ミュージカル「フランケンシュタイン」日本公演 感想 〜死の否定は生の否定であるということ〜



公式サイト


観劇日
2017年2月4日(梅田芸術劇場)

キャスト


あらすじ
19世紀ヨーロッパ。科学者ビクター・フランケンシュタインは戦場でアンリ・デュプレの命を救ったことで、二人は固い友情で結ばれた。"生命創造"に挑むビクターに感銘を受けたアンリは研究を手伝うが、殺人事件に巻き込まれたビクターを救うため、無実の罪で命を落としてしまう。ビクターはアンリを生き返らせようと、アンリの亡き骸に今こそ自らの研究の成果を注ぎ込む。しかし誕生したのは、アンリの記憶を失った"怪物"だった。そして"怪物"は自らのおぞましい姿を恨み、ビクターに復讐を誓うのだった…。(公式サイトより)

運良くチケットをお譲りしていただいて観劇。完全なるノー予習である。「フランケンシュタイン」といえばベネディクト・カンバーバッチが主演の公演が思い浮かぶ方も多いと思うが私の中の「フランケンシュタイン」といえば、頭に大きなネジが刺さっている緑だか灰色だかの肌を持ったキャラクターの印象しかない。完全に予備知識のない状態で観劇したので解釈や見方など間違っているところも多々あると思うがご了承いただきたい。

さて、このミュージカルで扱われているキーワードは「生」「死」「蘇生」「愛」「友情」「マザーコンプレックス」「オカルト」「民衆暴走」「魔女狩り」などである。セットが古びた洋館の階段や窓を場面によって方向転換することによって階段が様々な意味をもつのであるが、とりわけ私の興味をひきつけたのはその階段ではなく舞台全体に配置された大きな額縁である。その額縁は既に破壊されてどちらかというと柱のように見えるがL字のものがあることからそれが額縁であることがわかる。額縁が舞台を大きく囲んでいるということは「何か」がそこに収められていたということである。

ミュージカル「プリンス・オブ・ブロードウェイ」ではそうした額縁(こちらは綺麗できちんとした額縁である)の中でハロルド・プリンスが手がけた数々のミュージカルナンバーをパフォーマンスし、進めることによってこれが「ハロルド・プリンスによる過去から未来への回想劇であり、彼自身が数々の名作を美術館で絵を眺めるように見返している」というものであったが、このミュージカル「フランケンシュタイン」では最初から壊れているのである。つまり収められていた「何か」が額縁を破壊して出て行った。脱走した。盗まれた。などが考えられる。その「何か」とは一体なんだろうか?

死の否定は生の否定であるということ
主人公であるビクター・フランケンシュタインは母親が亡くなったことから「ママを生き返らせたい」と強く願うようになり、死体蘇生の方法について熱心に勉強するオカルト研究者な少年になり、科学者になる。そして親友であるアンリが自分の身代わりとなってギロチン処刑された際に彼の首を別の死体と接合し、蘇生(と思われるもの)に成功する。姉が首吊り処刑されたときも姉の死体を持ち帰り、蘇生しようとする。1幕ではビクターが「新世界を作る。創造主になる。新しい生命を作る」と主張して死体蘇生に没頭している様子が描かれるがビクターがやっていることはどちらかというと真逆のことではないだろうか。

1度死んだ人間を生き返らせるということは死そのものを否定することである。つまり、死体を蘇生することは死んだ者を「死んでいない」状態に引き戻すことだ。新しい生命だの何だのと言いながら彼がやっていることは死の否定と過去への執着である。時間は不可逆である。毎日を生きる我々にとって生きていくことは「過去を積み重ねていくこと」であって、逆に言えば「これからあるであろう未来を削り取っていくこと」でもあるだろう。「削り取っていく」という言葉を使ったが、これは寿命のことである。もし自分たちの寿命が永遠にあるような世界がもしあるとしたなら、それはきっとすごくつまらない世界だろう。何故か。生きていてもしょうがないからである。「何かやりたいことがあっても自分は永遠に生きるのだからいつかできるだろう。」そういう惰性しきった世界に違いない。人は死ぬのだから生きるし、生きるから死ぬのである。どちらかだけ。というものではなく、死があるから生があるのである。ビクターのやっていることは死の否定であり。同時に全ての生命の否定である。自己矛盾の境地である。理想を追い続けるが故に真逆のことを成し遂げてしまったのだ。

作品の中にある矛盾と裏表
このミュージカルの中では音楽を使って矛盾を作っている場面で印象的なものがあった。アンリの処刑台へ向かうシーンである。アンリは自分の親友であるビクターの身代わりに自ら進んでなり、処刑される。その処刑台へ向かうところでアンリのソロナンバーが挿入されるのだが、それがまた見事にビクターへの希望と夢を歌うものでそれを歌い上げるアンリはこれから死ぬというのに眩しいくらい彼は満ち足りて輝いている。しかし、その彼が信じている者はビクター・フランケンシュタインとビクター自身の技術、信念であり、それは上記のとおり神の領域に手を出した禁忌である。その矛盾を音楽の力で、まるでそれがさも正しいことであるように誘導されるのだ。どれだけ彼らのやっていることが「正しくない」ことだと思っていたとしても。

