次の年のスケジュール帳が発売される。気が早い私はいつも10月後半には新しいものを購入してせっせと使っていたものとスケジュール同期をさせるのだが今年は何と12月末に購入した。大した理由はなくダラダラと「まぁいつか買いに行くだろう」と先延ばしにした結果がこれである。来年の私はしっかりしといてほしい。

なんとなく今年はマンスリータイプにした。以前は1日1ページタイプのものを使ったりウィークリーのものを使ったりと特にこだわりはないが、大学生のときは試験勉強に使っていて前職のときはそれこそ仕事に手帳が不可欠だったので沢山書き込めるものを採用していた。だが転職してスケジュール帳の必要性をそこまで感じなくなったのでそれならもう軽い方がいいかなとマンスリーにすることに。スケジュール帳を選んで買う時間は人生の中でも結構楽しい時間な気がする。あれこれと未来の自分に過大期待をして選ぶのは楽しい。来年の自分はなんでもできるスーパーマンできっと何でもサクッとこなしてしまうしそれをさりげなくスケジュール帳に記すような人だ。それならもっと派手な方がいいかな。いやいや、人前に出す可能性がゼロとは言えないのだから地味にした方がいいのでは。等々。そうして購入したスケジュール帳は活用されるかどうかは未定であるが、この楽しい時間と高揚した気分のためだけに買っていてもいいのではないか。少なくとも私はそう思う。

さて、買いたての新品ピカピカのスケジュール帳と向き合う。来年のことを考えるに至って今年の振り返りと反省としなければならない。昨年の年末は仕事を辞めて求職中だったので来年のことは来年考えればいいやくらいだったが、今の仕事に転職することができて続けるつもりなので今年の仕事やプライベートの反省点を来年に活かせれば嬉しい。

今年のよかったところ
・憧れだった仕事に転職した
・外見に気を使うようになった(当社比)
・自分から人を誘うようになった
・舞台を沢山見た
・同人誌を2冊作った
・V6とHey!Say!JUMPのコンサートに行った
・ディズニーランドに行った
・国内で色んなところに行った
・自分なんて…を言い訳に挑戦しなかったことに挑戦したりした
・毎日それなりに楽しい

今年のよくなかったところ
・本をあまり読まなかった
・映画をあまり映画館で見なかった
ツイッターをしすぎた
・手帳をあまり使わなかった
・舞台を観た本数とブログの感想文の本数がかけ離れている(観たのに書いてないものが多い)
・勉強しなかった
・自宅にあまりいなかった
・お金を使いすぎた


要は遊びすぎた。色んなところへ行って舞台を沢山観て色んなことを経験したのはとても楽しくて勉強になることもそれはもう沢山あったけれど、あまり自宅にいなかった分、家族との時間があまりとれなかったなぁと反省している。あと部屋がすごく荒れる。本も映画も例年比よりかは読んだり観たりしたけれど1冊の本を読みきって手帳にメモるとか新作映画を映画館で観るといったことを殆どしてこなかったのは個人的に痛い。通勤時間が長いのでそこを勉強でもなんでもいいから有効活用したい。

これらを踏まえて来年の目標を立ててみることにする。達成できてもできなくても目標というものはスケジュール帳を買うのと同じで立てるのが楽しいので「絶対達成する!!」ではなくて「おっけー2018年それなりにがんばろー」くらいのノリで。

・映画を映画館で見る(1〜4本/月)
・本を読む(1〜10冊/月)
・舞台を観たら短文でもいいのでブログに書く
・手帳やノートを活用する
・無理に外出しない
・整理整頓を心がける。または工夫する
・仕事のスキルアップ
・お弁当を持参する
・ハンドクリームをこまめに塗る

「記録」の年にしたい。オンラインでは息をするように何でもツイッターに書き込んでいたけれどオフラインというかアナログな記録はあまりつけていなかったのでそこを補完したい。3年日記とかやってみたいなぁ。インプットとアウトプットのバランスをとって自分書く文章に反映できたらいいなと思う。文章を書くことは好きだけれど、いかんせん語彙力や知識が乏しいのでもう少しアップグレードしたい。お弁当を持参したいのはコンビニを利用することが多いから。ハンドクリームをこまめに塗るのは手肌が荒れ性だから。悲しい。

2017年残り少ないですが楽しく暮らしましょう。私はとりあえず大掃除を頑張ります。

ミュージカル「ダディ・ロング・レッグズ 足ながおじさんより」感想 〜ねぇ、ダディ。いつだって愛してる 〜 ※追記あり


公式サイト

阪急中ホール

2017年12月1日(金)18時公演

音楽・編曲・作詞: ポール・ゴードン
編曲: ブラッド・ハーク
翻訳・訳詞: 今井麻緒子
脚本・演出: ジョン・ケアード

出演者
坂本真綾(ジルーシャ・アボット)
井上芳雄(ジャーヴィス・ペンドルトン)

あらすじ
有名なので省略。
(念のため書いておくとこの記事には物語の核心に触れるネタバレがあります。)

前公演の評判もよく、色んな方々にオススメされていたのでなんとなく「チケット余っていたら観ようかな」程度で劇場サイトにアクセスしたのだが土日はほぼ完売していたので何だか悔しくなって金曜日のチケットを取って観劇した。2人芝居のミュージカルということ(私はミュージカルにおいていわゆるアンサンブルナンバーが好き)やいわゆるレミゼエリザベートのような大劇場でかかる超大作ではないことから正直なところそこまで興味がないまま予習もしなかった。よって観劇前における私の中の「足ながおじさん」の知識は昔に読んだ絵本のあらすじである「孤児にお金をくれる影によって足の長く見えるおじさん」程度のものしかない。「楽しみだけど…楽しめるのだろうか…。」と若干の不安を抱きながら客席についた。

想像以上によかった。

数字でいうと想像の10000倍はよかった。と書くとやや大げさになるけれどそれくらいよかった。主人公である孤児院出身のみなしごのヒロイン(ジルーシャ)から「ダディ・ロング・レッグズ(足ながおじさん)」に送られる膨大な枚数の手紙の文字1文字1文字。そこから彼女の愛おしい人生が観客の想像力を通して舞台空間の中にいきいきと浮き上がってくるのだ。上手い例えが見つからないが「読まれる文字によって情景やキャラクターが生まれていく」という点では「見るオーディオブック」というべきか「目でも耳でも楽しめる朗読劇」というべきか迷うところである。

舞台上の美術でリアルなのはヒーロー(ジャーヴィス)の部屋の一角と家の壁くらいだ。あとは沢山あるスーツケースや収納箱を2人に移動されたり積み上げたりしてそれがベッドになったり山になったりするので想像力をより働かせるようなものになっている。農場シーンやニューヨークへ旅行するシーンでは照明や映像投影で家の窓の外(舞台の奥)にその景色が見えるので舞台上ではなんとなくぼんやりと「農場らしき景色」や「都会っぽいビル群」が見えるのだが前述の通り、それが彼女や彼の語りを通して観ている人の頭の中でリアリティを生むのだ。美術を写実的にするよりも抽象的な方がかえって現実味を帯びてくる。演劇の魔法だなぁと思う。

この舞台は原作通り書簡形式にならっていてジルーシャが書く手紙を通して我々はジルーシャの人生を知る。大学入学から卒業まで「ジョン・スミス」(英語圏において最もありふれた名前とされていることから偽名であることを示す)から学費援助を受ける代わりに月に1度手紙を送ることという約束から生まれた手紙だ。その約束には更にルールがあって「質問しないこと」「スミス氏から返事はこない」「感謝の言葉を書いてはならないこと」などがあり、手紙は常にジルーシャからジョン・スミスへの一方的なものだ。ジルーシャは以前に偶然見かけた彼の後ろ姿とその影を思い出し「ダディ・ロング・レッグズ」(足ながおじさん)と愛称をつけ、大学で学びながら手紙を書く生活を送る。


