ミュージカル「マチルダ」感想 〜貴方は私の"奇跡"〜

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ミュージカル「マチルダ

原作:ロアルド・ダール「マチルダは小さな大天才」

脚本:デニス・ケリー

音楽・歌詞:ティム・ミンチン

脚色・演出:マシュー・ウォーチャス

振付:ピーター・ダーリング

デザイン:ロブ・ハウウェル

 

※この記事はストーリーのネタバレを含みます

 

ミュージカル「マチルダ」を観るのは、かれこれ5回目である。ロンドンのケンブリッジシアターで1回、韓国のLGアートセンターで1回、そして東急シアターオーブで1回(プレビュー初日初回公演)、梅田芸術劇場で2回(うち1回は大千穐楽)。原作の児童小説は中学生のときに読み私のバイブルと化し、ミュージカルアルバムは自分の結婚式でも流し、Netflixの映画版は公開日に見た。それくらい好きだ。人生の節目節目で「我慢したって何も変わらない。行動しなくちゃ。」と自身を鼓舞するマチルダというキャラクターに何度も何度も救われてきた。だからこそ日本版を上演すると聞いた時には、胸がはちきれんばかりの嬉しさがあった。マチルダが!日本で観れる!!!そして観た!!!!プレビュー初日初回も観たし大千穐楽も観たよ!!!!!そして、その嬉しさを裏切らない日本版カンパニーの統率が取れた迫力のあるパフォーマンスは本当に素晴らしかった!どのキャストもマチルダの物語を伝えようと同じ方向を向いているのがひしひしと感じられるカンパニーだったと思う。今から既に再演を願ってならない。

 

さて、「生まれてくる全ての生命は"奇跡"だ」と人生の肯定と親バカへのシニカルな目線から始まる物語は、皮肉が満載だが同時に人が持つ愛情に溢れている。そしてその物語はキャラクター達が個々に持つ物語と複雑に絡み合って悪に立ち向かう。このミュージカルが面白いのは原作小説の解釈と再構成をしていることだろう。最初の親バカソング(奇跡/Miracle)は原作小説の最初に登場するダール節がたっぷりと効いた皮肉まみれのものであるが、そこに生命の尊さを足して二重の意味にしていることや「Miracle(奇跡)」の単語がこの作品においてキーワードになることが目配せされていたり、マチルダが「行動しなきゃ」と決意する歌(Naughty/ちょっと悪い子)も原作のこの文章から来ている。

もうひとつ、彼女が怒っていたのは、ひっきりなしに、おまえは物知らずだ、ばかたと言われることだった。彼女は、自分がそのどちらでもないことを知っていた。体の中の怒りは、どんどん煮えたぎっていき、その夜、ベッドに横たわって、マチルダは心に決めた。

父親か母親がつらくあたるたびに、なんらかの方法で仕返しすることにしたのだ。一つ二つのささやかな勝利でいい。それは、彼女が、親たちのばかな言動をがまんするのに役立つだろう。気が狂うのを防ぐだろう。

(訳:宮下嶺夫)

チルダが持つ煮えたぎる怒りを言葉遊びと韻踏みを存分に散りばめつつ可愛らしく仕上げたこの曲が私はそれは、それはもう好きで、結婚式でも流すほど好きだ。「人魚のプリンセスは…(オリジナルの英語歌詞では「ジャックとジルは…」)から始まり、マチルダが読書によって世界を旅し、知識をつけ、それらで得た経験をもとに行動するのも良い。歌詞に色んな本を登場させることによって、本から色んなことを知った彼女が「でも私は本の中のキャラクターではない。自分で自分の物語を変えられる。小さくても大きなことが沢山できる。ちょっとだけやんちゃ(Naughty)になればね。」と歌うのがこれまた良い。観客は「マチルダ」という物語を目撃しているときに「でも私(観客である我々)は物語を変えられる」というメッセージを受け取る。

「原作小説の再構成」と書いたのでそちらにも触れておきたい。今ミュージカルの核を担うマチルダがミセス・フェルプス(図書司書)に自分で創作したお話をするシーンが何度もあるが、このシーンはミュージカルオリジナルのもので原作にはないシーンだ。「読書」という行為の「物語」に焦点を当てた再構成である。マチルダの担任であるミス・ハニーもミュージカルではお話をするシーンを多用することによってマチルダと重ね合わせるように描かれているが、原作ではそこまでマチルダとミス・ハニーの相似しているところは描かれていない。ミュージカル版は間違いなく大人も感情移入して見られるように作られているのだ。そう、ミス・ハニーと同じようにかつての子どもだった我々にも向けて作られている。

