舞台「プレイヤー」感想 〜その境界線は何処だ〜



※この記事は作品の核にあたるネタバレをしています


舞台「プレイヤー」


2017年9月2日(土)18時公演

森ノ宮ピロティホール


前川知大

演出 長塚圭史


公式サイト

http://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/17_player/


あらすじ

舞台はある地方都市の公共劇場、そのリハーサル室。国民的なスターから地元の大学生まで、様々なキャリアを持つ俳優・スタッフたちが集まり、演劇のリハーサルが行われている。

演目は新作『PLAYER』。幽霊の物語だ。死者の言葉が、生きている人間を通して「再生」されるという、死が生を侵食してくる物語。


感想


始まりから終わるまで針のムシロの中にいるような作品だった。観劇するということは舞台上で繰り広げられる出来事をリアルタイムで目撃し、己の感情や思考などを重ね合わせて完成させるパズルのピースのようなものである。しかし、この作品は観客の心の動きにさえグサリグサリと針を突き刺していくような容赦のない残虐さがある。


物語は稽古場とその中で通し稽古が行われている舞台「プレイヤー」(劇中劇)の2つの世界が同時進行で進んでいく。劇の中で演じるキャラクター、稽古場での素の状態である役者たち、それを演じる彼らを我々は観劇するという3重構造になっていて常に「演じることとは何か」、「演技を観ることとは何か」そして「信じることとは何か」を考えながら観ることになる。舞台に限らず演技を見ることは(とはいっても個人的に映像の場合は画面という明確な壁があることによって別世界の何かを見ているという感覚が舞台よりも強いとは思うが)、「今からやることはお芝居ですよ」という目の前で行われる出来事が全て虚実であるといういわゆる「お約束」のもとで成り立っているもので、それを前提にさも現実で起こっているかのように演じる側も観る側も「信じて」最後まで物語は進んでいく。


舞台演劇の始まりは神へ捧げる儀式から起こっていると演劇についての本で読んだことがある。巫女(もしくは神官など)は儀式の中でまるで自分に神が乗り移ったかのように行動する。ある意味では一種のトランス状態であるそれを「演技」と取るか違うものと取るかは演じる者と観る者の間にある信頼関係によって大きく変わる。これは演技なのか?それともこれは神(キャラクター)の本心なのか?今、目の前で起こっているこれは絶対に虚実であると言い切れるのか?もしそうだとするのであれば


その境界線は何処だ


自身が演じるキャラクターに取り込まれて客観性を失った役者、同じくしてこれが芝居なのかどうなのかがわからなくなった観客、そうした我々が行き着く先にあるものは何か。舞台上のリアリティが現実を超えたとき、確実に「演劇」が絶対に踏み込んではならない領域に足を踏み入れることになる。その境界線の上をまるで綱渡りのようにしてバランスを取りつつ、しかしながらその境界線を我々が気づかないうちに確実に少しずつズラしていく底知れない意地の悪さ。そしてハッと気付いた時にはもう手遅れであるという絶望と無力感。稽古場の劇中劇であるという体裁を取りながらいつの間にか役者たちは本番さながらの衣装を身にまとい、照明は稽古場のそれではなくなる。役者たちの演技も「演技をしている演技」から「役になりきった演技」になり、最後には役者の肉体を借りて死者の魂が言葉を語る。頭ではわかっているのにそれを観ている目が、心が、これは現実なのかもしれないと叫ぶ。私は今何を目撃しているのか。演技とは、観ることとは、信じることとは。あまりの恐怖と混乱に顔を歪めながら観てしまった。


話を少し戻す。

この作品の劇中劇「PLAYER」は簡単にいうと、とある瞑想グループが実は宗教集団で壮大な目的のために活動していくことに次第に取り込まれる警察官という物語である。つまり人間の「信じること」すなわち「信仰」を題材にしていて演劇と宗教に共通する共同幻想を扱っている。一歩間違えれば新興宗教セミナーだと思われかねない人の心を巧みに操った物語を劇中劇にすることによってかろうじてギリギリのラインを保っている。だがそれも最後には混沌とし、解釈は観客の手に委ねられる。人が人を、もしくは何かを信じることは何も悪いことではない。親が子に教育を施すのも親が子を、子が親を信じているからこそできることだし、例えば「青信号=渡ってもいい」と解釈して横断歩道を渡ることだって交通ルールを、それを人々が守るものである。ということを漠然と信じているからこそ成し遂げられることだ。友達と明日遊ぼうねと約束することも人を信じていることだし、前述のように演劇を虚実だと知っていて現実であると信じることもそこに含まれる。じゃあ、それが悪用されたら?人を信じることが前提にある今の世の中の倫理観そのものを揺るがしてしまうのではないか。人が正義だと信じているものが実はそうではなかったら?その正義を守るために人は暴走するのではないか。世界を守るために誰かの生命を奪うことが唯一の正義かもしれないと信じたら?もし私がその場にいたら、いたとするのであれば、信じていたのであれば。