ネタバレします。ダディ・ロング・レッグズの影の正体はジャーヴィス・ペンドルトンである。


『ダディ、あなたの似顔絵を描いていたんだけど頭のところで止まってしまいました。あなたの頭は白髪?それとも白髪が混じってるのか、そもそも髪自体がないのか、それだけでも教えてください!』

ジルーシャはダディ・ロング・レッグズが誰なのか、どんな人なのか、どんな声なのか、姿なのかをクライマックスになるまで知ることがない。それでも彼女は書き続ける。豊かな情景描写と感情表現、それと皮肉に富んだジョークも。

ある日、彼女は風邪に倒れてベッドから離れられなくなるのだが、彼女がその旨を書いた手紙を送るとダディ・ロング・レッグズ(実際は心配のあまり自分から約束を破ったジャーヴィス)からピンクのバラの花束が送られてくる。それをベッドの上で発見したあのジルーシャの目をまん丸にして驚いたあとにする心底嬉しそうな表情ときたら!こちらまで涙ぐむほど嬉しくなってしまう。弱っていて悲しくて寂しい時に彼女が1番望んでいたのはきっと人の温もりでそれは他の誰からでもない「ダディ・ロング・レッグズ」からのものだ。心で何度も「ダディ」と呼びかけながら書いた手紙の相手から、心配という愛情のこもったプレゼント。どんなに、どんなに嬉しかっただろう。それがどれだけ彼女の支えになるか。

今作品の中でジルーシャの世界は外へと開かれていく。それは勉強によって得た知識で広がる世界でもあるし彼女自身が農場やニューヨークへと足を運んだことによって広がる世界でもある。人との出会いで、彼女自身の書く文章で広がる世界でもあるのだ。人生の中で経験や想像力が作品(手紙の文章)になり新たな世界を創り上げていくことの素晴らしさを改めて感じさせてくれる。

話は少し逸れるが、私は舞台鑑賞を「舞台と私(または観客という匿名集団)のイマジネーションの間で作られる共同制作物」と捉えていてリアルタイムで進行する何が起こるかわからない物語を見守りながら自分の中にある知識や経験や感情を全て動員して自分が何を思い、何を感じたのかまでの過程が舞台鑑賞なのだと。読書や絵画や映画など、きっとどんな作品鑑賞でもそうかもしれないが何かを見て何かを感じることは例えそのもの自体を経験していなかったとしてもそこに自分自身を見つけることでそれが自分のアイデンティティの輪郭を捕まえる手がかりになる。何故こんなことを書いたかというと今作品は他のものよりもジルーシャ目線で感情移入しやすいと思ったからだ。キャラクター自身が魅力的なのもさることながら手紙に書かれていく文章がキャラクターとなって動くので前述したが必然的に脳内で音読されているため、想像が容易になっている。彼女がプレゼントをもらって喜んでいるとき、私もとても嬉しい気持ちになる。その感情は確かに昔、似たようなシチュエーションではないにしろ経験したことのある感情だ。ジルーシャに共感し、彼女の目線で物語を見る観客はどこかでジルーシャと共通するものを持っているのかもしれない。みなしごである彼女がサリー(ジルーシャの友人)の家族と対面した時に「サリーのお父さんで、サリーのお母さん!」と感動するシーンがあるがそれは「家族」というものに触れた喜びと知識として知っていたことが現実として世界に存在していることを実感した喜びの両方だろう。私はこのシーンを見て何故かロンドンに初めて行ったときのことを思い出した。右も左も分からないままピカデリーサーカスに到着して駅から地上に出たときに「テレビや雑誌、ネット上などでしか知らなかった世界が存在していて私はその地にこうして立っている」と心が震えるほど感動したのだ。もしかするとジルーシャの「世界旅行」を通じて私は自分の様々な思い出を追体験していたのかもしれない。

ジルーシャの話ばかり書いたのでジャーヴィスのことも書こうと思う。社会主義の話やチャリティーについての話が出てくるが「足ながおじさん」の話をものすごく美化するのではなく資本主義社会の中で社会主義を掲げることやチャリティー行為をすることの意味を込めて入れていたように感じた。彼の行為は持っている者から持たない者への資金再分配である。正直なところジルーシャに対する執着や保護愛(親心のようなもの)から彼女を恋愛対象として愛するようになり束縛したりダディ・ロング・レッグズとして命令するシーンがあるが「なにこれ光源氏計画じゃん…」とやや幻滅したりもした。ジルーシャはダディ・ロング・レッグズへ敬愛の念から彼の言う通りにするシーンがあるが(最後あたりには彼女はダディ・ロング・レッグズからの命令もジャーヴィスからの命令も拒絶し自分の行きたいところで休暇を過ごす)、ある意味では従属的とも捉えられるものであり、それを利用したジャーヴィスをあまり快く思えなかったのだが「チャリティー」の歌によってジルーシャを恋愛対象として愛することへの葛藤や罪悪感、チャリティー(施し)の持つ限界を表現していたのがよかった。でも卒業式はダディっぽい誰か(ニセモノ)を用意してでもジルーシャに「表彰されることをダディに見せる」ことをさせてあげればよかったのになぁといまだに思う。でもジルーシャが幸せそうならもうそれでいいです。と思えるほどジルーシャの魅力が勝ってしまうので少し悔しい。

さて、ダディ・ロング・レッグズの正体はジャーヴィス・ペンドルトンであるが、私はジルーシャが大学生活の中で思い描いていたダディはおそらく全くの別の人物ではないかと思っている。では彼は誰か?どこにいるのか?誰もわからない。彼はどこにもいない。いるとするならそれはジルーシャの書く手紙の中、すなわち彼女の心の中にいる。おそらく彼女は「ねえ、ダディ」と手紙を書いていない時でもダディ・ロング・レッグズのことを思い、彼のことを思っているからこそ書けなかった手紙もあるだろうし、もしかしたら面白くするために少し事実を誇張して書いていたこともあるかもしれない。彼女の想像力がダディ・ロング・レッグズを生み出し、彼女の一部となり寄り添いながら人生を共に歩んできた。これからも思い出として形を変えながらジルーシャと生きていくのだろう。

あぁ、なんて素晴らしいんだろう。物語はその真偽を問わず必要とする人々の中で生き続けるのだ。

ここまで褒めているので特にキャストについて書くことはないのだが、ジルーシャ役の坂本真綾さんの声の表情の豊かさは筆舌にしがたいほど素晴らしかった。「ねえ、ダディ」の一言で「いつもありがとう」「話したいことがあるの」「困っています」「愛してます」などを伝えるあの説得力。クルクルと変わる顔の表情や屈託のない笑顔も素敵だった。歌唱力だけでいうと声量や声の伸びが足りなかったような気もするがそれでも彼女がジルーシャでよかったと心の底から思うし彼女のジルーシャが私は大好きだ。ジルーシャ可愛い!ジャーヴィス役の井上芳雄さんのラブコメディの演技を初めて観たのだが笑いの間の読み方やタイミングの取り方が実に上手く、少し腹も立つけれどそれでも憎めないジャーヴィー坊ちゃんには適役だったと思う。足も長い。足の長さ、大事。ソロナンバー「チャリティー」での声の広がり方はさすが。日本版オリジナルキャストでありながらベストキャストと名高いのも納得だ。

誰かに手紙を書きたくなる気持ちになる。そんな愛おしい感想を抱かせてくれるこの作品に出会えてよかったと思う。他にも小道具の話やジルーシャの言葉の中で特に気に入ったものの話など書きたいことは山ほどあるがこの辺にしておく。