人間は最初、子どもとして生まれ育ち、やがて大人になる。子どもじゃなかった大人は存在しない。ミュージカル「マチルダ」は今現在の子どもは勿論、ミス・ハニーの過去の出来事を通して我々さえも救い出す。全ての生命は尊いものであると。

チルダやミス・ハニー以外のキャラクターも魅了たっぷりだ。彼らはまるでクエンティン・ブレイクの挿絵が飛び出したようなカラフルで見た目も面白く、このミュージカルの魅力の一つとなっている。特にトランチブル校長はヴィラン(悪役)として見た目の説得力が凄い。ただそれだけではなく、マチルダの髪の毛がボサボサ(彼女はネグレクトを受けている)だったりと細かなところも丁寧に描かれているのにもこれまた唸ってしまう。

舞台芸術も素晴らしい。まるでマチルダの脳内から物語が溢れ出したようにアルファベットの積み木が舞台空間をぐるりと取り囲むようになっているのだが、少しずつ単語が並んでいたりして見ていて飽きない。スクールソングでは学校の掟を上級生がアルファベットにのせて歌う(この曲の訳詞は凄まじく難しいことが容易に予想されるが訳詞担当の高橋亜子さんは見事に日本語歌詞としてこの曲を昇華させている)が、ここでも積み木が効果的に使われていて見どころたっぷりだ。アクロバットさながらのパフォーマンスと韻踏みの連続がとても楽しい。

ティム・ミンチンによる音楽も大好きだ。マチルダが怒りを感じている時に何度も流れてる音楽は「Silent」のイントロであり、彼女の脳内が怒りが荒々しい波のように蠢いているのがわかるし、最初の曲である「奇跡(Miracle)」で何度も歌われる「ママが言う私、"奇跡"(My mummy says I'm a miracle)」もあちこちで使われており、親から子への愛情がお守りのように作品の芯として機能しているのも毎回毎回胸を打つ。

チルダとミス・ハニーは最後、2人で素敵なお屋敷に帰っていく、屋敷はボンヤリと浮かんでおり、私はそれを観て「あぁ、彼女たちが"本の中に帰っていく"」と感じるのだが、それは決して別れではないのだとも思う。我々はふとした時にマチルダやミス・ハニーたちに会う。怒りを覚えた時に我慢するだけではダメ、行動しなきゃと自身を奮い立たせる時、人と触れ合う時には愛情と敬意を持たなければならないと思う時、このクソムカつく時代に反逆者として生きなければならない時に彼らに会うのだ。

本当に日本上演が叶ったことが私は嬉しい。マチルダを観た子どもたちがどんな風に成長していくのが楽しみでもあるし、大人たちがどんな風にマチルダの物語を受け取ったのかも非常に気になる。

貴方も"奇跡"なんだよ。

 

 

 

アイデンティティが見つからない(追記あり)

5/21の日記。

タイトル通りである。自分のアイデンティティが見つからない。そのことが私自身を苦しめている。「自分にとってネガティブなことや、マイナスなことはインターネットにあまり書かないようにする」と書いたのはいつのことだったか思い出せないが、今日は書くことにする。すぐに消すかもしれない。

引っ越してから、常にどこかうっすらと暗い気持ちがある。そう書くと、夫はさぞかし悲しむだろうが事実である。そしてどこかうっすらと暗い気持ちがあるのと同様に、毎日をなんとか過ごせるくらいは嬉しいことや楽しいこともあるのだ。ただ、なんとなく毎日を過ごしていく中で、自分の輪郭が段々と滲んでぼやけていくような、自分が自分でなくなるような、というかそもそも自分とは何だったのかわからなくなってしまう。それが悲しい。

20代前半あたりまでは「自分は特別な人間で何者かになる」のような妙な(若いとも、世間知らずともいう)プライドと承認欲求があり、必死に自分という人間を形作るピースを探しては世界に埋め込んでいたように思う。常に誰かに認められたくてTwitter廃人になりかけた日々もあったし、今思い出しても穴を掘りたくなるような言動は数えきれないほどある。好きな漫画や映画を見つけて盛んにツイートしていたときは常に楽しかったし安心していた。「これが私だ。」と思った。○○が好きな私、舞台が好きな私、映画が好きな私。誰に強制されたわけでもない。私が見つけた私自身だ。そのことが嬉しく、そして誇らしかった。○○オタクな自分が好きだった。

