NTlive「エンジェルス・イン・アメリカ 第ニ部 ペレストロイカ」感想 〜 過去から未来へ贈る祝福 〜

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「でも生きてます。」

 

公式サイト

NTLiveラインナップ

 

あらすじ

エイズクライシス真っ只中の1980年代ニューヨーク。ゲイカップルのルイスとプライアー、弁護士であることに固執するロイ・コーン、セックスレスの夫婦であるジョーとハーパー。彼らを取り巻く人間関係や当時のアメリカの社会背景、失望、葛藤、偏見を描く。

 

感想

天使から預言者として与えられた本を返しに行ったプライアーは天使たちに向かってあれやこれやと御託を並べた後に「でも生きてます。」と述べる。天使に「動くな」と警告された上での言葉だ。人類に対して動くな、進歩するな、耐えろという神からの掲示を一言で彼は拒絶する。最愛の人が自分のもとから離れようと、エイズという死の病に侵されながらも彼は生きているとはっきりと言った。

 この1部の感想で私はこの作品のキャラクターたちについて「己にとってより良くあろうと生きてきたはずの人達がまるで球体のパズルを完成させるピースのように思える。そしてその最後の一欠片が埋まらないまま手の中で消えていってしまう病魔の無情さ。」と書いていたのだが2部を観たあとではその最後のピースはこの作品を観ている観客それぞれに与えられていたことに気づく。キャラクターたちが己の内側へと突き進んでいくと思いきや最後には作品の世界を飛び越え、観客の前に立ち、生きていることへの賛美と祝福を与える。「あなたたちは生きている」と。

作品に登場するプライアーをはじめとするキャラクターは0から生まれた創作物ではない。間違いなくあの時代にいた彼らだ。おぞましいほどの数の人間がエイズで命を落とし、それに恐怖し、共に寄り添い絶望と戦った彼らの物語である。あまりにも死と絶望が側にあるクライシスの時代で彼らは死んでいたのではない。命の炎を燃やしながら生きていた。

舞台演劇は生きている人間たちによる共同制作物だ。たとえそれが1人の人間が歩いて別の人間がそれを見ることによって成立する究極の場合であっても生きている人間が演技し、それを生きている人間が見ることでしか舞台演劇は成立しない。物語を書く人も演出や演技をする人たちも生きている。そしてどんなに古い物語や演出プランであったとしても、作者がこの世からいなくなっていたとしても、作品は人間が生きた証拠に他ならない。

HIVの治療法は年々進歩していて同性愛への理解も彼らの時代より進んでいる。だからといってエイズクライシスの時代が消えてなくなったわけではない。今も続く地続きの歴史だ。世界は常に危機に晒されているが、あの時代に生きた彼らからのメッセージを今度は私が未来へと繋いでいきたいと思う。

 

あなたには書く力がある。

偉人や著名人たちによるいわゆる「名言集」というものが好きだ。できれば1人のものではなく多数の人の名言集が望ましい。正確な時期は覚えていないが大学生の頃には3冊の名言集の中から自分の好きな名言を手帳にひたすら書き写したこともあるしその手帳も捨てずに今もとってある。

何故好きかというと1人の人間が書き上げる(とはいっても編集やら何やらで色んな人が関わってはいるものの)ハウツー本や小説では「あぁ、これは今の私向けじゃないな」と思うことが結構あるけれど、名言集はそれこそ大量に色んな人達の言葉が収録されていて、気に入らなければ見なかったことにして読み飛ばせばいいし気に入れば心のメモなり実際の紙のメモなりに記しておくこともできるからだ。どこかに今の自分に必要な言葉がそこに存在してくれていることが多いので何となく不定期に読みたくなることが多い。この前までは全く心に響かなかったのに今読むと泣くほど響くものがあったりして自分の変化に驚くのもまた面白いので気に入った名言集を1冊手元に置いておくことを提案しておく。

また、名言集に収められている短い言葉のリズムや力強さも好きだからという理由もある。そういえば同じ理由で企業広告のキャッチコピー集を読むこともしばしばあるので、いつか自分の好きな言葉集を1冊にまとめておきたい。

 

101人が選ぶ「とっておきの言葉」 (14歳の世渡り術)

101人が選ぶ「とっておきの言葉」 (14歳の世渡り術)

 

 

名言集の話をしたので最近読んだ本を紹介する。14歳向けの本だけれど25歳の私は14歳の私を内包している25歳のはずなので読んだ。今現在さまざまな分野で活躍されている101人が選ぶ「とっておきの言葉」集である。とっておきの言葉だけではなくその言葉についてのエピソードや選んだ理由も記載されていたのがとてもよかった。前向きに前向きな言葉もあれば後ろ向きに前向きな言葉もあるところが好ましい。何個か「これは違う」と読み飛ばした言葉もあるけれど基本的にはどれも心の栄養になる言葉たちだった。ではこの本の中で私が特に響いた言葉を引用させていただく。

 

あなたには書く力がある。

「想い」は、目には見えません。悲しい時、ツライ時、胸のチャックをあけて、家族や友だちに見せられたらいいのに、できません。だれにもわかってもらえません。

  そこで、人は、想いをカタチにして人に通じさせます。これが「表現」です。絵でもダンスでも表現できます。なかでも、見えない想いに「言葉」という見えるカタチを与え、引っぱり出して人や社会に通じさせる行為、これが「文章表現=書くこと」です。

  あなたは書くという「想いをカタチにする装置」を持っている。

  書き続けていれば、いつか伝わる!あなたに理解の花が降ります。あなたは、この現実に、自分の想いにそった未来を書いて創っていくことができます。

「あなたには書く力がある。」

  これは表現教育に捧げる私の人生から出た言葉、あなたに一番伝えたい私の想いです。

 

山田ズーニー

 