間違いなく私は行動へと移すだろう。そう思った。


そのシーンは実際に劇中劇「PLAYER」の中で行われる。なんの説明もなく、世界の終わりが君の手にかかっていると言われ、決断を迫られ、その信仰の中で青年は知らない何処かの誰かを刺し殺す。


私は地下鉄サリン事件の当時を知らない。浅間山荘事件のことも知らない。9・11に起きた世界同時多発テロのことだって当時小学生だった私にとって実感のあまりない出来事だった。だけどそのシーンを見て文章の上や映像でしか知らないそれを思い起こすことはあまりにも簡単で、面白がって観ている自分に嫌悪感を感じて吐き気がするほどだった。信じることは悪いことではない。だがそれがある一線を超えてしまうと人の倫理から外れたものになる。だとしてもその倫理観すら私が勝手に構築しているものだ。今こうしている間にも世界中で人口は増えているし環境は破壊され続けている。


もはや役者なのかキャラクターそのものか判断のつかなくなった時枝が叫ぶ。


「この間抜け。お前は暗闇の小市民だ。もっと世界をよく見ろ。お前の目は常識でドロドロに濁っているぞ、節穴だ。警察ごっこはもうやめろ。お前の正義感なんて半径2メートルだ。恋人すら見殺しにした。」


観ていて思わず「もうお願いだからやめてくれ」と言いたくなった。私自身が持つ倫理観の不安定さと正義感の甘さを暴力的といってもいいほど指摘してくる台詞だった。結局のところ、私はこの甘っちょろい倫理観でしか生きることができない。この世界で確実に起こっている現実を知ることをためらうほど私は弱い人間だ。


最後に存在しないはずの新しい台本の言葉を話す役者が劇場プロデューサーに「この台本をネット公開してくださいね」と約束をして物語は幕を閉じる。我々は彼が「PLAYER」の作者であることを悟り、その後に起こるであろう世界のことを考えて絶望する。観客自身が傍観者でいることの無力さを叩きつけてくるのだ(ちなみに実際にこの舞台「プレイヤー」の上演台本はネット公開されていて誰でも読むことができる)。


タイトルの話に話題を移す。

本作品「プレイヤー」はカタカナ表記で、劇中劇で上演されるものは「PLAYER」である。観ているうちのそのタイトルがもつ何重もの意味に唸ることになった。


演じる者としての「PLAYER」(戯曲のことをplayと呼ぶので)

再生装置としての「PLAYER」

祈る者としての「PRAYER」


ゲームにおいて役割を与えられた駒である「プレイヤー」という風にも解釈できる。私もまた彼らのプレイヤーなのかもしれないと思った。観劇をして終わった後にポスターを見て全身が凍りつくほどにゾッとした。


この作品、この物語を無理やり科学的に解釈することは可能かもしれない。瞑想の境地の中で自分の意思で死ぬことは自己催眠の究極の形と捉えることができる。プレイヤーが死者の言葉を再生することも何かの記憶や単語をトリガーにして催眠が発動するようにあらかじめ予備催眠をかけておけばいいと思うこともできる。この劇中劇は劇中劇のままで虚実であると思うこともできる。だが目の前の現実を人は否定できない。人が信じるという行為を人は否定できない。何を信じ、何を真実と認識して何を嘘と判断しているのか。演劇と宗教、信仰と狂信、善と悪、真実と嘘。その境界線はどこか。


自身のフィールドである演劇をあえて危険に晒すような前川知大氏の精神のタフさがすごい。人間の倫理をここまで客観的に見て面白く作品を書き上げる強さ。それを観る観客へ挑戦しているところなんて「ここまでやるのか」と感服した。けれどここまでギリギリのものを作ることができるのは彼自身がどこまでも人間を信じているからなのかもしれないと思って少しだけ安堵した。最後のオチが個人的にちょっとだけ失速したというかこうしてくれたらもっと自分のツボに入ってくれたかもしれないなとか少し間延びしている場面もあったようなとか、それにしてもこの座席でこの値段かよチケット高いなとか完全に百点満点!もうまいった!最高!というものではなかったけれど取り扱っている題材とその曖昧な境界線を保つバランス感覚と緊張感はとても好みだったことや各世代ごとにあるそれぞれの恐怖を照らし合わせてみたいなとも思ったので是非映像化や再演をしてほしいものだが(そして単純に私がもう一回観たい)どうなるのかは不明である。


電話が鳴る。弟が出る。

死者の声が生者の身体を借りて再生される


「もしもし」

「元気?何してた?」