だが、夫に出会い、結婚し、引っ越した。世界はコロナ禍前と後に分けられ、私は趣味にかける熱が少しずつ薄れていき、最近では過去にTwitterでフォローした趣味関連のアカウントをリムーブしている。ロンドンの劇場アカウントを、ブロードウェイのニュースアカウントを、日本の演劇制作アカウントを、少しずつTLで見かけるたびにリムーブしている。興味のなくなったアカウントをリムーブするのはさして珍しくもない行動だとは思うが(そしてTLの先鋭たちが情報をRTしたり流してくれるので信頼しているのもある)、私にとっては自分の血肉を1枚ずつ削っていくようなものだった。嫌いではないが、もう好きではなくなったものに別れを告げていくのは、同時に「○○好きな自分」と別れることであり、自分が自分でいられる土台を自ら崩しているのと同意義だ。

夫の地元に引っ越してから私のことを旧姓で呼ぶ人はいない。名前で呼ぶ人も少ない。万が一、夫と離婚したら私はこの土地では暮らせないだろう。職場は良い人ばかりだが、結婚前の私を知る人はいない。今までがむしゃらにかき集めてきた「私」を構成するパーツをあっという間にベリベリと色んなものを剥ぎ取られて、自分が透明人間にでもなった気がする。

結婚したことに1ミリも後悔はない。引っ越したことにも後悔はない。毎日夫と過ごせるのは嬉しく、幸せに満ちた日々だ。ただ、それでも、この場所では、私はただの私ではなく、夫の妻であるという言葉が頭につく(苗字が変わってしまったのだから当たり前ではあるが)。仮に今、地元に帰ったとしても、過去の私を知る人も少なく、今の私を知る人もいないのだろう。実際、実の両親でさえいまだに私を「気難しく頑固で愛想のない子」として見て(心配して)いる。社会人スキルとして社交辞令と営業スマイルを必要最低限身につけていることを伝えても、だ。親にとって子はいくつになっても子である。彼らにとっては私はいつまでも口を尖らせてむくれた表情をしている幼児なのである。

上記のことから、私は私を形作るものがない、今の状況に苦しんでいる。ステータスも何も関係なく、私は私という人間で、存在しているだけで価値があり、尊い人間なのだ。という言葉は思い浮かぶが、何の実感もないまま胸の中にぶら下がっている。いくら私の中を探しても「私」が見つからないのである。このまま消えていくんじゃないか。私なんか存在してもしなくても、ここからいなくなってもいいのではないか。必要とされていないのではないか。だって、私には何もない。そんなふうに、私と世界を繋ぎ止めているものが毎日プツリプツリと糸を切るように薄くなっていく、そのことが末恐ろしかった。

そんなことない、と周りの人は否定してくれるだろうか。叱ってくれるだろうか。叱ってくれ。ここ最近の、自身への馬鹿馬鹿しいほどの悲観的な目線をどうにかしたい。カウンセリングとか行った方がいいのかもしれない。

この記事はいつかの私にとっての灯台になるのだろうか。すぐに消すかもしれない。念のために書いておくが、毎日の生活に特に不満はなく、日々それなりに楽しく過ごしており、来月には旅行も控えているしハッピーです。だからこそ常に自分の胸の奥底にある、このやっかいな感情をどうにかしたいのだ。私のアイデンティティよ。貴様はどこにいる。

 

5/25 追記

あれからグルグルと色んなことを考え、「また少しずつ少しずつ自分らしさを積みあげて形を確認しながら生きていくしかないのだろう」という結論になった。この「何もない私」もまた私なのだから。

箇条書きの備忘録

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「ね!」とでも言いたげな表情のクマ。

・現在、移動中の電車内にいる。人が多い。新型コロナ感染症の分類が5類に変わり、マスクの着用についても個人判断に任されるようになったからだろうか。私の職場に設置してあったアクリル板も撤去され、同僚や上司の何名かはマスクを外して業務を行っている。上司の上司(要は偉いさんたち)は、どこそこの役員会議だ懇親会だとバタバタ外出することが多くなった。この前行ったライブは「マスク着用をして」という条件はあったが、声出しが解禁されていたり、入り口の検温もなくなっていたりしていた。メディアではしきりに「コロナ禍前の賑わいが戻ってきた」と騒いでいるが、コロナ禍前になることは絶対にないだろうと個人的には思う。亡くなった人には2度と会えないから。感染症に対する各国の対応や計画なども様変わりしているだろうし、いわゆる「遠征」が必要なエンタメ(観劇、コンサート、ライブ等)は息を吹き返しつつも1度離れてしまった消費層を元のように取り戻すには時間もお金もかかるだろう。実際のところ、私はもう「観劇クラスタ」や「観劇オタク」を自称することをやめている。(これは今現在の私の気持ちからくる行動で、また「舞台大好き!」のようなオタクムーブがいつ来るのかはわからない。来るのかもしれないし来ないのかもしれない。)そして多分、Twitterのタイムラインを埋め尽くす人々からすれば私は「舞台好き」ですらないのかもしれない。