この文章に私が言及することは何もない。ただ読んで噛み締めて吸収してほしいだけだ。あなたが日々生み出す言葉はあなたの生きているという何よりの証拠だということを。

 

もしこの言葉が私だけではなくこの記事を読んだ誰かの心の栄養やお守りとなれば嬉しい。いい読書でした。

ミュージカル「FUN HOME ある家族の悲喜劇」感想 〜 私はインクを介して父と対峙する 〜

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公式サイト 『FUN HOME ファン・ホーム ある家族の悲喜劇』

2018年3月4日 13時公演

兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール

原作:アリソン・ベクダル

音楽:ジニーン・テソーリ

脚本・歌詞:リサ・クロン

翻訳:浦辺 千鶴

訳詞:高橋 亜子

演出:小川 絵梨子

 

※この記事には物語の核心に触れるかもしれないネタバレが含まれています

 

あらすじ

アリソンは今43歳の漫画家で彼女はレズビアンである。彼女の父 ブルースはゲイで彼が43歳の時に自殺した。アリソンは自分の人生を漫画に描きながら家族、そして父との想い出を辿っていく

 

感想

この作品の感想を書くにあたって、私がまだ幼かった頃の父との想い出といえば何だろうかと思い返していた。そういえばリビングで眠ってしまった小さな私を父が抱っこして寝室まで運んでくれていたことがある。私はそれが大好きで時々わざと寝たふりをして運んでもらっていた。パジャマ越しに感じる父の体温はいつも温かく、そのときに体臭とも柔軟剤や洗剤の匂いとも違う、父だけが持つ独特の匂いを嗅ぐのがたまらなく好きだった。流石にある程度大きくなるともうやってくれなくなってしまったけれど。
話を本題に移そう。本作品であるミュージカル「FUN HOME ファン・ホーム とある家族の悲喜劇」はあらすじにもあるように主人公である漫画家 アリソンが「父の上で飛んだ時、時々完璧なバランスが取れた瞬間があった。」と飛行機ごっこをしているところから始まる思い出の数々を描きながら辿っていくという回想録形式のものである。しかし、そこにあるのは郷愁感だけではない、客観的な目線で今の自分の年齢から眺めた自分の人生を見つめ直している。ほぼ舞台に出ずっぱりなアリソン(現在)は幼い頃の自分を見て懐かしみ、そしてときには失望しつつ生々しい痛みを覚え、楽しみながら慈しみに満ちた眼差しで自分の人生を漫画に描いているのだ。

彼女は自分に起きた過去の出来事を描いている。「過去は変わらない」というが、実際には「過去は変わらない」のではなく「過去に起きた事実は変わらない」ではないだろうか。つまり「過去の思い出は『自分がどのように見るか』によって常に変化する」ということだ。舞台の上で駆け回るアリソン(幼少期)はまだ自分がレズビアンであることも父親がゲイであることも知らない。だがそれを見つめるアリソン(現在)はそれを知っている。だからこそ「補足説明」と何度も繰り返し「人生の描きなおし」を行なっている。彼女は一体、自分の人生の何を描きなおしたいのか。幼少期に父親と飛行機ごっこをして遊んだことだろうか。家業である葬儀屋の商売道具(棺桶)に潜り込んで遊んでいたことかもしれない。それとも大学生の頃に自覚した自分のセクシャリティのことだろうか。当時の恋人とのセックス。自分の性を受け入れてもらうことの喜び。実は幼少期にとある女性を見て自分の気持ちに既に気づいていたこと。父親がゲイであること。それを知っていた自分の母親。幼少期によく遊んでもらっていたベビーシッターが父親の恋人であったこと。どれだろうか。彼女は描き続ける。時折インクを落としたようなシミ模様が背景に映し出されるのは舞台上で行われている出来事が漫画の原稿用紙の上であることを彷彿とさせる。

そして、このインクの染みが現代のアリソンの足元に広がるシーンが終盤にある。原稿の上(アリソンの人生)で父親の死が近づいている中、苦悩する彼女が「私は絵を描いているだけ、絵を描いているだけ。そうだ、これを描こう。」と家の家具に近づいていくが次々と消えていってしまう。その中で父親であるブルースが自分と向き合うことになる。いつのまにか作者であるアリソンが自分の描いているはずの原稿上にいた。彼女はブルースと共に車に乗り込む。隣同士の2人。私はこのシーンで歌われる「電話線」が1番心に残った。

アリソン

何か言わなきゃ

何かをパパに

次の 次の 次の 信号の

光 光 光の下で聞こう

どんな気持ち? 2人が同じと…

過去に戻ったアリソンは永遠と続く電話線(電線)を車から眺めながらブルースと会話をしようと何度も試みる。次の信号で聞こう。ダメだった。次の信号で聞こう。何でもいいから言おう。私とパパが似ているってことを。

ブルース

新しいプロジェクトに取り掛かったって言ったっけ?150号線のところにある古い家なんだ。見たことあると思うよ。少なくとも四、五十年は空き家のまま放置されてた家だ。

やっと自分のセクシャリティについて少しだけこぼし始めたかと思いきや、すぐに次の家の改装計画について話をし始めるブルース。アリソンは自分のセクシャリティを受け入れて両親にカミングアウトしたがブルースは違った。彼は最後まで1人のゲイとしてではなくあくまでアリソンの父親であろうとした。

アリソン

何か話して

何でもいいから!