初めて読む本にワクワクしたり恋心に戸惑ってしまったり、見知らぬ土地や知識、人への好奇心が抑えられなかったりするジルーシャの気持ちの揺れ動きを文字を通して我々は知る、そして己の持つ思い出から生まれる感情と一緒にゆっくりと味わいながら人生の美しさを感じるのだろう。 よかったです。DVD発売も決定しているので欲しいな。


追記:
本作の原作小説「あしながおじさん」をようやく読んだ。色んな訳が出ているようだが私が読んだのは谷川俊太郎によるもの。

読み終わった時に思わず「こんなことある?」と声に出していた。大好きなミュージカルの原作はユゴーの「レ・ミゼラブル」から始まり「マチルダは小さな大天才」まで読んだことがあるが、それぞれの共通点や相違点を見つけて「フムフム面白いなぁ。でも私はミュージカル(または原作)の方が好きだなぁ。どっちも好きだけど」程度だった。けれどこれは違った。大きく違ったのだ。小説を読むとミュージカルのジルーシャが弾けんばかりの生命力をもって私の頭の中を元気に走り回る。私が観た舞台上でのジルーシャが書いていたのはこれだ。この手紙(小説)だったんだ。と。小説とミュージカル、この2つが繋がってこの作品に対する愛おしさが倍増するような素敵な経験だった。ミュージカルにする際にゴッソリとカットされている部分があるはずなのにそんな風には微塵も感じなかった。そういえば、ユゴーは音楽について「音楽は人間が言葉で言えないことで、しかも黙ってはいられないことを表現する。」と言葉を残したがまさにそれではないかと思う。ミュージカルを彩る数々のナンバーや音楽によって切り取られた小説の部分が見事に補完されていた。

「さようなら、おじさま、あなたも私と同じくらいしあわせだといいな」

「ありがとう、おじさま、ほんとに、ほんとにありがとう。私が生まれてはじめてもらった、本物の、本当のプレゼントです。私がどんなにあまえんぼか白状します。わたし、ベッドに突っ伏してわんわん泣いてしまいました。あんまり幸せで。あなたは確かに私の手紙を読んでくださっている。」

あしながおじさん あなたはどこにいらっしゃるのかなぁ?」


あなたのことを本当に愛してるとそれ以外の言葉を巧みに使って文章にするジルーシャがあまりにも愛おしい。それに彼女が書く風景描写のなんと見事で美しくて輝いていることか。

読み終わったときにミュージカルを観たときと同じくらいの多幸感、いや、ミュージカルを観たときと小説を読んだことによって得られたものの2つだから2倍の多幸感を感じたが同時に激しく後悔した。

18歳の私にこの本を渡してあげたかった。このミュージカルを観てほしかった。心の中のジルーシャと共に大学生活を送ってほしかった。彼女をロールモデルにして生きてほしかった。当時の私に幸せの秘密や人生につまずいたときに笑い飛ばす強さを教えてくれていたら。そんなことを考えた。

ジルーシャに、彼女になるには私はもう大人になりすぎた。彼女と昔の私は友人になれるがきっと彼女にはなれない。ジルーシャ、私は18歳だった私にあなたのような感性や考え方を与えてほしかった。あの頃の私は世間知らずでそのくせ何でもわかったフリをしていて、泳げずに溺れているのに深いところへ深いところへと手足をジタバタさせるような女の子でした。ずっと苦しかった。ジルーシャがいてくれたら。そう思い、今も戻れない過去を考えると胸の奥がギュッとなって息苦しくなる。そんな苦しさを覚えるくらい素晴らしい小説だと思う。

降り積もった雪が朝日に照らされて輝くような、雨上がりに葉に溜まった水滴が光を浴びてその周辺をを明るくするような、眩しいくらい愛おしく、美しい小説、そして同じくらい素晴らしいミュージカルである。読んだことない人は今すぐ読もう。1時間もあれば読めます。


100年前の人と心から共感できる。友人になれる。これだから私は未知の作品に触れることをやめられない。


美容に手を出した結果(2017年総括)

とうとう2017年も残り1ヶ月を切ってしまった。ということは私が美容に手を出してからもうすぐ1年が経つということだ(参照:美容に手を出してみた結果 スキンケア編) 。この1年で何回もエステも行ったり眉毛サロンも行ったりパーソナルカラー診断を受けたりコスメを買いあさったりジムに行ってみたりして色々と時間もお金も投資したので後世の私のために総括を書き留めておくことにする。

意識の変化
・服を試着してから買う
・季節によってベースメイクを変える
・服に合わせてメイクを変える
・定期的に美容院に行く
・髪の毛にお金をかける
当たり前のことかもしれないけど今までやってこなかった、そして今やっているシリーズである。どうか石を投げないでください。マネキンと展示されている写真だけを見てパパッと買っていた服も絶対に試着してから買うようになった。マネキンと私は体型も顔も違うので見るのと着るのでは大違いというか家に帰って着てみて「あれ…?こんなはずでは」と思うことが多く、結果「なんかイマイチだな」になり、最後にはクローゼットのこやしになってしまうパターンが多かったのだ、が最近では試着して丈の長さや横から見たシルエットなども吟味してから買うようになってそれも減ってきた。季節によって温度も湿度も変わるので必然的に肌質も変化するのでベースメイクも工夫してみたり服に合わせてみたりだとかそういうことも楽しめるようになってきた。

美容院も以前は人から「いいかげん美容院行きなよ」と言われるまで行かなかったほどの私であるがなんとか定期的に通うように。顔の印象って髪型で6〜8割が決まるらしいということで毎日ヘアトリートメントしたり髪をドライヤーで乾かすときは冷風でキューティクルをしめてから終わらせるようにもなったので最近ではツヤツヤとした髪が比較的維持できているような気がする。

メイクもあれやこれやとするのが楽しくて色々やっていたら久しぶりに会う友人などに「なんかいつもと違う。もしや整形した?」とまで言われるようになった。整形はしていないが涙袋描いたりハイライトとシャドウ入れたメイクをしていると元々が薄くてのっぺり顔なので言われることが多い。

では次に買ってよかった(買ってからよく使ったりまたリピートする)コスメを書いていく。来年もこりずに買いあさっていると思うのでどう変化していくのかが楽しみである。以前書いた記事と重複する内容が多々ありますがご了承ください。

・アイライン、マスカラ系


上から順に
・ケイト ダブルラインフェイカー
・フローフシ モテライナー ブラウンブラック
・フローフシ モテマスカラ IMPACT 1
ケサランパサラン ラッシュリフター モクレン

ダブルラインフェイカーはかなり薄いブラウンのリキッドでいわゆる影の線を描くライナー。これで涙袋をガッツリ描いてから明るめのシャドウでボカすといい感じ。目を大きく見せたいときに使う。吉田朱里さんの動画を見るとわかりやすかった。



モテライナーとモテマスカラは色の展開や使いやすさとどこのドラッグストアでも大体取り扱いがあるのがありがたい。普段使っているのはブラウンブラック(ほどよい色味)とボリュームタイプ(まつげがバサバサになる。お湯でスルッと落ちる)の2つだけれど、チェリーピンクのライナーとかネイビーのマスカラとかも売っているので2本目の遊びアイテムとして買ってみるのもいいかも。ケサランパサランのカラーマスカラは限定色が出るたびに全部欲しくなるほど絶妙な色味でものすごく可愛い!ぱっと見ではわからないけれど光に当たったり至近距離で見るとしっかり色づいているのがわかるというバランスの良さが最高。カールキープ力もあるので面倒くさいときはこれ1本でビューラーもアイシャドウもつけずに済ませちゃう。春の新色が楽しみ。

もう使い切ったので写真には載ってないけれどロングタイプのマスカラはメイベリンのラッシュニスタがまつげを細〜く長〜くしてくれるのでアイシャドウを目立たせたいときに活躍していた。お湯で簡単に落ちるのもポイント高い。

