映画「スポットライト 世紀のスクープ」感想


スポットライト 世紀のスクープ


公式サイト
日本版
http://spotlight-scoop.com/staff.php
本国版(スマホ用)
http://spotlightthefilm.com/mobile

監督/脚本
トム・マッカーシー
脚本
ジョシュ・シンガー

報道の意義とは、責任とは、犠牲とは。

初めてこの映画を見たときの私の顔を見たらきっと間抜けな顔ををしていたんだろう。単刀直入に言う。度肝をぬかれた。最高だった。特別に新しい手法や技術を駆使した作品でもない。派手なアクションシーンがあるわけでもない。だけど素晴らしかった。「感動」という言葉をまんま体感した。どちらかというと感じて動いたというより感じて掴まれてそのまま持って行かれたといった方が近いかもしれない。私は感動したり圧倒すると胸の奥が締め付けられるたり押さえつけられるような感覚を覚えるのだが、今回はそれを超越していた。ショックで声が出なかった。映画にここまでのことが出来たのかと。

今年のアカデミー賞作品賞脚本賞を獲得した映画「スポットライト 世紀のスクープ」は、ボストンで最大の発行部数を誇る新聞社であるグローブ紙とグローブ紙の記者チーム(スポットライトチーム)が教会で行われてきた児童に対する性的虐待とそれを隠蔽する教会組織の闇を暴き、報道するまでを描いた映画である。実話に基づいた話であり、実際、この一連のスクープが報道されたことによって信者の教会への信頼が一気に揺らぎ、最終的にはローマ法王までが出てくる事態へと繋がった。興味のある方は同グローブ紙がまとめ、出版した書籍「スポットライト」が発売されているので是非読んでみてほしい。一つの過去のニュースを知るという視点でも充分に面白い作品である。
しかし私が惹かれたのはこれとはまた別の部分である。それは各人物の人間性とその描かれ方である。
グローブ紙の特集欄(スポットライト)を担当している記者は4人。彼らはチームとしてひとつの事柄を取材し、記事にして連載するのが仕事だ。日常欄や政治、経済欄とはまた違う新聞の中でも独立性を持つチームで日々仕事と奮闘している。ある日新しい局長が就任し、スポットライトチームに教会で行われていた児童虐待に関するとある1つの事件の裁判記録が封印処置を取られている理由を取材するように命じられる。取材を進めていくうちに彼らは、教会が今まで教会内で行われてきた膨大な数の児童への性的虐待の事件を隠してきたことを知り、事件は教会全体の問題となる。というのがこの映画のおおまかなあらすじである。

一連の情報を追っていくうちにスポットライトチームの面々は己のジャーナリズム、信仰心、倫理観に挟まれて苦悩する。例えば「報道を先延ばしにして教会全体への言及へ繋げ、もっと多くの問題を明らかにする」ことを選んだボストン紙に対してマイク記者は激昂し声を荒げる。「じゃあいつ報道するんだ。今だ。今こそがそのタイミングだ。」と。他の新聞社にネタを取られてたまるかという成功を狙う記者として。犯行を報道することによって止められる犯行がある。だからこそ報道するべきだという人としての感情を混ぜて叫ぶ。この報道を先延ばしにするという行為は、端的に言うと「目の前で起こっている犯行に目をつぶり、この先起こりうる犯行を止める。」といういわゆる「見殺し」の行為でありジャーナリズムにおいてよく批判される点である。それをこの映画は隠さない。報道は報道であって正義ではないことを彼らは知っている。ただの勧善懲悪な映画ではないことが私がこの映画に感銘を受けた理由の1つだ。
スポットライトチームの記者も記者である前に1人の人間だ。自分のしている行為は正しいことなのかと苦しむ。祖母が敬虔なカトリック教徒であるサーシャは教会への不信感によりミサへの参加をやめる。マイクは「自分がかつて行っていたように遅かれ早かれまた教会に行くんだろうと思っていた。」とこぼす。私にとって「神」とは、お腹を下してトイレで苦しんでいる時やテストの結果やチケットの当選結果を見る時にしかいない(祈らない)存在なのだが、彼らが傷つくのは少しだけだがわかる。彼らは物心つく前から「神様が見守ってくださる」「神様が見ているから悪いことをしちゃダメだ」と教え込まれている(と書くと反感を買いそうだが、しつけとして親から子へと宗教が受け継がれるのはどこにでもある慣習だと思う)ので理由もなく「神様=正しい」と多かれ少なかれ信じている。それ以外の考え方ができないと言った方が近いかもしれない。信仰とはそういうものだ。理由なんてない。かつての彼らにとって「神様はいらっしゃる。だから神様はいる。」のだ。それがスクープによって大きく覆され、彼らの聖なる場所が性犯罪の温床となり、牧師が性犯罪者になる。報道記者として真実を追究する中で、心の片隅できっと幼き頃の自分と何度も思っただろう。
「そんなことあるわけない。」
だが、1人は近所に住む牧師が性犯罪の犯したと思われるリストにあがったことを知る。1人は自分が通っていた学校の先生(牧師は学校の教師をしていることも多い)が、その時代に犯行を行っていたことを知る。いつ自分の子供が、昔の自分が被害者になっていてもおかしくないことを知る。そのときに負った心の傷は計り知れない。
地道に取材や調査を続け、積み上がる証拠や証言を更に積み上げて揺るぎない真実を彼らは報道する。己の信仰心を犠牲にしてでも彼らは報道する。それが彼らの仕事だからだ。

この映画はスクープ記事の出版後にグローブ社に次々とかかってくる被害者からの電話で幕を閉じる。そしてこの記事が報道されたことによって暴かれた同様の事件が起こっていた州の名前と被害者の膨大な数を示してエンドロールへの移る。現実の人物達は俳優や女優でもないし、現実の取材にBGMが流れるわけでもないので意図せずに私は見ていくうちに次第にこれをフィクションの映画だと思ってしまっていた。そんな気持ちでいた私に「これは現実だ」と冷水をかけて映画「スポットライト」は終わる。恐ろしさで身の毛がよだつようだった。

また、私はこの「スポットライト」という映画タイトルも秀逸だと感じた。勿論、実際のボストン紙の特集記事欄の名称であるスポットライトから取っていることはわかるが、そもそもこのスポットライトとは舞台上で演者に当てる光のことである。光を当てるスタッフは暗い場所にいる。一見地味な作業である。しかし、光を当てる人がいないと、光が当たる人もいないのだ。この映画にはそうした影の仕事への敬意を感じる。教会で起こった性犯罪の非道さや残忍さを前面に出したいのであれば、その性犯罪の行為をフラッシュバックや何かのシーンで挿入すればいいがこの映画ではそういったシーンは一切なく、事実が語られるのは被害者の口からだ。この映画が語るのはあくまでもスクープを追いかける記者達でありそのスクープをクローズアップしていない。映画としての足し算と引き算の上手い作品だと思う。画の撮り方、ピアノを中心としたBGM、俳優達の演技も素晴らしく、静かな画の中に潜むフツフツとした情熱を常に感じる作品だった。

観終わってからも何度も反芻して「とんでもない映画を見てしまったな」としみじみと噛み締めて今もこの文章を書いている。アカデミー賞作品賞を取ったのも至極真っ当な結果だと私は思う。また観たい。いつでも観たい。まだまだ映画館で上映中なので観たことない人は是非観てほしい。

余談
パンフレットを購入したのだがこれも映画に対する拘りを感じるパンフレットになっていてとても気に入った。ザラザラとした紙に印刷されていて新聞っぽくなっていて、中身も新聞のようにデザインレイアウトされていて読みやすかった。オススメ!