2人の生き方は交わることなく平行線をたどっている。まるで永遠と続くような真っ直ぐの電話線のように。しかしその電話線は大学生のアリソンとブルースを繋いだ絆でもある。アリソンがあの場にいたのはこの瞬間を描き直したかったからだ。もし、あのとき何かを言うことができていたら。もし、あのとき父親から何かを言ってもらうことができたなら。「何か話して」と叫ぶ彼女の姿は父親との絆を手繰り寄せたいという真っ直ぐな愛と底のない後悔の哀しみの塊に見えた。

だが、過去に起きた事実は変えられない。どれだけ描き直しても、見つめ直したとしてもブルースは死に、アリソンは1人になる。ただ、少しずつその見方は変わっていく。現代に帰ってきた彼女は再びペンを取り、こう描き始める。

 

「父の上で飛んだ時、時々完璧なバランスが取れた瞬間があった。」

 

また、過去の始まりと終わりがやってくる。

 

1人の人間として家にいた娘アリソンと、家を保つことに執着していた父ブルース。社会の最小構成単位である「家族」を「家」にスポットライトを当てることによって何が浮き彫りになるか。それを観客それぞれにすくい取ってもらうような作品だった。「Home」を「Family」と取るか「House」と取るのか日英の翻訳の難しさが伺える。またアリソンが漫画を描くことを上手く活用して、ペンのインクが点(1人の人間)になり、線(それぞれの人生や絆)が引かれ、円(ブルースの人生の始まりと終わりの場、または輪廻や循環の象徴)に変化して個々のアイデンティティの輪郭をなぞっていくのも観ていて楽しむことができた。各キャストのパフォーマンスもどれもよく、「少数精鋭」という単語がよく似合う洗練されたチームだったようにも思う。彼らは舞台上でその瞬間瞬間を精一杯生きていた。余談だが、「おいでよ ファン・ホーム」のナンバーがジャクソン5の「ABC」にどこか似ているなと感じたのだが前者も後者も1970年代のものだった。もう少しアメリカの文化について学んでいたらそのあたりのノスタルジックな雰囲気を感じ取れたのかもしれない。

ゲイの父親とレズビアンの娘。彼らの関係は一見すると奇妙なものかもしれない。家族に起きた悲喜劇を何度も繰り返すことになろうこの作品は彼女が「自分は何者か」を見つめ直し、探し続ける旅路の物語であり、その根底には父親の存在が必ずあった。迷ったとき、悩んだとき、ペンを取って線を描くとき。原稿用紙に枠線を引くたびに2人の「電話線」が彼女の心の中に現れるのだろう。

この前、久しぶりに自分の父親の顔をまじまじと見てみた。父は少しだけ訝しげな表情をしたあとに「何?」と笑った。目尻にシワがいくつも寄る。あれ、こんなに老けてたっけ。違う。時間が流れて私が成長したんだ。目を閉じて昔のことを思い出してみる。そこにはかつてのアリソンたちと同じように父と遊ぶ幼い私がいた。

多種多様な価値観や物が濁流のごとく大量に流され、消費されていく今。本作品を観て、改めて自分という人間は何処から来ているのかを考えさせられた。生きることは常に難しいがその刹那に確かにある美しいものを思い起こすことは何度だってできる。心に思い浮かべさえすれば、いつだって私たちは会えるのだから。

 

「1月は行く、2月は逃げる」どころじゃなかった

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買ったコートが長め袖で嬉しいの図。急にあったかくなったのでもう着れないと思うと少し寂しい

1月から3月にかけて時間の過ぎる早さをよく「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る」と例えるけれどそんなどころじゃなかった。1月はジャニーズカウントダウンコンサートが楽しすぎて1月後半になるまで気持ちが大晦日と元旦だったし、2月に至っては「逃げる」どころかいつのまにか追い抜かれていて「えっ、もう2月?2月!?え?もう後半!?」と驚いている間に終わってしまった感覚である。3月は仕事で繁忙期に入るので去るどころではなく一瞬で消え去るような予感がしているので危ない。

話題を変えるが以前書いたこの記事(2018年の手帳と2017年の反省 - A Song for you)で目標を立てたので現在の達成率とフィードバックを出したいと思う。

・映画を映画館で見る(1〜4本/月)→1月は見ていないけれど、2月は2回映画館に行ったので△

・本を読む(1〜10冊/月)→2ヶ月間で13冊読んだので◎

・舞台を観たら短文でもいいのでブログに書く→今のところ全部書いてるので◎

・手帳やノートを活用する→読書ログはつけてたので○

・無理に外出しない→2月の週末全部外出してた×

・整理整頓を心がける。または工夫する→比較的片付いていると思うので○

・仕事のスキルアップ→正直わからないけどモチベーションは上がっているので○

・お弁当を持参する→そこそこできてる!○

・ハンドクリームをこまめに塗る→できてるけど手は荒れている○

9項目中7項目は達成しているのでなかなか上出来である。図書館に通うようになって読書量が増えたのはよかった。本がなくても取り寄せしてもらえるしネット予約もできるから超便利。これからも続けたいと思う。ちなみに昨日読み終えたのはこれ

メディア・リテラシー―世界の現場から (岩波新書)

メディア・リテラシー―世界の現場から (岩波新書)

 

毎日の情報獲得ツールがツイッターに偏っているのと自分と情報の関係について学び直したいと思ったので読んだ。18年前のものでSNSのことはほぼ何も書かれていないのだけどそれでも読んで非常に勉強になった。イギリス、カナダ、アメリカで行われている「メディア・リテラシー(次の3つを構成要素とする、複合的な能力のこと。メディアを主体的に読み解く能力。メディアにアクセスし、活用する能力。メディアを通じコミュニケーションする能力。特に、情報の読み手との相互作用的(インタラクティブ) コミュニケーション能力 総務省|放送分野におけるメディアリテラシー) の教育現場や各機関への取材を通してメディアの今までの送り手から読み手という一方的なものではなく相互的なものとしてこれからどうしていけばいいのかということが書かれている。自分が体験したことのないものでない限り、メディアから得た情報は全て2次的なものであることを知っているか否か。その1次から2次に移る際にどんなことが行われているのか(例えば、いつ、どこで、誰が、誰に送っているのか。目的は何か。スポンサーはどこか。どんなお金が動いているのか。その映像や写真、文章はどんなことを「切り取って」いるのか。等々)を意識して情報を得て取捨選択をすることの意味の大切さはこれからもっと重要になっていくのではないかと思っているので読めてよかった。あと言語メディアの限界がもうそこまで来ていてこれからはビジュアル(写真や画像、動画など)についても学んでいかなければならないと既に論じられているのもよかったな。そして次に読みたいのはこれです