先程、生と死の話をしたが、このミュージカルではいくつも矛盾が散りばめられつつ、裏表の話も多く詰められている。1番わかりやすいのが主要キャストのWキャスト構成だろう。アンリと怪物はさておくとして、ビクターとジャック、ジュリアとカトリーヌ、エレンとエヴァを同人物が演じるということについて、それぞれのキャラクターがそれぞれの裏表であることを意識せざるを得ない。理想を追い続けるビクターと 世俗的なジャック。令嬢であるジュリアと人間としても扱われない哀れなカトリーヌ、凛としてビクターに愛情を注いできたエレンと暴力的でがめついエヴァはそれぞれ対照的だ。特にジャックが肉欲的な行動(オーラルセックスを強要する。興奮しながら腰を振るなど)をすることによって、よりビクターによる「生と死の否定」が浮き上がってくるようなものでその構成が上手く出来ていると思う。

薔薇の意味
また美術の話に戻る。今回の作品において舞台セットに薔薇があちこちにさりげなく設置されている(とはいっても真っ赤な薔薇なのでどうしても目をひくが)。この薔薇が唯一ピンスポットで目立つのは姉であるエレンが死に、絶望したビクターが歌うシーンである。赤い薔薇が意味するのは「愛情」である。最初から最後までエレンはビクターを慈しみ、愛した。彼の身を案じ、彼が旅立つときには冬服をカバンに詰めるなどまるで母親のような行動も多い。冬服を詰めるときにはあれこれ彼のことを考えながら詰めただろう。ビクターがアンリを蘇生しようとやっきになっているときに彼に最も声をかけて止めようとしたのもエレンである。1幕ではどちらかというと心配性で少しお節介な姉という印象が強いが、2幕で彼女が死んで薔薇が照らされたときに私はこう感じたのだ。「愛は確かにいつもそこにあった。」と。なにも「愛してるよ」とストレートな言葉を相手に伝えるだけが愛ではない。相手に対して「心配してるよ。大事に思ってるよ。」と思うことも愛だ。その愛はとても身近で、身近すぎるからそれが当たり前になったり、ときには鬱陶しく感じたりもする。そして失ったときに気づくのだ。愛はそこにあったのだと。もうそれは2度と手に入らないことも。

ミュージカル「フランケンシュタイン」における「神」と「主導権」について
「死体を蘇生することは神への冒涜だ。」「創造主となる。」など神に関連した台詞が多く見受けられるのがこのミュージカルの特徴の1つだ。おそらくキリスト教を前提としていると思われる。彼らにとって死ぬことは魂が主の国に行くことであり、生死を決めるのも神である。その神の領域に手を出したのがビクターである。よってアンリが怪物としてこの世に召喚され、ビクターに復讐していく様子は見ようによっては神が身の程知らずな愚か者に天誅を下すために手下として怪物を使っているようにも見える(反響しているような声で怪物が話しているシーンも多かったため)。また、処刑される前のエレンが処刑台へ向かうシーンでは額縁の舞台美術が大きな十字架に見えるようになっていてその姿はさながら磔にされるキリストを彷彿とさせる。本作品が作成された韓国はキリスト教を信仰している人も多いらしいので、この作品を韓国で見た場合、観客が一個体になったときにどういう感情が共有されるのだろうかと思った。

主導権について話題を移す。1幕ではビクターが、2幕では怪物が作品上での主導権を有している。その様子は舞台の上と下の関係性にもよく現れており、見下す者と見上げる者というわかりやすい構図になっていたとも思う。そうした作品を見ながら私は「もし『神』というキャラクターを登場させたらどんな作品になるだろうか。」とも思ったりもした。


まとめる。最初に書いたが、この作品での額縁の意味を考える。
額縁にかつて収められていた「何か」。それは何だろうか。私はそれを「人としての倫理や神への信仰」だと思った。既に倫理観や信仰が崩壊しきった世界でキャラクター達が絶望へと突き進んでいく。そういう物語だと。

また、キャラクター達それぞれのソロナンバーがあり、そのキャラクターの性質や関係性を見てみるとミュージカル「レ・ミゼラブル」にかなり近いものがあるのではないかとも思った。特にジャックとエヴァの夫婦はテナルディエ夫婦を思い起こさせるものだった。

ストーリーや扱っている題材、舞台セットが持つ意味など、個人的にかなり興味深いものであったが脚本の説明不足と説明過剰な部分のバランスが悪いと思った。最初の母親が死亡してビクターがオカルトに傾倒していくのは理解はできる。が、肝心の母親とのエピソードが何も与えられないまま死んでしまうのでそこまで感情移入ができなかった。逆に「怪物なんてそこら中にいる。」「人間の方がよっぽと怪物だ。」と作品の本質そのものである答えをドヤ顔で見栄をきって言われたりもするので(作品の答えは観客達が各々見つけるものであって作品自体がそれを突きつけることは演劇的にナンセンスだと思う。)、正直「そこに時間割くなら別のところに使ってほしい。」と思った。さらに言うとしつこいほどにナンバーが挿入されるのでイントロが流れた瞬間に「おお…今歌うの。」と驚きを覚えるようなミュージカルであったことも書いておこう。おそらくではあるがストーリーのドラマ性とナンバーが上手く噛み合っていないのかもしれない。また数回観たりすると違った感想を覚えるのかもしれないが。

では最後に1つ。怪物はアンリなのか?という話を書いてこの感想文を締めくくりたいと思う。私は怪物は怪物であってアンリではないと考える。最後に怪物がアンリの分身のような言動をとり、ビクターも最後には彼を「アンリ」と呼ぶが、それが怪物がビクターを追い詰めて行くうちに掴んだボンヤリとしたものであり、ビクターはビクターで彼をアンリだと思い込んだ。彼らは2人で共同幻想を見ていたのではないだろうか。かつての友を。かつての自分だったかもしれない誰かを。

なので怪物は私にとってアンリではないのだ。
だって、人は死ぬと永遠に帰ってはこないのだから。