・2023 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)があまりにもドラマティックな物語として出来上がりすぎていたのは周知の事実であるが、今まで作られてきた全ての創作を完膚なきまでに叩きのめす「現実」の力強さに、創作好きな私はどこかピシャリと頰を叩かれたような気分になっている。生きている人間が1番ドラマだ。

・山登りがしたい。普段はプランクを30秒キープするのすらゼェハァしている私であるが山登りがしたい。出来れば今年度中に日本百名山と呼ばれる名だたる山々のうち3山(山の数え方は「山」とか「座」というらしい。今知った。)くらいは登ってみたい。

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一生のうちで、オオカミに出会える人はほんのひとにぎりにすぎないのかもしれない。だが、出会える、出会えないは別にして、同じ地球上のどこかにオオカミの住んでいる世界があるということ、また、それを認識できるということは、とても貴重なことのように思える。それはもちろんオオカミだけに限ったことではない。

星野道夫展で購入した図録に収録されていたエッセイの一文だ。私も「美しい日本アルプスが今もなお存在していて、私が望みさえすれば行くことができる」という事実を認識しながら、その事実を支えにして生きている節がある。山に登りたい。ここではない何処かに行きたい。

 

 

 

なんとなくの備忘録

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帰省先から我が家に帰る道中である。高速道路は混むだろうといつもとは違うルートを選んだらそれが裏目に出て、かえって時間がかかる結果になってしまった。まぁ特に予定もないのでいいけども。

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3ヶ月ぶりの地元は初夏を迎えて輝くばかりの新緑と花と海で満たされていて、シンプルに「美しいな」と感動するには十分すぎるくらいだった。離れてわかる自然の豊かさとそのありがたさよ。数年前から始まる観光ブームで開発が進む地元だけれど、そこかしこにある自然と波音と潮風は何も変わらない。綺麗だなと思う。逆を言えば、綺麗だなと思えるようになった。都会的な刺激がまるでない故郷は、幼い私にとって閉鎖的で退屈で牢屋のようにさえ感じていたから。この歳になって穏やかな気持ちで地元で過ごせるのはありがたい。

亡き祖父の墓参りと墓掃除をしたり、4年ぶりに開催されたらしい地元の春祭りの話を聞いたり話したりして忘れかけていた方言と訛りがあっという間に戻る。それにしても地元のコミュニケーションのストレートさには驚く、私が仕事関係や浅い人間関係の人に会わないのもあるが、社交辞令も気遣いも裏も表もないド直球さ。暴言に暴言で返して、数秒後にはゲラゲラと笑う許された間柄でしか許されないラフな会話な単純さとテンポの良さと言ったら驚くものがある。決して褒められたことではないが、ハッキリと言いたいことを言う、言いたいことを言われると分かっているからこそ成り立つ関係性の朗らかさが地元にはある。ビジネスライクな距離間を大切にしたコミュニケーションも嫌いではないが、人間同士の会話の気持ちがいいほどの単純さはカラリとしていて、それはそれでいいものである。地元の環境も、地元の人たちも好きだなぁ。帰ってきてよかったな。

と思っていたのに、突然、祖母に生前の形見分けをされたり(祖母はまだまだ元気)、同級生に遭遇したりして(地元あるある)、情緒がめちゃくちゃになってしまった。過去に存在していた無限の「もしも」と、未来に存在する絶対の「もしも」を垣間見ることになってしまい気持ちがえらいことになっている。私はフィクションの「自分ももしかしたらそこにいるかもしれない」という可能性を楽しむのが好きだが、今は自分の人生の未知数な可能性に溺れてしまいそうである。えらいこっちゃ。傍目から見れば何も変わっていないが、人の人生とはこういう少しずつの内面の変化で変わっていくのかもしれない。

まとまってないけど終わり。

登山靴を買った

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登山靴を買った。今週は仕事の繁忙期にまた別の繁忙期が重なり、毎朝早くに出社して残業して帰る日々が続いており、「どこか…どこかに行きたい…。」と現実逃避の居場所を求めていたのだ。