 

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)

ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち (光文社新書)

 

 

この前久しぶりに丸一日フルでゆっくりできる日があってドライブしたり家の用事をしたり溜まっていたDVDを見れてようやくひと息つけた感じ。気がつけば休日に予定をガンガン入れてエンジン全開で遊んでしまうのでもう少しバランスをとって休日を過ごしていきたい。やるやる詐欺だった貯金もようやく本腰入れて始めたので目標金額達成できるように頑張ります。

春は浮かれますね。ソワソワしますね。落ち着かないですね。どこか遠くへ行きたくなるのも意味もなく気分が沈んでしまうのも生きるのも死ぬのも嫌になるのは春が多い気がするので自分の機嫌を取りつつ日々を過ごしていきたい。

3月の目標

・節約

・早寝早起き

ツイッターをしすぎない

・録画ドラマの消化 

 ・色んなことのリストアップ


 

映画「グレイテスト・ショーマン」感想 〜 「違う」ことが「同じ」ということ 〜

公式サイト

映画『グレイテスト・ショーマン』オフィシャルサイト

 

監督 マイケル・グレイシー

楽曲 ベンジ・パセック&ジャスティン・ポール

脚本 ジェニー・ビックス、ビル・コンドン

 映画『グレイテスト・ショーマン』 Imagination Trailer - YouTube

あらすじ

P.T.バーナムがサーカス作るよ

 

感想

ここまで観客の感想が絶賛と酷評に分かれているものは今までに見たことがない。ちなみに結論から言うと私はこの映画を好きになると決めたので「グレイテスト・ショーマンは最低の映画だ!」という方にはこの記事はオススメできないが、かといって絶賛しているわけでもないので「グレイテスト・ショーマン最高!」という人にもオススメできないかもしれない…。更に脱線するが本作品の日本プロモーションで「#ショーマン最高 をつけて感想ツイートをしよう!」というものがあり、最高と思った人たちのツイートが公式サイトに自動羅列されるようになっているが個人的にはいただけない。最高と思わなかった人の感想だって感想の1つなのになぁと思うから。でもまぁプロモーションとしては合ってるとも思うので、ただ私向けのプロモーションではなかったということだが。

 

話を本作品の中身について戻す。主人公P.T.バーナムが己の夢を叶えるために剥製展示、フリークスたちによる屋内パフォーマンス(サーカス)、オペラ歌手の公演ツアー、フリークスたちによる屋外テントパフォーマンス(サーカス)と数々の娯楽芸術を手がける物語である。プロデューサーとして自身の船を担保に(実際は海の底に沈んだものだが)銀行融資を受け、人々を楽しませるために奔走する。と書けば聞こえがいいが、唯我独尊で周りの意見に耳を傾けず誰かの立場に立って寄り添うこともせず、好き放題のやりたい放題をしているようにも見える。正直あんまり好きじゃないよバーナム氏。私と彼は友達にはなれないよ。彼の独走っぷりと(マジで人の話聞かない)と、その許され方に脚本の甘さが目立つ。また、実在の人物について描く作品はそのキャラクターの正誤性がよく問われるが、これはあくまで「バーナム氏」をキャラクターに仕立て上げたフィクションのキャラクターだと私は思っているのであまり気にならなかった。(ジャージー・ボーイズでのトミー・デヴィートしかり)

 

「彼ら」の選択

 マイノリティとしての彼らをコンテンツに上げてサーカスでパフォーマンスさせるのはまだいい。オーディションのシーンで色んな人が続々と集まっていく。どうしてあそこで「出ないことを選択した人」が描かれてないのかが気になった。音楽のスピード感でガーーッと進められても…いや、描けよ…みたいなモヤモヤが…。マジョリティの中でも出たい人とそうでない人がいるようにマイノリティの中でも絶対出たくない人っていると思うから。だからもしこの映画を見て無垢な善意からマジョリティの人がマイノリティの人を引きずり出すような意見や行動を生むのではないかという懸念がある。

 

話題を変える。「何か美しいものを見て賞賛すること」と「誰かの傷を指差して嘲笑すること」はある意味ではとても似ていて、ある意味では同じなのかもしれない。安全な位置(マジョリティ側)から他人の傷(あるいは個性、あるいはその人自身)を見て差異化して消費しているのは同じかもしれない。そしてどっちも「楽しい娯楽」になりうる。バーナム氏が「生きた剥製」としてユニークな「フリークス」であるマイノリティを多く集めて「消費対象」に仕立てあげたのはものすごく賢いやり方だと思うが(実際成功してるわけだし)。大衆はわかりやすいものが好きだし。

私が「This Is Me」を好きなのはフリークスが自分たちで「見られる立場」から「見せる立場」に逆転したところや自分たちで選んで舞台に立つことを選んだ。というところで、劇場が「観客とパフォーマーの両者の同意からなる空間である」というのがとても好きだ。つまりこれは楽曲単体で見ると万人共通のものだが、私の中ではそれは違うと思っていて「This Is Me」は彼ら自身のマーチソングであり、そこに加わることはできるけど「これは私たちの歌だ!」と先頭の看板を奪うようなことを色んな人が(マジョリティが)言ってるのはどこか違和感を感じてしまう。私の傷が彼らのものではないように彼らの傷は彼ら自身のものだ。「他の人と自分は違っている」という事実が万人共通の「同じ」ものであったとしても彼らとぴったり「同じ」ことが「違っている」というわけではない。そしてそれはグラデーションでありながらも無意識的に「マジョリティ」と「マイノリティ」に分けられ、その構造が差異を良い意味でも悪い意味でも明確にしてしまう。