メイベリン ラッシュニスタ ケアプラス 01 ブラック


・アイシャドウ


・左:ヴィセ シマーリッチアイズ BE-1
・右:キャンメイク パーフェクトスタイリストアイズ 14番 アンティークルビー

今年のプチプラで勢いと人気があったな〜と思ったのがヴィセ(KOSE)とキャンメイク。新作出るたびに完売してるイメージだった。ヴィセのこれはラメ(パール?と思ったらピュアゴールドだった)の粒子がかなり細かくて自然なツヤとグラデーションができるので普段メイクのスタメンにしている。どの色も使えるのも最高。ヴィセのシングルアイカラーも欲しいけれど買い始めたら止まらなくなりそうでなんとか控えている最中だ。キャンメイクはヴィセと比べてラメの粒子が大きいので目元をキラキラと華やかにしてくれる。仕事用にすると派手だと思ったので休日用にフル活用。目尻や涙袋までこのアイシャドウを使うとくりくりとデカ目になる。気がする。おススメ。


・アイブロウ系


・左 ヘビーローテション カラーリングアイブロウ
・右 ケイト デザイニングアイブロウ3D

以前はエクセルのペンシルタイプのものを使っていたがあまりにもケイトのこれの評価が高いので購入した。


眉尻をキリッと線のように仕上げるならインテグレートのリキッドタイプのアイブロウペンシルがよかったイメージ。

インテグレート ビューティーガイドアイブロー BR721 ライトブラウン リキッド 0.4mL パウダー 0.4g

話が逸れたので戻す。ケイトのこれは色をブラシで混ぜて使うことができるのと1番下の明るい色で鼻から眉の下にシャドウを入れると一気に彫りが深くなったように見えるから気に入った。付属のブラシふんわりまゆげもキリッとまゆげも描けるので好みの眉によるけれど迷ったらこれ買っといたら損はしない気がする。ヘビーローテションの眉マスカラは学生時代からずっと使ってるリピート商品。色が豊富なので髪色をコロコロ変えても合う色が見つかるのが嬉しい。

・リップ


上から
ジルスチュアート ルージュ マイドレス
・NARS オーディシャスリップスティック 9490レッドプラム
ケサランパサラン スムースリップス PK02
・オペラ リップティント コーラルピンク
・オペラ リップティント レッド
ニベア ナチュラルカラーリップ チェリーレッド

ジルスチュアートとNARSのリップは結構マットな仕上がりになるので指でポンポンとつけてからグロスを重ねると可愛くなるし直塗りしても縦じわがそこまで気にならないのがいい。ケサランパサランのティントタイプのリップはティントなのにちゃんとツヤ感が持続するし発色したときにとても可愛いので使うたびにときめく。オペラはどんな人にもオススメしたい超万能アイテム。スルスルっと塗れるのが好き。ニベアはリップ下地として使っている。おかげさまで乾燥しないし皮が剥けない。発色はそこまでしないけれど使い心地がいいのでまた買うと思う。

・ベースメイク系


左から
キャンメイク ポアラップジェル
・ファシオ UVコンシーラー
・エトヴォス ナイトミネラルファンデーション
ダイソー ハナタカパウダー

キャンメイクの部分用下地は小鼻や頰のあたりの毛穴が気になるところにサッと塗ってからファンデーションを重ねると綺麗にカバーされて毛穴がほとんど気にならなくなるので困っている人に騙されたと思って買ってほしい(そして何より安い)。最近はほとんど使ってないけれどファシオのコンシーラーはカバー力が高いのとコンシーラーの硬さがちょうどいいのでニキビ跡とかに使っていた。重ねてもそんなに割れたりしないので乾燥肌の人にオススメかも。エトヴォスのナイトミネラルファンデーションは下地だけどもっぱら仕込みハイライトとして使っている。顔全体に使うとパッと華やかになるし光り具合も自然でいやらしくないのがポイント高い。ダイソーのハナタカパウダーは108円とは思えないほど細かいハイライトパウダーで鼻筋に指で撫でるように使うと綺麗にのる。コスパがとてもよい(全然減らないので逆に困っている)

・美容液と下地


左から
ランコム ジェニフィックアドバンスト
・ポール&ジョー モイスチュアライジング ファンデーションプライマー

商品名がスタバかと思うくらい長いが要は美容液と乾燥肌向けの保湿下地。冬の寒さや乾燥にいつも負けて肌がガサガサになる私だがこれを使うようになってから毎日調子がよく、「化粧ノリのいい私」になれているので買ってよかったなぁと心の底から思う購入品である。これで冬を乗り越えるぞ。


・ブラシ系


1本ずつ書くのは流石に面倒なので省くがブラシを買うようになってからグーンとメイクが上手くなった(当社比)。アイメイクのグラデーションも作れるようになったしチークもふんわり自然に塗れるようになった。ダイソーの春姫シリーズを購入したが今のところ特に不満はないのでこれからも少しずつ集めていきたい。右端のKOJIのビューラーはやや高いが1発で目頭から目尻までのまつげが扇状に広がるしカーブも綺麗なのでもうやめられない…。


・番外編(買って失敗したもの)


MAC ミネラライズアイシャドウ
無印良品 UVコントロールカラー ブルー
・ケイト マイカラーペンシル

買ってよかったものもあれば悪かったものも勿論あるよというオマケ。MACのアイシャドウは発色と粉質は申し分ないのだけどグレーのアイメイクに合うクールなカッコいい系の服をあまり持っていなくて買ってみたもののあまり使わなくなってしまったので他のアイテムと組み合わせて使えるようになればいいなと試行錯誤中。無印良品のブルー下地はSNSで「透明感が出る」ともっぱらの評判ですぐに買いに行って使ってみたら透明感どころか白くなりすぎて病人みたいになってしまった…。ピンク系の下地に数滴混ぜてなんとか使っているけれど使いきれそうな気配が一向にない。ケイトのマイカラーペンシルもMACのアイシャドウと同じく派手すぎるのとペンシル系のアイラインを使うのが苦手なのであまり使わずに放置している。来年もいっぱい死蔵コスメを買うんだろうな…吟味して買いたいところ。

美意識に手を出してみて丸々1年間経ったけれどとても面白かった。毎シーズン販売される新作コスメに心を踊らされコスメカウンターでお姉さんのアドバイスをふむふむと受けながら自宅でやってみてなんじゃこりゃと思ったり、周りの人たちに「変わったね」と言われて嬉しくなったり。この1年で正直すっぴん手前みたいな手抜きメイクで過ごしていた時期もあれば毎日バッチリメイクなときもあった。褒められることはすごーく増えたけれど未だに自分の満足のいく仕上がりになったことはほとんどなくてそれが楽しい。顔は立体キャンバスなのでどうにでもなるしメイクが失敗しても1日で終わることなので興味のある人はドンドンやればいいしやりたくない人はやらなくても大丈夫。自分が自分を見て満足できればそれでいいのだと思う。でもいろんなしがらみがある中でそれって難しいよねというのが本音。

毎日少しでも気分があがるようなメイクができるのが来年の目標である。メイクはしてもしなくても楽しいけどしても楽しい。みんな楽しく生きていきましょう。この記事が誰かの参考になれば幸いです。

魔法のことばはビビディバビディブー

  