海外旅行はなかなかまだ難しいのと、自分のこの「どこかに行きたい」はいったい何なんだろうかと因数分解してみたところ、要は「360度を取り囲む異世界のような場所に行きたい」であり、ならばと登山をしようではないかと思い立った次第である。

数年前に長野県にある上高地に行った時から漠然と「山が好き」な自分に気づいてから、なんとなく登山を趣味にしたさがあり、そして30代を迎えた自分にとっての生涯を通じて楽しめる趣味が新たに欲しいという願いにも合致した。足腰も鍛えられるし。

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これは数年前に行った上高地。また行きたい。

 

登山靴を買った。上部分のピンクベージュの部分が可愛い。2万円超えてびっくりしたけど可愛い。店員さんに「初心者の方に『1万円くらいでないですか』ってよく聞かれるんですよね…。」と言われた。なんかごめん。そして、足首のホールドの大切さとか紐の括り方の練習とか、色々教えてくれた店員さんありがとうございました。わたしのお金が店員さんのノルマに少しでも役立ちますようにと祈らずにはいられない。

 

登山靴を買った。ゴアテックスって何かよく分からんまま買ったけど、ゴアテックスの登山靴です。そういえば店員さんに「これなら屋久島も行けますよ」と何度も言われたけど、屋久島にも行くっきゃねえみたいな気持ちになるね。

 

登山靴を買った。どこの山を登ろうか調べるのも楽しみ。日本アルプスの絶景が見たいな。いつか富士山だって登ってみたい。慣れてきたら海外の山だって行けるかもしれない。トレッキングウェアを買うのも楽しみ。靴を買うってなんかいい。

 

可愛い素敵な私の登山靴を買った。何処でも行ける気がする。

花見をしたのだ

 

夫と初めて出会ったのは数年前の春の日に行われた飲み会(ただし私と友人の2人+夫)だった。それはもう桜が「満開ですよ!」と大声でアピールしているくらい満開の日で、道を歩けば桜が目いっぱい花を開いて春のど真ん中だということを知らせている。そんな日に今の夫と出会った。

帰りの道中、友人が運転する車に乗せられ、真っ暗な道に佇む桜の木をボンヤリと眺めていた。車のライトに照らされると白い花弁がもっと白く浮き上がったように見える。確かカーブの多い道で、友人がハンドルをぐんと切るたびに満開の桜がライトに照らされてバッと現れるものだから、少し面白かった。

そう、面白かった。いい飲み会だった。素敵な人と沢山話せたし、桜は満開だし、今日は良い日だな。そんなことを酔った頭で考えていたことをよく覚えている。

夫と交際を始めて1年経ったころに「あぁ、素敵な人と話せたし桜は咲いてるし今日はいい日だな」と思ったのだと当時の思い出を話すとにっこりしてくれた。

そしてまた別の日に、

「心が荒れ模様だったのでスヌーピーか花束か甘いものを買って帰ろうと思ったんですよね。そしてこれは桜の枝です。」と桜を挿した花瓶を抱っこして夫に見せたら「貴方のそういう感性が本当に好き。」と告白された。嬉しい。

だからなのか、毎年春になり桜を見ると夫に出会ったことを思い出す。交際を始めてもうすぐ5年、結婚して4年になるが、今も昔も変わらず夫は穏やかで、にこやかで常に気分が良く、私はいまだにベタ惚れしている。彼といると楽しい。彼といるときの自分も好きなので余計に楽しい。ハッピーセットis夫。エブリディスプリング。

そんなこんなで夫とは毎年お花見をしている。それはただの花見散歩のときもあれば、ライトアップされている桜を見にわざわざドライブすることもある。今年は立派な桜並木があるらしいスポットに行くことになった。寝る前に「お弁当はどこかのスーパーで買っていく?」と問うと、「手作り弁当がいいな。」と可愛らしいことを言うので、「任せろ。楽しみにしといて。踊る準備もしといて。」と答えると、爆笑していた。実を言えば、以前から仕出し屋さんやケータリングのお弁当に憧れがあって作ってみたいと思っていたのだった。そしてさらに白状するとInstagramで参考になりそうな写真も前からチェックしていたのだ。よし、やるぞ。

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出来た。我ながらいい出来である。おかずの味もかぶらないようにしたし、漬物もある。味付けは濃いめなので白ごはんにした(本当は花見弁当らしく桜エビと枝豆の混ぜご飯などにしたかったが)。ひとつずつお弁当風呂敷に包んで紙袋に入れる。熱々の玄米茶もタンブラーに用意した。準備は万全。念のためデザートとして個包装のチョコレートも入れておく。