さらに「This Is Me」を自意識の歌ではなく多様性賛歌として賞賛していいものかとも思っている。あまりにも配慮がない。舞台パフォーマンスが基本的に肉体を通して行われる以上、私たちはその人の「個性」から逃れることはできない。それが「傷」なのか「唯一無二の武器」なのかは劇場に行って見たとしてもわかることは少ない。レティが仲間を鼓舞し、「これが私(This Is Me)」と舞台に立つことを決めたように、それは消費される側の人が選択することだからだ。消費する側の人々はそれを暗黙のうちに彼らが同意しているとしか思うしかない。怖い。どんなエンタメでも当てはまることだからだ。舞台パフォーマンスではないが現にワインスタイン社の映画を私は楽しんで鑑賞していたし、後になって自分の好きな映画に出ていた女優が彼から被害を受けていたことを知った。私は勝手に「この女優は喜んでこの映画に出ている」と思い込んでいたのだ。また娯楽文化を消費すること自体が明確な差別や攻撃に繋がる可能性がありすぎるほどある。娯楽文化はその構造そのものを逃れられないものとして内包している。

ミュージカルとしての「グレイテスト・ショーマン

現代音楽で彩られるキャッチーなナンバーや目まぐるしく続く華やかなパフォーマンスは観ていて単純に楽しい。特にバーでカーライルとバーナムがボーカルバトルをするナンバー(The Other Side)は最高だった。かっこいい。ザック・エフロンヒュー・ジャックマンと対等に歌い踊るなんてハイスクールミュージカル時代には思わなかったので個人的にはこのナンバーだけでも観に来てよかったなぁと思った。またオペラ歌手のコンサートという名目で行われている「Never Enough」でオペラの歌い方(ベルカント歌唱?)ではなくポップス仕立てになっていたのは少し驚いたがミュージカル全体のことを考えると納得できる。そういえば「実在の人物の物語なのに当時の音楽ではなく現代音楽を使っているのがおかしい」という意見を見たけれど、一昨年にトニー賞各部門をこれでもかというほど受賞したミュージカル「ハミルトン」を見て落ち着いてほしい。日本でやってないしチケット高いけども。「違和感がある」というのはわからなくもないが、現代の人々に送るミュージカルとしては正当法のアプローチではないだろうか。

「This Is Me」において彼らが「見られる立場」から「見せる立場」に逆転することは先程書いたが、それだけではない。このナンバーだけで映画そのものを支配下に置いてしまうほどの強い力を持っている。レティが声をかけて震わせながら「This Is Me」と歌うところでは彼女だけ時間軸は大きく拡張され、他の人たちはゆっくりと回りながらジャンプしている。時間すら超越した彼女はこのナンバーで絶対的な存在になっている。アンサンブルがこのナンバーを歌い上げることによって起こるこの逆転現象は主人公であるP.T.バーナムと彼自身の映画であるはずの「グレイテスト・ショーマン」そのものを霞ませているように感じる。ナンバー単体ならプレゼンのときにキアラが初めてマイクの前で本ナンバーを歌い、その素晴らしさに映画の作成が即決定した。というエピソードとパフォーマンス(動画がある)の方がドラマチックだなぁと個人的には思う。

https://youtu.be/XfOYqVnFVrs

そういえばプロットをナンバーが凌駕している例として同じくミュージカル「コーラス・ライン」の「ONE」が思い浮かんだが、これはアンサンブルたちによるアンサンブルたちの物語なので作品のバランスを崩すことなくむしろ一体となって作品を引き上げているので今回のものとはまた違う。

 

ここから始めよう

この作品では色んな事柄が対比として描かれている。貧しさと裕福、成功と失敗、見るものと見られるもの、娯楽と芸術、光と陰、過去と未来などである。1人の人間を構成する要素が無限大にある限り誰しもが時代状況や環境、立場によって「はぐれもの」として無視されたり攻撃されたりする可能性があり、そしていつでも逆の立場になることだってあるのだ。実は今、この記事を書いている最中だが私は私が怖い。私は私以外の人になれない。きっとこの記事の中でも私の差別的な表現や考えが含まれていると確信しているからだ。これからも私は無意識に、無知によって、時にはよかれと思い込んで人を傷つけてしまうだろう。これは開き直りではない。毎回反省したいし学習したい。私はここからまた始めたいのだ。個性について、差異について、差別について、娯楽と消費について改めて考えていきたい。色んな状況が変化し続ける今だからこそ考えたい。だからこの記事を読んで「それは違うよ」と思った方は是非指摘してほしい。

余談になるが本作品に怒りを表明している人に対して「ミュージカルは楽しんでみるものなのだからある程度のことは目をつぶって見るものだ」という意見をいくつか拝見した。いわゆる現代から見た古典ミュージカルが「明るく楽しく観れるもの」(ハッピーなラブコメディ)がとりわけ多く、ミュージカルのイメージもそこから脱却しきれていないことがわかる。だが実際は全く違う(あくまで「個人的なミュージカルの楽しみ方」というものであれば全く問題ないけれど)。実際に起きた冤罪事件がテーマの「パレード」、家族内の問題を扱った「Next to Normal」、エイズクライシスや貧困を扱った「RENT」など他にも人種問題や偏見、貧富の差や社会問題について取り上げている作品は多い。「ミュージカルは明るく楽しく観れるもの」から変化してきた結果である。これを否定することはミュージカルの歴史を否定することに他ならない。私はそれこそ明るく楽しいミュージカルも好きだが、今「グレイテスト・ショーマン」に関して起きている反応を「ミュージカルは楽しんで見るものだから違うでしょ」と一蹴するのはあまりにも暴論だと思う。新作として出される作品がどのように捉えられているのか。観客の視点は今の世界を反映しているのだから。

