椅子を用意する

 

例えば、心の中に空間があるとして、私は日常で関わる人全てに椅子を用意してしまう。気分を害さないように、居心地がいいように。よって、私は苦手な人ほど厚遇してしまう。嫌われないように。苦手な人が私を攻撃してこないように。冗談の皮を被って侮辱してくる人にも、ソファを用意してニコニコしながら飲み物を用意して機嫌を取ろうとする。そうしているうちに椅子がいっぱいになり、空間は酸欠になって椅子に座っている人から不平不満が出るようになると、私はそれをまともにくらってしまう。限界が近づくと私はその空間にいる人々を強制的に切るしかなくなる。そうなる前に「ご退席ください」と言えればいいのに私にはそれが出来ない。いや、そもそも嫌いな人に、不親切な人に私が椅子を用意する必要はなかったのだ。自分の大切な人にだけ用意しておけばそれでよかったのに。それに気づくのに28年間もかかってしまった。28年間も。

「だから私は疲れちゃうんだと思う。」

夫にここまでなんとか説明すると、

「なるほど。」

と短い返答が来た。夕食時の会話だったので、夫は食事の続きを楽しんでいる。口がもぐもぐと動く。

「それでね。」

私は続ける。

「私は貴方と結婚したけれど、こういうことかとようやく理解した。」

正直言って、結婚して1年経つが「結婚したんだなぁ」という実感がまるでなかった。結婚式も挙げたけれど、私にとっては「結婚式という名の私が楽しいパーティー」だったし。それが、なんとなく、急にストンと腑に落ちた。こういうことか。やっと理解した。

貴方の椅子はここにありますよ。と夫が用意してくれていたことに。此処は貴方の特等席ですよ。これからも、ずっと此処にある椅子ですよ。

「貴方があのときしてくれたプロポーズの意味ってこういうことだと思った。」

よし、言いたいことは言った。改めて夫を見る。

「うん。多分合ってる」

夫の回答にほんの少しの沈黙があった。どう答えればいいかしっかり考えていたらしい。私は夫の手を取る。ちょっとだけしっかりめに握る。

「私に椅子を用意してくれてありがとう。私と結婚してくれてありがとう。」

フフフと夫が笑う。彼の目尻にシワがよる。歳のわりに目尻に刻まれるシワの数が多い。私は彼のそんなところが非常に好きである。人より多く笑ってきた彼を好ましいと思う。

 

「貴方の椅子もあるからね。でも、貴方は寝るのが好きだからベッドとか布団の方がいいかな。」

寝る前に、出来るだけさりげなく夫に言うと返ってきた言葉はこうだった。

「嬉しいなぁ。でも椅子でいいよ。」

椅子で充分です。