結果から言えば、このお弁当は大好評で夫から「美味しい美味しい。」と絶賛された(私も食べたがなかなか美味しかった)。夫の喜ぶ顔を見るのは私も嬉しい。桜並木も見事で来年もここに見に行こうかと提案された。正直なところ、「どこでもいいよ」と思ったのだが、黙っておいた。あなたがいるならどこでもいいよ。お弁当くらい、いくらでも作るよ。

その日、眠りにつく前に夫が「あぁ、楽しかった。おやすみ。」と言って布団にゴソゴソと潜り込んだ時に、毎日そう思ってもらえればいいなと心から願った。そんな私が愛してやまない夫であるが、今日はソロキャンプをするのだと外泊している。早よ帰ってこい。

 

新幹線道中に書く最近の日記

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これは、和菓子屋の壁に飾ってあった型たち。そして私が今いるのは東京に向かう、新幹線こだま号の車内である。夜行バスでは身体がもたず(そして超早朝に着いても、やることがなく結局シャワーの浴びる方ができるネカフェやらでお金を使ってしまうので)、行きの新幹線だけ「ぷらっとこだま」を利用している。夜行バスよりもやや高いが、快適かつ経済的なので気に入っている。

さて、1月にも東京に足を運んだので、前回から約2ヶ月ぶりだ。そして前回が丸3年ぶりの東京だったので感動もひとしおだったが、今回はやけにアッサリしている。人間そんなものである。

 

話題を変える。最近、最終回を迎えたドラマ「ブラッシュアップライフ」の評判があまりに良く、そして以前から友人に「面白いよー。めっちゃ懐かしい!って感じ。」とオススメされていたことを思い出したので、1話だけ見てみた。大変面白く、そのまま全話見たくなってhuluに加入した。全話見た。面白かった。

来世をオオアリクイと宣告された34歳の女性が、今世を自身の生誕からやり直して徳を積み、人間への転生を目指す話であるが、昔懐かしい「シールの交換」やら「エンジェルブルー」やら、「mixi」やらが出てきて、見ているこちらとしては手を叩いてゲラゲラ笑いながらノスタルジーを楽しめるので、是非是非、同年代の方に見てほしい。そして、主人公の行動動機が「貴方に幸せになってほしい。生きていてほしい。」という人から人への愛情からくるものなのもよい。伏線の回収の仕方やタイムリープの扱い方(舞台が東日本大震災や新型コロナウィルスによるパンデミックが存在しない現代日本である)にやや荒っぽさを感じるものの、バカリズムらしい日常会話のコメディが作品全体を明るいものに仕上げている。

くだらない会話をくだらないままポンポンと繰り広げる役者の演技はリアリティに溢れる地に足のついたものだ。そして、そんなくだらない会話をポンポンとできる主人公と友人たちの友情が美しく眩しい。私からすれば、彼女たちの「地元も、家族も、友人たちも好きで、ずっと楽しく一緒いる。」ことがある意味、理想郷のように見えるのだ。大体の人間関係は物理的距離が離れれば、良くも悪くもそれだけ離れていくもので、この作品のような関係を築けること自体が尊いものである。「ずっと前から仲の良い同性の複数の友人と、時々仕事帰りに遊べる関係」は正直なところ、めちゃくちゃ羨ましい。

絵本「100万回生きたねこ」は、100万回生きた中で心の底から愛するパートナーと出会い、失ったことで、生の輪廻から解放され、生を全うする「愛」がテーマの作品であるが、ドラマ「ブラッシュアップライフ」は、今世をやり直していくなかで、もう自分とは仲良くなれないかもしれない、かつての友人たちのために100年以上も人生を費やす献身的な「友愛」が最大のテーマである。最終話のあのエスカレーターを降りていくシーンが良すぎて(見た人は各々思い浮かべてほしい)、胸いっぱいになってしまった。

合間合間に挟まれるゲスト俳優の遊びも面白く、hulu限定の追加コンテンツも面白かったな。1週間もない短い間だけれど、何かにガッとハマって消費していくのは、久しぶりでとても楽しかった。もう1回最初から見ようと思う。めっちゃオススメです。

 

と、ここまで書いたところで、どうやらこの新幹線は新富士に着いたらしい。東京まであと少し。

 

Hulu「ブラッシュアップライフ 2周目の人生スタート」