色々書いたがあまり褒めてないことに気づいたので褒めつつまとめることにする。パフォーマンスナンバーはどれも豪華で見ていてワクワクするようなものばかりで大好きだ。ザックがかっこいい。みんなかっこいい。しかし脚本の甘さが目立つ。扱っているテーマへの配慮が足りないとも思うがそれを含めた「娯楽と消費」について問題提議をしているのかもしれない。

 

なんかまとまってないし私は自分の考え方を信頼していないのですぐに消すかも

 

 

グレイテスト・ショーマン(サウンドトラック)

グレイテスト・ショーマン(サウンドトラック)

 

 





 

舞台「TERROR テロ」感想 〜しかし、それが問題なのです 〜

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公式サイト
TERROR テロ| PARCO STAGE

2018年2月17日 14時公演
兵庫県立芸術文化センター 阪急中ホール

作 フェルディナント・フォン・シーラッハ
翻訳 酒寄進一
演出 森新太郎

出演 橋爪功今井朋彦、松下洸平、前田亜季堀部圭亮原田大輔、神野三鈴

※この記事の中には物語の核心に触れるかもしれないネタバレが含まれています

あらすじ

164人が乗った旅客機がテロリストによってハイジャックされた。標的は7万人収容のサッカースタジアムでその日は満員だった。空軍パイロットである少佐は旅客機を撃墜し、乗客の生存者はゼロだった。少佐は逮捕され今日がその裁判である。罪名は「殺人罪」しかも「大量殺人」である。参審員は証言や弁論を見て少佐が有罪か無罪に決めることになり、その結果がそのまま判決結果となる。生命の重さとは何か。人間の尊厳とは何か。法治国家で生きるということは何か。

 

感想
今作品を鑑賞する全観客が参審員として投票することができる。赤い紙(上画像)を有罪か無罪の箱に入れ、それらは集計され、判決結果となる。有罪と無罪とでエンディングが異なるのがこの作品の最大の面白さだろう。作品の物語の行方に直接関わることができる舞台作品は数少ない。投票するときに少しだけ浮き足立ったような観客席を観ていると微笑ましくもなり同時に嫌悪感をも抱く。ドンドンと箱に放り込まれる有罪と無罪は舞台上というフィクションでありながら目の前の現実で行われている裁判の結果を左右するものになる。

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観ていてこれほど苦しいと思ったのはいつぶりだろうか。この作品はトロッコ問題などで既に度々話題に登る「生命の重さはその人数に比例するのか」という究極の問題だけではない。それまでの過程、結果、そして今ある現実とこれから先の未来について考えさせられるものだ。我々は法治国家の下で生きているがそれがどんな意味であるかということを問われる。同時にパイロットの少佐のように決断を迫られる。彼は有罪か無罪かと。容赦なく彼が白か黒であるかの判断をしなくてはならない。その思いはどうであれ彼を有罪とすることは7万人の命を164人よりも重いものであるという意思表示であり、彼を無罪とすることは7万人のためなら164人を犠牲にしても仕方がないというものである。どちらかに判断を下すことによって私はこの手で、明確に人の生命のために別の生命を犠牲にした。生命の重さを測ることなんて不可能だ。1人1人の人生が別のものである以上それらは統合して計算できるものではないからである。だとしても今、目の前で飛んでいる飛行機を撃墜したら7万人を救えるとしたら。どうだろうか。

もしそのどちらかに自分の大切な人がいたら?

検事はスタジアムにいる7万人が15分あれば全員避難できたこと、旅客機にいた乗客がコックピットに乗り込もうとしていたこと、人間のモラルの脆弱性を指摘した上で、憲法の在り方と法治国家の原則について述べる。

弁護人は少佐が己のしたことを認めていることや小さな悪が大きな悪を倒すためにはやむを得ないこと、過去の前例でそういったことは度々行われてきたこと、人間の正義とは何か、検事の弁論を聞いた上で人間の尊厳とは何かと述べる。

どちらもある意味では正しい、どちらもある意味では正しくない

どちらにしても誰かを犠牲にしたという傷は我々に残ることになるのだ。

 

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もしどちらかに自分の大切な人がいたら?

コックピットに乗客が乗り込み、テロリストを抑え込むことができたら?

スタジアムへ避難勧告がされ、7万人が全員避難できていたとしたら?

自分がパイロットだったら?

弁護士だったら?検事だったら?

被害者の遺族だったら?

近い過去に同様の事件が現実で日本で起こっていたとしたら?

 

人間は完璧ではない。矛盾する生き物だ。だからこそ裁判制度がある。だからこそ考えを積み重ね、何が正しいものであるかどうかの基準を作ってきた。それが法だ。でも人間が完璧ではないように法律も完璧ではない。その基準さえも時には揺らぎ、覆され、変化していくものであることを知っておかなければならない。ケースバイケースの限界、感情を抜きにして判断することの困難さを学ばなくてはならない。

そうです。観ていてすごく辛いのです。

己のモラルの甘さとそれでも人を裁かなければならない苦しみを味わい、噛み締めながら鑑賞し、票を投じた上でまた明日からもこの法治国家のもとで生きなければならないからだ。私は良い作品を観た後は世の中が少しだけ違って見えるがこれはちょっと色んな意味で重くのしかかるものだった。突き詰めればどこまでも命題は広がっていく、軍を国が持つことについて、警備について、武装することについて、法律、憲法、人間とは何か。観ながら心臓をギリギリと締め上げられているような苦しさを覚えた。

 