14年ぶりにディズニーランドへ行った。

ここには家族旅行で行ったきりでそのとき私はまだ小学生だった。当時の記憶はボンヤリとあるが「ジェットコースター楽しかったなぁ」程度のものでミッキーがどうこうとかはあまり覚えていない。実は高校生のときにクラスメイトと行こうと計画を立てて旅行代理店にお金も払ってあとは行くだけというタイミングのときに東日本大地震が起こり、そのツアーごと全部なくなってしまうという出来事があったのでそれからなんとなくではあるが「もう私の人生においてディズニーランドに行くことはないのだろう」と思っていたのである。そのまま社会人になり何度となく関東へ行くことがあってもディズニーリゾートに行くことは決してなく、大人になるにつれて自意識を見事にこじらせることに成功した私は「ディズニーリゾートへ行く人達→リア充→仲良くなれない人達」と勝手に決めつけて時折フェイスブックツイッターで「ディズニーなう」という同級生たちの投稿を眺めているだけだった。 似たようなことを前にも書いた気がする。

それから何年か経って、大きく歪んでしまった自意識も許容したり笑い飛ばしたりして何とかコンプレックスを含めた自分を好きになってもいいんじゃないかなと思い始めた頃に新しく友人ができた。ツイッターを通じてできた友人で共通の趣味のある女の子。そして偶然にも同年代であることや彼女の友人もまた私の共通の趣味を持っていることからいつの間にかその子を含めた3人でご飯を食べにいくようになった。今考えても不思議だなぁと思う。

仲良くなってしばらく経ったときに「いつか皆んなで遊園地とか遊びにいけたらいいねぇ」という会話になった。

「ディズニー行きたい!」

ほぼ反射的に答えていた。答えながら「あ、私ほんとはディズニー行きたかったんだ」と妙に自分に対して納得した。行きたかった。けれど勝手に自分は行けない(自分はそういう人たちではない)から行かないと決めつけてただけだった。そんな私だったというのに「やったー!行こう行こう!」と計画を立てて実行してくれた彼女たちには感謝しかない。


個人的に1番お気に入りのアトラクション(フィルハーマジック)

結論から言う。ディズニーランド最高。ディズニーランドマジで最高。本当に本当にめちゃくちゃに楽しかった。最初から最後までずっとケラケラ笑っていた気がする。今考えれば当たり前のことかもしれないけれどディズニーランドは決してリア充向けのテーマパークではなくて老若男女関係なくディズニーを好きな人たちのためのもので360度どこを見てもディズニークオリティを維持しているそのプロフェッショナルたちの仕事ぶりに感動しきりだった。舞台でいうと演出、照明、音響、衣装、美術、構成、脚本などの要素が全部完璧にされている感じ。それに来場者達のニコニコと楽しそうな様子を見ているのも楽しかった。ディズニープリンセスのドレスを着た小さな女の子達が嬉しそうに歩いているのが超可愛い。


世界一のカップル(ミッキーとミニー)

パレードにさして興味がなかったけれど始まる前に偶然にもパレードが行われる道の近くを通り、友人に「せっかくだから見よっか」と誘われて見た。(ちなみに昼も夜も見た)

感動して泣いた

子供の頃からずっとずっと好きだったディズニーの各キャラクターたちが嬉しそうに「ハピネス イズ ヒアー(Happiness is here)」をテーマに歌ったり踊ったり手を振ったりしていたのを見て私は泣いた。紛れもなくその空間はまだ幼かった私がテレビや絵本で触れ、憧れてやまなかったディズニーの世界だった。そこに自分がいる。「美女と野獣」のベルがいる。アラジンとジャスミンがいる。ミッキーとミニーが自分のいる世界にいる。正直いうと14年前に行ったときはミッキーやミニーを見ても特に何を感じることもなく、むしろ被り物特有の表情のなさに気味が悪いと思っていたのだが、頻繁に舞台を観るようになったからか目の前にある作り物を作り物とわかっていながら現実と認識することができるようになっていたのかもしれない。 ここにいるミッキーは私の心の中に住んでいたミッキーそのものだと本気で思った。彼らが「幸せはここにあるよ」とストレートに伝えてくれる多幸感。プライスレス。



パレードではないけれどシンデレラ城を使ったプロジェクションマッピングショー(?)「ワンス・アポン・ア・タイム」は見てパレードの倍は泣いた。ボロボロに泣いてしまった。「Once upon a time…」から始まる数々の童話や伝説が親から子、子から孫へと語り伝えられていく愛情のバトンパス、ディズニーが描いてきた物語がいかに人々の心に夢と希望という種を蒔いて見守ってきたのか。夢を信じることを想像力と愛情という魔法を使って肯定し続けてくれる最高のエンターテイメント。ディズニーランドのシンデレラ城でチャーミング王子とシンデレラが音楽に合わせて踊っているのを実際に見れるなんて想像もしていなくてその美しさに胸が締めつけられて涙が止まらなかった。そんな私を見て友人たちが「そんな風に反応してもらえて私も嬉しい」と言ってくれて「私はそう言ってくれる貴方たちに出会えてよかったです」と遺言みたいなことを泣きながら口走りそうになったけれどなんとかこらえた。

14年ぶりのディズニーランドはキラキラした選ばれた人のものでは全くなくて「If you can dream it, you can do it.(願い続けていれば夢は叶う)」というウォルト・ディズニーの言葉と精神を愛し続けてきた人々の温もりを感じるテーマパークだった。エルマーの冒険の翻訳者である渡辺茂男さんの講演の言葉で「実在しない生き物が、子供の心に椅子を作り、それらが去った後に実在する大切な人を座らせることができる。」という話が私はとても好きなのだがまさにそれに近いものをディズニーランドへ感じていて、子供時代に夢見た物語は心のピースとなって共に大人になっていくこと、これは子供時代を含めた今の私の肯定ではないか。


いつ でも幸せに暮らしましたとさと物語を信じることをたちも信じている よ」と何から何まで本気でストレートに伝えてくれることはなんて強くて優しくて、覚悟と誇りがあって愛情深いんだろう。

ディズニーリゾートにハマる人の気持ちがわかってしまったので実に危ない。友人たちと今度は夏にディズニーシーに行く予定を立てたのでそれまでまた頑張って働きます。楽しみ楽しみ。


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ミュージカル「ビリー・エリオット」感想 〜ビリー、頑張って。いってらっしゃい 〜



※この記事は物語の核心となるネタバレが含まれています

公式サイト

梅田芸術劇場メインホール
2017年10月29日(日) 12時公演

脚本・歌詞:リー・ホール
振付:ピーター・ダーリング

翻訳:常田景子 
訳詞:高橋亜子


キャスト


あらすじ
1984年。イングランド北部・ダーラムの炭鉱町ではサッチャー政権の赤字炭鉱閉鎖計画に反対して町一丸となってのストライキが行われている。そこに住む少年ビリー・エリオットがバレエと出会い、ロイヤルバレエスクールへの入学を目指す。同名映画のミュージカル作品。

感想
本カンパニーは東京でプレビュー公演を行ったのち、約2ヶ月という日本では比較的珍しい長期公演を経て大阪へと移動してきた。関西民である私は待った。観劇日を待ちに待った。私の観測圏内ではプレビュー公演から毎日その感想や興奮が留めなく流れており、「○○くんビリーかすごい!」や「△△くんマイケルが成長してる!チケット増やしたい!」「とにかくすごい!」などのように9割9分絶賛で埋め尽くされていてその熱量はミュージカル「パレード」日本公演のときの同じようにやや異様なほどであった。またもやホリプロ。すごい。マチルダ・ザ・ミュージカルもやってほしい。

作品自体は映画やロンドン公演のライブビューイングで鑑賞していたしその素晴らしさも充分知っていたので、当時の私の本音を言うと「みんなが言うほどではないだろう。ハードルを上げて鑑賞して落胆しても嫌だし。」と少しばかりたかをくくっていた。が、鑑賞後の今では他にまだ書かなければならない感想文を放り投げてこのビリー・エリオットの感想を書いている始末である。それくらいとてもよかった。日本版も実に素晴らしくそれでいて日本版カンパニーならではの工夫(翻訳など)もある。そして何よりこの作品を実際に劇場で観るという行為がどれだけ意味のあることなのかを体感した。

本作品では主人公であるビリーや彼の友人であるマイケルを含めて10名ほどの子役が登場する。年齢も背丈も違う子供たちが舞台上を駆けまわる姿は愛らしいものではあるが、それだけでなく彼らはオーディションを勝ち抜いてレッスンを重ねてきたれっきとしたプロで各々がキャラクターの体現していたように思う。時々、台詞がまるきり棒読みなところが気になったが、その点ではマイケル役である山口れんさんの台詞の扱い方や間の取り方がとても上手かったのが印象的だった。これからの山口さんのキャリアが楽しみである。

そう、彼らのこれからが楽しみなのだ。

前田晴翔さん演じるビリー・エリオット。立ち姿も顔立ちも整っていて大人っぽく、どこか都会的な洗練さを既に持ち合わせているが、まだ残るあどけなさや両親や先生などの信頼している大人だけに見せる甘えるような表情も可愛らしい。まさに少年期のど真ん中を行くようなビリーであの時期特有の反抗心や自立心と不安や好奇心の間で揺れる不安定なビリーを見事に演じている。

オーディション(入学試験)へ行くことを父親に禁じられたときに彼が発する「母ちゃんなら行かせてくれた」の絶叫には観ていて心までもなく身体までも震えるほどだった。その絶叫から始まるナンバー「アングリーダンス(Angry Dance)」はこの作品の目玉ともいえるナンバーで爆音で鳴らされるエレキギターとドラムの中でビリーは感情を爆発させて踊る。怒涛のタップを踏む姿は生命の危険すらを感じる鬼気迫ったもので彼自身の魂を削るかのようだ。ベートーベンは交響曲第5番(運命)の冒頭の4つの音を「運命はこのようにして扉を叩く」と説明したが、ビリーは己の足で一心に運命を人生に刻んでいるように思える。

また観たい。もっと観たい。子役たちがこれからこの先もっといいパフォーマンスをするであろうその絶対の未来にある可能性を考えると瞬きすら惜しいほどその瞬間が愛おしい。我々が目撃しているのは1秒前の彼らの未来そのものだ。公演が終わるたびに彼らはそのぶん大きく成長している。

子役たちはまだ肉体的にも精神的にも未発達で、それでいて成長期の真っ最中だ。彼らがこの姿、この声でパフォーマンスしてくれるのは今この瞬間しかない。明日には声変わりが始まるかもしれない。来週には身長が伸びて外見が変わっているかもしれない。「私は今この場所で彼らのこの瞬間を目撃している」という特権的自覚は観劇においてドラマ性を生み出し、子役たちを大量に起用していることによって本作品のそれは他の作品の比ではない。

炭鉱夫たちと警官たちが罵倒しあい衝突するシーンと町の公民館のようなところで行われているバレエ教室のシーンが交錯するナンバー「ソリダリティ」(Solidarity)では対立していたはずの炭鉱夫と警官が次第にバレエ教室のダンスに取り込まれていき、最後にはウィルキンソン先生の指示を受けながら少女たちと共にステップを踏む。その中で練習を続けるビリーは才能を開花し始める。混沌の中で彼はひときわ輝く。その表情や動きにはまだ不安があるが中に好奇心がある。それは観客にこれから先にあるかもしれない様々な何かを期待させる。異なる空間が同時に存在し、混ざり合うという舞台だからこそできるもので個人的にお気に入りのシーンだ。炭鉱夫と警官の対立はお互いの生活のために行動しているもので彼らの考えに違いはあれど同じ人間で彼らもそれぞれ同じように日常を送っている。夢と現実の対立も様々な障壁がその間に立ちはだかっているが、決して断絶されているのではなくひと続きの繋がっているものだ。夢と現実、街と国、炭鉱夫と警官の対立をバレエ教室との楽しい混沌へと変えながら「団結(Solidarity)」を唱えるこのナンバーはそう遠くない未来でいつかこの分断がなくなることを示唆しているように思えてならない。日本版の歌詞である「団結だ 団結だ 団結 永遠に」も耳残りがよく、ついつい歌ってしまうようなリズムの良さがいいのも書き記しておく。


最後のシーンの話をする。ロイヤルバレエスクールに合格し、荷物を抱えて町から出ていくビリー、自転車でおそらく町外れまでやってきたマイケルがビリーを呼び止める。ビリーはマイケルのところまで戻って「またな」と告げ、町から出ていく。舞台から観客席へと彼は歩く、そこには彼以外のキャストも美術もない外の世界だ。当てられるのはスポットライトだけ。炭鉱夫たちのヘッドライトがビリーの行き先を照らし、背中を押しているのかもしれない。

そのあと、しばらくするとバレエの女の子たちやビリーを取り囲む大人たちが舞台上に登場し、彼を呼ぶ。ビリー!

ビリーはまた観客席の通路から舞台へと戻っていく。その足は少し駆け足で顔には安堵の笑顔が浮かんでいる。初めてこの作品をライブビューイング版で観た時に「どうして舞台から登場せずにわざわざ観客席から戻るんだろう?」と違和感を感じたことが蘇った。そのままフィナーレへ行くなら舞台上に出てきた方がなんとなくスムーズな気がする。

観客席の通路
舞台上からビリーを呼ぶ人々

あぁ、そうか。
ビリーは町へ帰ってきたんだ。それを町の人々が町外れまで迎えにきていた。彼の名を呼ぶのは彼をみんなが愛してるからだ。

ビリー、おかえり。
待ってたよ。おかえりなさい。

ビリーの旅立ちと帰郷は世界中にある親から子への数え切れないほど繰り返される「いってらっしゃい」と「おかえり」のやりとりだ。どうか無事でと祈りながら子を送り出し、少しずつ成長して帰ってきた我が子を迎え入れる。いつか来るかもしれない最後の「いってらっしゃい」までそれは続けられる。


手紙(Letter)のシーンでビリーの母親が18歳の未来へのビリー(作品上で彼は12歳である)に宛てた手紙が読まれるが、そこには「あなたが成長するのも、泣くのも、笑うのも、暴れてわめくのも見れなかった」とある。ここに書かれているそれらは全て舞台上で起こる数々の出来事を暗示しているが、12歳になるまでの過去のことも示しているのかもしれないしそれからの未来のことも示しているのかもしれない。我々は13歳になったビリーをこの舞台上で観ることができない。幕が降りたあとにビリー・エリオットは劇場のどこにも存在しない。彼が生きるのは観客の心の中だけだ。彼がロイヤルバレエスクールで何を学び、何に苦労し、笑い、泣くのかを我々は観ることができない。そういう意味ではビリーの母親と同じ立場にあるのかもしれない。だからこそ彼の祈るしかない。彼のことを愛していると、誇りに思っているとその瞬間に伝えるしかないのだ。

女装が好きな友人マイケル、愛情深いバレエ教師のウィルキンソン、兄のトニー、祖母、父のジャッキー・エリオットや町の人々がビリーの夢を応援する。父のジャッキーに至っては賃金を稼ぐために炭鉱夫の誇りを捨て町からの疎外を覚悟してまでスト破りを行う。炭鉱でストが行われていた当時、いわゆるスト破りや参加を拒んだ者には仲間から容赦ない暴力やリンチが行われていたという。あの閉鎖的な田舎でスト破りをすることはそれほどまでに危険なことだ。ジャッキーは自分のプライドや生命までもかけて息子であるビリーのために動く。「息子の夢を叶えてやりたい」というその気持ちは微塵の曇りもない愛情だ。「俺の息子だ」と所有権を主張ばかりしていたジャッキーが最後のオーディション会場でビリーのことを誇らしげに「俺の息子なんです」と言っていたところでは笑いながら大粒の涙をこぼして泣くという器用なことをしてしまった。ここのジャッキーの表情が実に複雑で愛情深くて見事だった。ちなみに益岡徹さんである。