キャストについて触れておく。見事だった。「天秤」という言葉が何度も使われる本作品において役者達のパワーバランスの取り方の難しさは他の作品とは大きく違うだろう。どちらか片方に寄ってしまうとたちまちそれはただの裁判ショーとなってしまうからだ。観客も偏ったどちらかを前提として鑑賞してしまうだろう。どちらかがどちらかを潰そうとするわけでもなく、少しだけ脚本に無理があるような気もしないでもないが(「もしコックピット内に乗客が乗り込んでいたとしたら?」を問い詰めていくと「もしスタジアムに10万人を殺すテロリストが潜伏していたとしたら?」も考えていかない気もするしそれを考えるのは不可能で現実的ではないからである)、バランスよく、それでいて力強く観客、もとい参審員に訴えかけるその芯のぶれなさがよかった。全員よかった。全部このクオリティで芝居が観たい。あと明日も観たいけど予定があるので悲しい。

 

では次に舞台芸術や演出について書いておく。

客電は完全に消灯されずにぼんやりとついたまま舞台は進んでいく。途中途中で微妙にその明暗を調節しているのが上手い。暗いときには気づけば証人の証言と頭の中で展開される物語に引き込まれてしまうし、明るくなるとハッと我に帰り、現実と向き合う姿勢を取り戻すことができる。舞台美術はシンプルに半円形の構造で椅子と机があるだけなので「ここがどこか」を曖昧にしておくにはいいなと思った。そうすることで観客が各々の想像で補い、ぞれぞれの心の中で法廷が開かれる。背面にあるスクリーンで評決や休廷などの表示、判定結果が数字で出るのも見ていて楽しいのでこれはこれでアリだと思うがもっと小さな劇場だと浮くかもしれない。パルコと阪急中ホールの両方で観た人の意見が聞きたい。音響も実際の音かどうかわからないほどのノイズを入れているのが実に上手いが気が散るのでムムムと思いつつ「でも沈黙の中でクーラーの空調音がやけに大きく聞こえるときとかって確かにあるよなあ」とも思った。好き嫌いが別れるかもしれない。

何度も書くが、私は人の生命の重さを人数で測ることはできないと思っている。それと同時に目の前で見知らぬ生命が奪われようとしたときに傍観者でいることも難しいとも思っている。そしてそれはそのときにならないと判断ができず、どちらを選んだとしても一生後悔することになるだろうとも思っている。相反する感情が常に同居している中で倫理観はいつだって不安定でボロボロのままだ。自己中心的で偽善者、傲慢で不寛容だ。それでいて無自覚に自分がいいと思う方向に正しさを求めてしまっている。

 

声を小さくして書くが、私はきっとこの舞台を観るのに向いていないのだと思う。感情を抑えて客観的に、冷静に観ることができなかったからだ。途中で何度も泣いたし検事が人のモラルについて語っている場面ではあまりにも自分の心の弱さに堪え兼ねて「もうやめてくれ」と思うほどだった。どちらを選択しても残るだろう傷と後悔を考えると胸が引き裂かれそうになる。もうちょっと「さて、どっちに投票してやろうかな!」くらいの姿勢で見れたらよかったのかもしれない。ううう辛い。

 

兵庫県立芸術文化センターでは本日と明日の2回公演、本日は無罪判定だったが明日はどうなるのかが楽しみである。

 

人の心を同じ人の心が裁くのはなんて難しいんだろう。2020年の東京オリンピックを目前にした今、世界中で行われている「テロ」という言葉がもたらす脅威とは一体なんだろうか。面白かったです。

キラキラ女子にはなれないけれど

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25歳になった。誕生日の前の日に親友と過ごして「25歳とはなんぞや」という議題から飛躍して最終的にはピタゴラスイッチの音真似をしてゲラゲラ笑っていたので今年も来年もそんな風にして過ごせていけたらと思う。それにしても「25歳」ってすごいリアルだ。これは別にいわゆる私もとうとう「アラサー」入りしたというものではなく、自分の母親が私を身ごもった年齢であるということが大きいのだと思う。そういえば「アラサー」も「負け犬」も「草食男子」も「悟り世代」も言葉が生まれるまで世の中には存在していなかったのは実に興味深い。概念から言葉が生まれるのではなく言葉から概念や生まれて一般認知されて使われいく様子は名付けによる効力の大きさを感じる。「草食男子」という言葉が生まれる前にいたのは「恋愛に対してあまり興味がない男性」や「自分から女性にアプローチしない男性」くらいなものだったのに今では「草食だから」と一括りにされてしまうこの簡便さ。ぼんやりとしたイメージを持ってレッテル貼りとグループ分けをして言葉が使い捨てられていく時代の速さには少し恐ろしいものがある。

随分と話がそれたので元に戻す。同級生たちと集まると出てくるのは大体仕事の話が多いのだけど、既に役職が与えられていたり新人の教育係になったいたりして集まるたびに私は感心してしまう。幸か不幸か、私は職場では1番下っ端でこれからも少なくとも数年間はそうなんだろうという立ち位置なので上下関係や後輩指導についての苦労を聞くと「すごいね。大変そう。」となるだけでまるで実感がない。だけどそれとは別に「もうそんな歳か。」としみじみしてしまう。結婚や住宅ローン、介護の話だって現実の問題として話題にバンバンあがるようになってきた。突然訪れるモラトリアムの終結。驚きである。私は高校生の頃、漠然と大学3年生になれば自分の人生をコントロールできるような大人になっているはずだと思って生きてきた。ところがいざ大学3年生になってみるとそんなことは全然なくて23歳になればなれるかなと思っていた。そして悲しいことに23歳のときには今まで生きてきて1番苦しい時期を経験したのでこのイメージはそろそろ捨てないといけないとは思っているけれど25歳になった今、27歳になれば大人になれるんじゃないかなとも思っている。多分、本当に大人になれるとは思っていなくて自分の人生を2〜3年周期で契約し直しているだけなんだろう。あともう少し生きてみようと。