益岡徹さんに触れたのであと1人印象的だった配役に触れておく。柚希礼音さんだ。彼女のことは宝塚時代のときと退団後初舞台であるミュージカル「プリンス・オブ・ブロードウェイ」でしか知らなかったが、今回のウィルキンソンの役は彼女によく合っていた。ビリーのために炭鉱夫たちに張り合うところでも負けていなかったし蓮っ葉な言葉遣いも似合っていたのと生徒と先生という他人の距離間の測り方が上手いなと感じた。ただフィナーレの時のダンスは流石トップスターというべきか、堂々たるゴージャスな貫録が溢れでていてウィルキンソンの「田舎でバレエを教えている二流教師」っぽさが薄れていたように思うが、総合的にはとても好みだった。舞台上での実力やカリスマ性を重視すると彼らが演じるキャラクター性が薄れてしまうという話はキンキー・ブーツのときにも確か似たようなことを考えていたような気がする。

ビリーも成長するが周りの大人たちもビリーと共に成長している。バレエや娯楽に対して偏見(この偏見はビリー自身にも根強く残っていて周りのから彼への影響がうかがえる)を持っていたが偏見を捨て、フィナーレではなんとあのチュチュを履くまでになる。炭鉱夫たちがチュチュを履くその滑稽さも面白いが素直に嬉しくなる素敵な明るいフィナーレだ。

まとめる。自分を表現するのは言葉だけではない。ダンスでもファッションでも自己表現のひとつだ。誰を好きになっても、何を好きになっても恥じることはなくむしろ誇りに思おう。人生を楽しもう。まだ存在しない未来を夢見て、その可能性を信じようというメッセージをここまで真摯に伝えてくれるこの作品は最高だ。根底には限りない人間愛が流れていて製作陣の温もりを感じることができる。キャストもよかった。音楽も、翻訳も、歌詞も、脚本もよかった。全く同じシナリオや内容で観ているのに新鮮な驚きと感動で泣いた。幕間で知り合いにあって話をしながらボロボロ号泣してしまうほどよかった。

そんな素晴らしい日本版ビリー・エリオットも今週で大千穐楽を迎えてしまう。どうかキャストもスタッフも観客も満足のいく公演になりますように。またどこかでこの世界のビリーたちが活躍する世界でありますように。


ビリー、頑張って。いってらっしゃい

記号としての存在

大学生の頃、1年間ほど居酒屋で働いたことがある。居酒屋といっても大手チェーン店ではなく家族経営の小さな店で15〜20人入れば満員になる大きさである。客の入りも回転率もよくて中々に繁盛しているところだった。私がそこでやった仕事といえば注文を取ることと料理を運ぶこと、ドリンクを作ること、皿を洗うことの4つくらいだった。


客が来たらおしぼりとお箸を持っていく。いらっしゃいませ。ご注文はお決まりですか?飲み物の注文がないときはお冷やかお茶のどちらがいいかも聞く。ビールが2つと枝豆、冷奴ですね。ありがとうございます。オーダー入ります。そしてビールをジョッキに注いでテーブルに運び、出来た料理を運ぶ。手が空いたら洗い物をする。それでも手が空いたら備え付けのテレビを見る。たまに常連さんの話し相手になることもある。チップとしていくらかお小遣いをもらったり高級なお菓子をいただいたこともあるが、いかがわしいことは何もなく私はなんの色気もないシンプルなエプロンをつけて接客をするだけのただのアルバイトしかなかった。会計をすることもなかったのでアルバイトととしても半人前だったと思う。まぁそれでも楽しかった。常連さんの頼む飲み物を上手く作れるようになったとき(お酒と水の配合とか何をプラスするかとか)は「お、ちょっと私イケてるんじゃない?」と調子に乗ったりした。このお店の客層は固定客が結構な割合を占めており、私のことを「店員さん」ではなく名前を覚えて名前で呼んでくれる人も少なからずいた。私も彼らのことを「お客様」とか「お客さん」ではなく名前で呼んだりする。常連さんと行きつけの店の店員というそれ以上でもそれ以下でもない関係である。この関係はどこにでもあるありふれたものであるがなかなか興味深い距離間だったなと今になって思う。顔と名前(ただし苗字だけ)、それと見た目から判断できる性別や年齢程度はわかるが彼らがどこの誰かなのかを私は知らない。職業や勤め先を教えてもらったこともあるが、あとで先輩(このお店ではいわゆるママのような役割を果たしていたベテランの人)に「あれ全部嘘だよ。」と言われたりしたので何が嘘で何が真実なのかもわからなかった。そしてそれは知らなくてもなんの問題もない情報でもあった。よく来てくれる常連さんと一端の店員という枠組みの中に当てはまればなんでもよかった。


色んな常連さんがいた。毎日晩ご飯を食べにくる地元の学生。火曜日と水曜日に麦焼酎のお湯割とお茶漬けを食べるおばあちゃん。金曜日にライムサワーとうどんを食べていた髪の毛の長いサラリーマン。昔の話を聞かせてくれるおじいちゃんにどうやら不倫の逢い引き場所としてお店を使っていたらしいお姉さん。私が働いている間に常連さんになった人もいれば来なくなった常連さんもいる。そんな彼らから私は色んな話を聞いた。嘘を話そうが本当を話そうが適当に相槌をうってくれる他人。のれん1枚くぐれば消えてしまうという関係の薄さ。その距離間がかえってよかったのかもしれない。ある人からは結婚詐欺で訴えられそうなんだけどどうしようと言われ、ある人からは先月に夫が死んだと言われ、ある人には来月から大学へ行くと言われた。「人の数だけ人生がある」ということは薄々学んではいたことだったけれど、ここまで人間及びその各々の人生を実感したのはこのお店で働いた1年間だったと思う。私は嘘か本当かわからない本当のような話を沢山聞いた。それは奇妙な距離間で生まれた不思議な話ばかりで今となっては確かめようのないものだ。またいつか暇になったらあのお店に行こうとボンヤリ思いながら今日は眠ることにする。夢の中でいらっしゃいませと過去の私が迎えてくれるだろう。


舞台「プレイヤー」感想 〜その境界線は何処だ〜



※この記事は作品の核にあたるネタバレをしています


舞台「プレイヤー」


2017年9月2日(土)18時公演

森ノ宮ピロティホール


前川知大

演出 長塚圭史


公式サイト

http://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/17_player/


あらすじ

舞台はある地方都市の公共劇場、そのリハーサル室。国民的なスターから地元の大学生まで、様々なキャリアを持つ俳優・スタッフたちが集まり、演劇のリハーサルが行われている。

演目は新作『PLAYER』。幽霊の物語だ。死者の言葉が、生きている人間を通して「再生」されるという、死が生を侵食してくる物語。


感想


始まりから終わるまで針のムシロの中にいるような作品だった。観劇するということは舞台上で繰り広げられる出来事をリアルタイムで目撃し、己の感情や思考などを重ね合わせて完成させるパズルのピースのようなものである。しかし、この作品は観客の心の動きにさえグサリグサリと針を突き刺していくような容赦のない残虐さがある。


物語は稽古場とその中で通し稽古が行われている舞台「プレイヤー」(劇中劇)の2つの世界が同時進行で進んでいく。劇の中で演じるキャラクター、稽古場での素の状態である役者たち、それを演じる彼らを我々は観劇するという3重構造になっていて常に「演じることとは何か」、「演技を観ることとは何か」そして「信じることとは何か」を考えながら観ることになる。舞台に限らず演技を見ることは(とはいっても個人的に映像の場合は画面という明確な壁があることによって別世界の何かを見ているという感覚が舞台よりも強いとは思うが)、「今からやることはお芝居ですよ」という目の前で行われる出来事が全て虚実であるといういわゆる「お約束」のもとで成り立っているもので、それを前提にさも現実で起こっているかのように演じる側も観る側も「信じて」最後まで物語は進んでいく。


舞台演劇の始まりは神へ捧げる儀式から起こっていると演劇についての本で読んだことがある。巫女(もしくは神官など)は儀式の中でまるで自分に神が乗り移ったかのように行動する。ある意味では一種のトランス状態であるそれを「演技」と取るか違うものと取るかは演じる者と観る者の間にある信頼関係によって大きく変わる。これは演技なのか?それともこれは神(キャラクター)の本心なのか?今、目の前で起こっているこれは絶対に虚実であると言い切れるのか?もしそうだとするのであれば


その境界線は何処だ


自身が演じるキャラクターに取り込まれて客観性を失った役者、同じくしてこれが芝居なのかどうなのかがわからなくなった観客、そうした我々が行き着く先にあるものは何か。舞台上のリアリティが現実を超えたとき、確実に「演劇」が絶対に踏み込んではならない領域に足を踏み入れることになる。その境界線の上をまるで綱渡りのようにしてバランスを取りつつ、しかしながらその境界線を我々が気づかないうちに確実に少しずつズラしていく底知れない意地の悪さ。そしてハッと気付いた時にはもう手遅れであるという絶望と無力感。稽古場の劇中劇であるという体裁を取りながらいつの間にか役者たちは本番さながらの衣装を身にまとい、照明は稽古場のそれではなくなる。役者たちの演技も「演技をしている演技」から「役になりきった演技」になり、最後には役者の肉体を借りて死者の魂が言葉を語る。頭ではわかっているのにそれを観ている目が、心が、これは現実なのかもしれないと叫ぶ。私は今何を目撃しているのか。演技とは、観ることとは、信じることとは。あまりの恐怖と混乱に顔を歪めながら観てしまった。


話を少し戻す。

この作品の劇中劇「PLAYER」は簡単にいうと、とある瞑想グループが実は宗教集団で壮大な目的のために活動していくことに次第に取り込まれる警察官という物語である。つまり人間の「信じること」すなわち「信仰」を題材にしていて演劇と宗教に共通する共同幻想を扱っている。一歩間違えれば新興宗教セミナーだと思われかねない人の心を巧みに操った物語を劇中劇にすることによってかろうじてギリギリのラインを保っている。だがそれも最後には混沌とし、解釈は観客の手に委ねられる。人が人を、もしくは何かを信じることは何も悪いことではない。親が子に教育を施すのも親が子を、子が親を信じているからこそできることだし、例えば「青信号=渡ってもいい」と解釈して横断歩道を渡ることだって交通ルールを、それを人々が守るものである。ということを漠然と信じているからこそ成し遂げられることだ。友達と明日遊ぼうねと約束することも人を信じていることだし、前述のように演劇を虚実だと知っていて現実であると信じることもそこに含まれる。じゃあ、それが悪用されたら?人を信じることが前提にある今の世の中の倫理観そのものを揺るがしてしまうのではないか。人が正義だと信じているものが実はそうではなかったら?その正義を守るために人は暴走するのではないか。世界を守るために誰かの生命を奪うことが唯一の正義かもしれないと信じたら?もし私がその場にいたら、いたとするのであれば、信じていたのであれば。


間違いなく私は行動へと移すだろう。そう思った。


そのシーンは実際に劇中劇「PLAYER」の中で行われる。なんの説明もなく、世界の終わりが君の手にかかっていると言われ、決断を迫られ、その信仰の中で青年は知らない何処かの誰かを刺し殺す。


私は地下鉄サリン事件の当時を知らない。浅間山荘事件のことも知らない。9・11に起きた世界同時多発テロのことだって当時小学生だった私にとって実感のあまりない出来事だった。だけどそのシーンを見て文章の上や映像でしか知らないそれを思い起こすことはあまりにも簡単で、面白がって観ている自分に嫌悪感を感じて吐き気がするほどだった。信じることは悪いことではない。だがそれがある一線を超えてしまうと人の倫理から外れたものになる。だとしてもその倫理観すら私が勝手に構築しているものだ。今こうしている間にも世界中で人口は増えているし環境は破壊され続けている。


もはや役者なのかキャラクターそのものか判断のつかなくなった時枝が叫ぶ。


「この間抜け。お前は暗闇の小市民だ。もっと世界をよく見ろ。お前の目は常識でドロドロに濁っているぞ、節穴だ。警察ごっこはもうやめろ。お前の正義感なんて半径2メートルだ。恋人すら見殺しにした。」


観ていて思わず「もうお願いだからやめてくれ」と言いたくなった。私自身が持つ倫理観の不安定さと正義感の甘さを暴力的といってもいいほど指摘してくる台詞だった。結局のところ、私はこの甘っちょろい倫理観でしか生きることができない。この世界で確実に起こっている現実を知ることをためらうほど私は弱い人間だ。


最後に存在しないはずの新しい台本の言葉を話す役者が劇場プロデューサーに「この台本をネット公開してくださいね」と約束をして物語は幕を閉じる。我々は彼が「PLAYER」の作者であることを悟り、その後に起こるであろう世界のことを考えて絶望する。観客自身が傍観者でいることの無力さを叩きつけてくるのだ(ちなみに実際にこの舞台「プレイヤー」の上演台本はネット公開されていて誰でも読むことができる)。


タイトルの話に話題を移す。

本作品「プレイヤー」はカタカナ表記で、劇中劇で上演されるものは「PLAYER」である。観ているうちのそのタイトルがもつ何重もの意味に唸ることになった。


演じる者としての「PLAYER」(戯曲のことをplayと呼ぶので)

再生装置としての「PLAYER」

祈る者としての「PRAYER」


ゲームにおいて役割を与えられた駒である「プレイヤー」という風にも解釈できる。私もまた彼らのプレイヤーなのかもしれないと思った。観劇をして終わった後にポスターを見て全身が凍りつくほどにゾッとした。


この作品、この物語を無理やり科学的に解釈することは可能かもしれない。瞑想の境地の中で自分の意思で死ぬことは自己催眠の究極の形と捉えることができる。プレイヤーが死者の言葉を再生することも何かの記憶や単語をトリガーにして催眠が発動するようにあらかじめ予備催眠をかけておけばいいと思うこともできる。この劇中劇は劇中劇のままで虚実であると思うこともできる。だが目の前の現実を人は否定できない。人が信じるという行為を人は否定できない。何を信じ、何を真実と認識して何を嘘と判断しているのか。演劇と宗教、信仰と狂信、善と悪、真実と嘘。その境界線はどこか。


自身のフィールドである演劇をあえて危険に晒すような前川知大氏の精神のタフさがすごい。人間の倫理をここまで客観的に見て面白く作品を書き上げる強さ。それを観る観客へ挑戦しているところなんて「ここまでやるのか」と感服した。けれどここまでギリギリのものを作ることができるのは彼自身がどこまでも人間を信じているからなのかもしれないと思って少しだけ安堵した。最後のオチが個人的にちょっとだけ失速したというかこうしてくれたらもっと自分のツボに入ってくれたかもしれないなとか少し間延びしている場面もあったようなとか、それにしてもこの座席でこの値段かよチケット高いなとか完全に百点満点!もうまいった!最高!というものではなかったけれど取り扱っている題材とその曖昧な境界線を保つバランス感覚と緊張感はとても好みだったことや各世代ごとにあるそれぞれの恐怖を照らし合わせてみたいなとも思ったので是非映像化や再演をしてほしいものだが(そして単純に私がもう一回観たい)どうなるのかは不明である。


電話が鳴る。弟が出る。

死者の声が生者の身体を借りて再生される


「もしもし」

「元気?何してた?」