 

24歳だった1年間は内面的にも外面的にも激動のものだった。まず日常の大部分を占める仕事を変えたので生活リズムが一変したし夢だった職業なので毎日それなりに楽しく仕事ができていることは幸福だ。今の職場では誰も私のことを「生意気」とか「可愛げがない」とか言わないし適切に指導してくれるので本当にありがたい。内面的には自分の中にある偏見やプライドを芯から打ち壊して再構築するようなものであれだけ嫌悪していた「女性らしさ」や「ピンク」と和解することができた。(私がピンクと和解した日 - A Song for you)長年、リア充しか行っちゃいけないと思い込んでいたディズニーランドに行って心から楽しむことができた。(魔法のことばはビビディバビディブー - A Song for you)会う人会う人に変わったねと言われるようになった。丸くなったね。肩の荷が下りた感じ。そうですか? 自分ではそう思ってるかもしれないけれど私は今のあなたの方が好きだよ。そっか。ありがとうございます。

何度も何度もブログでもツイッターでも書いているが私は自己評価が著しく低く、自己嫌悪に陥りやすい性格である。そうした方が楽だったからだ。自分のハードルを下げて期待値も下げていた方が何かあったときに落胆することも少ないからそうして生きてきた。だが23のときにその生き方にガタがきてあれよあれよと言う間に身体も心もボロボロになって「自殺しよう」とドラッグストアに行って睡眠薬を大量に買い込んで手首を切る計画まで立てたりしてそのままパニックになって退職した。前職で関わった人たちには今でも申し訳ないなぁという気持ちがあるけれどお互い忘れた方がいいのかもしれない。あれ、23のときの話になってる。

さて、24のときに失った何かを取り戻すかのように色んなことに手を出した。「似合わない」とか「らしくない」とか周りの人や内なる自分に言われてももうどうでもよかった。したいことはとりあえずやってみて合わなかったらやめる。くらいの姿勢の方がずっとずっと楽しい。私の生き方は私で決める。自由に伴う責任を持つ。これでいいじゃないか。周りの人がどう言おうと賃金が発生したり上がるわけでもないし私の未来について責任を持ってくれるわけでもないのだから。まだ完全にではないけれどそう思えるようになったのが24歳のときの話。

 

話題を変える。冒頭でレッテルやグループ分けの話をしたが、個人的に「キラキラ女子」について触れておかないといけない気がするので書く。私はオタクである。それも筋金入りのオタクなので最早ジャンルがどうこうとかではなく考え方や思考がオタクだ。何を好きになってもオタクになる。確か目覚めたのが思春期真っ只中の頃だったので自己表現とストレス発散の場をオタクライフに向けた。好きなことだけをしてキャーキャーする生活のなんと楽しいことか。まだ今よりもそこまでアニメや漫画の文化が市民権を得ているような時代ではなかったけれど、しょこたん腐女子彼女、電車男などのオタク達のコンテンツが徐々に登場していた時代でもあったのでそこまで「オタクきもい」のような扱いを受けたことはなかったが自意識過剰だったので「オタクな私は他の人とは違うんだ」とものの見事に色んなものをこじらせたまま成長した。「リア充爆発しろ」というネットスラングが大流行していたのもあると思う。「オタクはリア充ではない。」という見解が共通認識としてあったような気がする。実際のところはよく知らない。

 

今になってわかったことだが「私はキラキラ女子にはなれない」ということである。先程オタクについての話を書いたので誤解されないようにしたいのだが「オタク≠キラキラ」では決してない。オタクでもキラキラ女子は沢山いる。昔の私に言うときっとビックリするだろうが本当にいっぱいいる。じゃあなんで「私はキラキラ女子になれない」のかと言うとそういう人間だからである。まずキラキラ女子とはという定義が色んな人にあると思うがそんなに食い違っていない気がするのでその辺のことはわざと曖昧にして話を進めることにしよう。キラキラ女子ではない私は彼女たちと同じことをしても根本的なものが違うのである。行動原理や思考が違うので得られるものもおそらく異なっているものだろう。私はどちらかというと人付き合いが苦手で1人行動が大好きなのでその分「誰かと過ごす時間」をないがしろにしてきたのかもしれないなという不安がある。1人で行った東京もロンドンも筆舌しがたいほど多くのものを私に与えてくれたけれど「これでいいのかな」とふと我に返ったときに僅かながらゾッとしたりもする。

 

過去には戻れない。過去はやり直せない。高校生の時にもっと真面目で熱心な部活に入っていたら、大学生のときにサークルに入っていたら、もっと明るくて元気で素直でキラキラした人に私はなれていたのだろうか。戻れない過去をようやく受け止めるようにはなってきたけれどまだまだ自分がなれない人たちに対して羨望と嫉妬の念がある。

 

でもそれでいいじゃないか。私はキラキラ女子にはなれないけれど彼女たちのことは好きだ。共感できなくても理解してみようと思う。可愛いものを綺麗に身につけて楽しそうなことを一緒にしたりそれぞれで満喫しましょう。だってあなたたちは私の敵ではないのだから。キラキラ女子がこちらに手を振っていたら同じように手を振り返そう。だって私たちは友達になれるのだから。私とあなたたちは違う人間だけれど当たり前のことで好きなことが少しずつ違う1人1人の人間であるということは同じだから。悪意や憎しみで攻撃することは論外だけど、私たちを誰も何も否定することなんてできない。あなたは最高に素敵な人であることはまず間違いないし私だってもしかしたら同じくらい素敵なのかもしれない。それでいいんじゃないかな。たまに会ったりお別れしたりいっぱい笑ったり泣いたり怒ったりしましょう。私はキラキラ女子にはなれないけれど私なりに不器用なやり方で自分を応援することにしました。

 

私へ。25歳の誕生日おめでとう